第5話 <二月二日>
病院食はその患者の疾患に合わせたメニューが用意される。カロリー制限、塩分制限、子供向け、大人向け。アレルギー対応も必要で、これだけ多くのメニューを考えるのはかなり労力を要する。
だがそれだけではなく、ここ最近の病院食は選択食なるものが導入されていることが多い。A、Bのメニューから好きな方を選んで丸を付けて提出する。入院生活に少しでも楽しみを入れたい、という病院側の考慮だろう。
M病院もそのシステムが導入されていた。翌週分の選択食を候補から選んで丸を付け、病棟にあるポストに投函しておく。病院給食室のスタッフがそれを回収して……という流れだ。ちなみに提出しなければ、Aのメニューが自動的に選ばれる仕組みになっている。
M病院に勤める管理栄養士の増田亜子さんは、勤めてもう二十年になるベテランだ。子供の頃から料理を作るのが好きで、管理栄養士の資格を取った。その後このM病院に就職し、ずっと勤め続けている。
そんなある日、増田さんが仕事を一段落終え休憩しようかと思った時、同僚が話しかけてきた。
「ねえねえ増田さん、さっき選択食の紙をちらっと見たとき、変なのがあったのよ。これ見て」
同僚が出したのは見慣れた選択食の用紙だ。あらかじめ病棟名や病室の番号、氏名まで印刷されているもの。
次週の選択食の A白身魚と野菜の蒸し焼き B豚肉のトマト炒め と記してある。
その下に、殴り書きのような字が書かれていた。
『そこに いするぎみさとはいますか』
「……何これ?」
増田さんは首を傾げた。
鉛筆のようなもので書かれたらしい。強く押し付けたのか、途中で芯が折れたような跡がついている。また、こすれて字が少し滲んでいた。字はお世辞にも綺麗とは言えない癖の強い字だった。
選択食については何も書かれておらず、そのメッセージのみ記載されていた。
「さっき回収してきたやつなんだけど、なんか怖くない? 字が普通じゃないのよ」
「いするぎみさとって、人の名前でしょう?」
「うちにそんな人いないけどね。なんでこんなメッセージを書いたのかしら」
「これ、元々誰の紙なの?」
氏名を確認してみると、『肝胆膵内科 森田明代』と書かれている。
増田さんは近くにあるパソコンで、森田明代のこれまでの食事を調べてみる。彼女は毎回選択食を選んで用紙を提出しているようだった。
「今までも出していたみたいだけど、メッセージみたいなのが書いてあるのって初めてよね?」
「そうだと思う。こんな変な殴り書きがあったら、話題になるもの」
「今回はAかBか丸もついてないし……」
増田さんは腕組みをして考える。用紙を提出しなければ全員Aの料理を提供することになっているが、今回は提出はしているが未選択。普通ならAを提供しておけばいいだろうが……。
「ちょっと病棟に電話して看護師に聞いてみますか」
何となくメッセージが気になった増田さんは、内線を使って病棟に連絡することにした。すぐ近くに設置してある白い電話を手にし、肝胆膵内科の番号を押す。相手はすぐに出た。
『はい、肝胆膵内科、看護師の山田です』
「あ、給食室です。すみません、そちらに入院中の森田明代さんの選択食の用紙が提出されているのですが、AかBどちらも選んでなくて。このままだとAになりますが、それでいいか本人に確認してもらえますか?」
増田さんがそう説明すると、電話口の看護師は少し黙った。電話の向こうで電子カルテを開いているらしい。そしてすぐに答えた。
『ああ……森田さんの食事を止めてなかった! すみません、森田さんは今危篤状態なので食事を取れる状態じゃないんです。食事の入力を変更できていませんでした、すみません』
「えっ……そうなんですか。あの、いつからそのような状態に? 今日、選択食の紙を提出されていたんですけど……」
『……昨日の夕方から意識がない状態なので、提出しているはずがないと思うのですが……』
看護師はやや困ったようにそう言った。
選択食の用紙は朝と夜、回収する。先ほど回収されてきたということは、昨日の夜から今日にかけて提出されたはず。でも当の本人は提出できる状態ではなかった。
増田さんは受話器を持ったまま、近くに置いてあるメッセージ付きの紙を見た。なんとなく、この文章については触れてはいけない気がした。
「……そうですか。わかりました、ありがとうございます」
増田さんはすべての言葉を呑み込んでそれだけ言うと、電話を切った。何があったのか聞きたそうにしている同僚に何も答えず、無言で紙をぐしゃぐしゃにした。
「どうだった?」
「……いたずらだろうって」
増田さんは無理やり笑ってそう答えた。
結局、選択食の用紙に変なメッセージが書き込まれたのはこれきりだった。
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