浄化
碇さんの真っ黒になった手が私に触れようと伸びてきた。私はその黒い手を取った。私には魂の器がある。今使わないで、いつ、使うのか。
────雲雀さん、やっぱり勝手して、ごめんなさい。
「でも私の担当は、絶対に!悪霊堕ちさせません!」
私は碇さんの触れられない黒い手を優しく包んで目を閉じた。
冬風が私の前髪を撫でる。私は、私の中にある器をはっきりと感じた。以前よりずっと確実にそこにあるのがわかる。
誰かさん、こちら。手の鳴る方へ。風が吹いたら、こっちへおいで。
私が胸で唱え、ぱんと両手を打つ。すると、私の中へ碇さんだった黒いものが入り込む。胃の中に生物が蠢く感触で悪寒がする。
シネリノシネイキる。キライ、アイ、キライ死ネキライきらい嫌いキエロ僕。
私の器を這いまわる悪意。憎悪。恨み。碇さんの意識が入り込んで、私が、飲み込まれてしまいそうだ。頭を中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、両膝が地面についた感触がする。
意識が吹っ飛んだら、身体を取られるのがわかる。立っていられない。今どうなっているか、目も見えない。私は私の中の感覚だけに溺れていく。
いつも雲雀さんが助けてくれる。幽霊が持つ気持ちと、私の波長を合わせてくれる。でも今は一人だから、私が全部、碇さんの気持ちを、受け止めるのだ。
私は激しい眩暈と吐き気、脳みそがミキサーされる苦痛に耐えながら、私は私の器を侵食する碇さんに語り掛ける。闇に堕ちる碇さんに何を言えばいいかは、わからなかった。
でも私のくちゃくちゃの脳みそに、ふと湧いた。雲雀さんが幽霊に伝える最大限に優しい言葉。雲雀さんがそれを言いたくなる気持ちが痛いほどわかって、私もそれを、伝えたくなった。
「碇亮太さん、本当によく頑張りました」
私の中にある碇さんを蝕む音がぴたりと止まった。
碇さんはがんばってきた。悪いことなんて何も、したことがない。世界の片隅でひっそり真面目に愛する人を愛して生きて来ただけ。
「ただ懸命に、生きてきた。だから最後くらい、良い目をみて良いです。成仏、しましょう」
もうただの黒い何かの碇さんが私をまっすぐ見てくれた。その一瞬、私の器が彼を包みこめた。
誰かさん、こちら。手の鳴る方へ。風が吹いたら、あっちへお行き。
あっちは陽が差すとこだから。
自然と言葉があふれ出る。ぱんと手を打つと、私の前髪が風に揺れた。
すると私の中に籠った黒さがふわりと飛び出した。私は目を開けて、私が広げる両掌の上にある光を知った。淡く、儚く、あったかいふわふわの光だ。
これが、浄化の光。
私は誰もいない天空公園の展望台に一人座り込んだまま、その光を空へ放った。天空へ上って行く光を仰いで、仰いで、もっと空高く、と追い続ける。
「よく……がんばりました……!」
空を仰ぎ過ぎた私は頭の重さに耐えきれず、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
固い地面に着地するはずだったのに、ぽすっと何かに受け止められる。慣れ親しんだ、聞きたかった声が降って来る。
「勝手なことしやがって」
「……雲雀さん」
背中から倒れ込んだのを雲雀さんが受け止めてくれたようだ。ゆっくり地面に寝転がされる。眉間の皺が深い雲雀さんも光が上って行った空を見上げた。私は捻り切れそうな頭痛を抱えたまま、空を指さした。
「雲雀さん、見てください。あの光、綺麗ですよね?」
雲雀さんは私をちらりと見下してから、空を見上げた。
「ああ」
雲雀さんが来てくれた安心感と、雲雀さんの意外と素直な共感に満足した私は意識を手放そうとした。起きたらきっとめちゃくちゃ叱られる。
「チッ、女の身体に傷つけさせやがって」
不穏な言葉。意味を聞きたいのに、私はもう動けなかった。
どれくらい眠っていたのか。寝がえりを打って徐々に覚醒する。私は寝すぎてだるい身体の重さより、圧倒的な痛覚の悲鳴に跳び上がった。
「痛いッ!!なにこれ!」
私が飛び起きたのは幽霊館のゲストルームだ。大きな窓のカーテンは開いていて、明るい陽がシャンデリアのついたゲストルームを爛々と照らす。
ふと見上げるとベッドの傍らには雲雀さんが足を組んで座っていた。じろりと鋭い視線に刺される。
「寝起きがうるせぇ」
「サーセン!」
起きたら怒られる覚悟だったのですぐに謝る。ジンジン痛む右耳に手を当てると、耳に違和感があった。
右耳に触れると、ピアスが刺さっている。
ばたばた立ち上がってアンティークの鏡台を覗き込んだ。私の右耳には大きな黒いピアスが刺さっている。
「何ですかこれ?!」
「今度、俺に歯向かったらどうなるか。わかってただろ?」
ベッドで足を組みかえた低い低い威圧の声に、きゅっと胃が小さくなりながら私は答えた。
「く、首輪つけるんでしたっけ?!いやいやでも女子の首ってのはこう聖域みたいなものですし?!え、ぎゃ!」
私がベッドに座る雲雀さんの前でわーわー言っていると、カクンと膝が抜けた。うっかり雲雀さんの胸にぼすっと倒れ込んだ。
雲雀さんがため息と共に私を受け止める。
「ピアスにしといてやったんだから、優しいだろ俺は」
「いやでも、無許可ですよ?!」
膝に力が入らない私は雲雀さんに受け止められたまま、口だけは元気に抗議する。
「許可取っても人の耳に穴開けるとかなかなかしないですよ!しかもこのピアス!」
まだ力が抜けているのは仕方ない。もうギャアギャア喚くのが先だ。雲雀さんが私を介護して動かしてくれないと、どうせ動けない。
「まっさらな女子にぶっ刺すにしては太すぎません?!」
ガチャリとドアが開いた。あらまぁと口元に手をやった犬飼先輩が笑う。
「今のギリギリアウトな会話っスね!」
「雲雀君……セクハラは勘弁してくれ……!」
犬飼先輩と共にやってきた課長が額を手で覆って嘆いた。犬飼先輩がハハッと笑いながら課長の背を叩いてゲストルームに入ってきた。
雲雀さんが私の両脇を掴んで持ち上げ、ベッドに放り投げる。介護ももうちょっとやり方があると思う。
私の背中にクッションが入れられて、私はベッドに座った。ベッドの周りに成仏課の面々が揃う。課長が口火を切った。
「依月君の活躍で、無事に碇君が成仏できて助かったよ」
「だいぶスペクタクルだったから、みんなてんやわんやしたッスけど!事後処理はこっちで全部やっといたッスから!」
「あ、ありがとうございます!」
犬飼先輩がオッケーと笑うが、課長は豊かな眉を顰めて首を振った。
「依月君の才能について、私はよく知っているんだ。優しい依月君が、あの場面で力を使わない理由はないとわかる。無理をさせてしまって……依月君に消えない傷を与えてしまったこと、心から申し訳なかった」
課長が深々と黒のオールバックの乱れない頭を下げる。私は慌てて両手を前に出した。
「や、やめてください課長!私が、勝手にやったことなんですから!私が謝らないと……というか、消えない傷って何ですか?」
「ピアスッスよ!」
私のベッドの脇に座ったままの雲雀さんが足を組みかえる。雲雀さんが首をくいと動かすと犬飼先輩が説明を始めた。
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