莉乃さん

 翌日、私と雲雀さんで、碇さんを連れて警察病院を訪れた。


 日中の見守り担当は警察庁から派遣された女性警察官の里中さん。背が小さくて睫毛で風を起こせそうなほどマスカラがぶ厚く、ぷりっとしたお胸につい目が行くスタイルだ。私は病室の前で里中さんに挨拶した。


「お疲れ様です、里中さん」

「おつかれデース」

「どんな感じですか、莉乃さん」

「変わらずって感じ。莉乃ちゃんは食べて吐いてで、点滴飯オンリー。動かないし話さないしホント暗くて暇。あ、アタシ化粧直ししてくるね~」


 ぷるんぷるん胸を揺らしながら里中さんが去っていく。雲雀さんがぼそりと言う。


「見守りは別の奴に変えた方が良い」

「え、どうしてですか」

「ああいう奴はやらかす」


 雲雀さんの言いたいことは直感的に理解できた。里中さんは軽薄というか言葉選びが雑だ。だが、警察庁からの派遣人員だ。特段の問題を起こしていないうちに、替えてくれなんて申し出はできない。


 雲雀さんが莉乃さんの病室のドアをノックして入っていく。気を取り直して、私も続いた。


 私は課長から預かった指輪を握り締めて、莉乃さんが座っているベッドの横に立った。私は女性なので莉乃さんも警戒が少ないだろうと指輪を渡す役目をもらった。莉乃さんの隣に碇さんも腰かけた。


 この指輪が衰弱していく莉乃さんが立ち直る、一助になればいいのだが。私は莉乃さんに優しく声を放つ。


「莉乃さん、今日はこれを渡しに来ました」


 ますますやつれていく莉乃さんは、ぼんやりと灰色の瞳を私に向けた。頬にかかる黒髪が影を濃くする。私は莉乃さんの手にシルバーのシンプルな婚約指輪を手渡した。指輪の内側には英語で「天空で永遠を誓う」と刻まれている。


「これ、亮太の……?」


 莉乃さんの目に小さな光が差して、指輪の内側を確認する。莉乃さんは左手の親指に碇さんの婚約指輪をはめて、薬指と親指の両方についた指輪を眺めた。


「亮太の指輪は、私の親指のサイズなの……これ、本当に亮太の……」


 ようやく莉乃さんの死にたい以外の言葉が聞けて、私は小さく息をついた。莉乃さんと一緒にベッドに腰かけていた碇さんも、莉乃さんの左手に手を重ねて柔く微笑む。


「莉乃のあったかい手に、指輪だけでも帰ってこれて……嬉しいよ」


 碇さんは微笑み、莉乃さんの指にキスした。しかし、莉乃さんの顔がぐちゃぐちゃに丸めた紙のようにクッと歪み、おもむろに指輪を外してしまう。


「いらない!」


 莉乃さんはむんずと握った指輪を、私の顔に向かって投げつけた。


「え……」


 あまりに予想外で、顔に直撃しそうになった指輪に反応できなかった。ぬっと大きな手が私の視界を防ぎ、雲雀さんの手の平に指輪が収まった。雲雀さんが私の顔をガードしなかったら、指輪が目に直撃だった。


「そんなものいらないいらないいらない!」


 莉乃さんは両手の爪先でガリガリガリガリと自分の頬を何度も搔きむしり、バチンと弾けるがごとく叫び狂った。


「わざわざ指輪なんて探してきて、それがあるんだから諦めろって?前向けって?生きろって?!バカじゃないの!」


 莉乃さんの格子付きの窓を震わせる叫びは止まらない。


「亮太がいいの!亮太じゃないと意味ないんだよ!もうどっか行ってよ!あんたらずっとアタシのこと見張ってなんなの!ほっといてよ!」


 莉乃さんの想いが空気を震わせて、刺さって、痛かった。ワァアアと莉乃さんが泣き叫び、両手を振り上げて命綱の点滴を引きちぎってしまう。


「もう何もない!私には何にもないの!死なせてよ!死にたいんだよぉ!!」


 格子付きの病室に満ちる莉乃さんの叫びは真っ黒。第三者の私から見てももう未来が見えなかった。看護師が急行し、私と雲雀さんは部屋から強制退場。興奮させるなと医師からも叱られた。


 碇さんは莉乃さんを抱きしめ続けていたが、雲雀さんに物理的な力で引っぺがされてタクシーに突っ込まれた。


 幽霊館を目指して幹線道路を走り抜ける帰りのタクシーの中で、私と雲雀さんの間に座った碇さんは──嬉しそうに、笑っていた。


 雲雀さんは碇さんを鋭く睨む。


「おい、碇。お前は、莉乃がお前の後を追って死ねば満足なのかよ」


 私は雲雀さんのドストレートな質問に冷や汗が噴き出るのを感じた。私は何か下手なことを言うと逆なでしてしまいそうで、碇さんと距離があった。


 しかし、雲雀さんはガンガン壁を蹴り破る。碇さんはきゅっと笑みを閉じ込めた。


「誰も彼もが君みたいに強い生き物じゃないんですよ。僕だって君みたいに自信に満ち溢れて人を見下すような態度を平気でとれるような強者になりたかった」


 碇さんも莉乃さんと同じように爪で頬をカリカリ激しく掻きむしりながら、小さい声でぼそぼそ早口で呟いた。


「でも強くないから教室の片隅で社会の片隅で静かにしてたのに……強者は弱者を決して見逃さないんですよ。強者は弱者を捕えて死ぬまで食い潰す。僕と莉乃は食い尽くされてきました」


 碇さんの声にはブラックな職場から逃げることも抗うこともできなかった恨みが滲んでいた。受付課が調べた碇さんと莉乃さんの生育歴には虐待やイジメの文字もあった。碇さんは奪われ続けてきた。


「そんな僕らは互いに支えあっていたんです。支えが無くなって倒れるのは当たり前でしょう」

「遺された莉乃が一人で生きていけるように、支えを残してやるのがお前のやることじゃないのかよ」

「莉乃は僕しかいらないんです」


 己の弱さを受容した仄暗い瞳を抱えた碇さんの声は細いのに、決して曲げることができない頑なさがある。


「僕が莉乃を殺したいわけないでしょう。でもこうなった僕に、今さら何が残せると言うんですか。苦しむのは見ていられない。愛してるから苦しみを終わらせてあげたい、それだけです」


 雲雀さんはチッと憚らない舌打ちをして、窓の外を見てしまった。話は頓挫。碇さんは弱々しそうな顔をしているが、内に秘めたる執着は苛烈だ。

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