希望
夜の帳が下りた大聖堂の扉が開き、一歩足を踏み入れると、長いバージンロードの先に荘厳な祭壇が待っている。
天高いアーチ型の天井にはシャンデリアが揺らめく。聖堂の壁面を全て埋めるほど壮観なステンドグラスが、キャンドルの灯りを受けて神秘的な色を落としていた。
そんな神聖な空間にパイプオルガンが奏でる音楽が満ちた。杏梨さんが選び抜いたドレスをまとい、静かに歩みを進めるたび、裾がふわりと揺れ、光を受けて輝く。雲雀さんは私を背中に乗せて、杏梨さんを白髪の神父の前まで導いた。
雲雀さんと杏梨さんが神父の前に立つ。神父の厳かなる声が響き渡った。
「病める時も健やかなる時も、この女性を愛し、慈しむことを誓いますか?」
誓いの言葉が響き、雲雀さんの低い声が迷いもなく答える。
「誓う」
「誓うんだ?!まさか雲雀さんがそこまでしてくれると思わなかった!」
杏梨さんがアハハと笑った。私も雲雀さんの背中に乗ったまま、ちょっと笑ってしまった。
絶対、神になんて誓わない男だろう。
口だけなのが丸わかりだ。
神父は首を傾げ、杏梨さんはまだ笑っていたが、雲雀さんは笑わない。
「杏梨が健やかになるためなら、何でもしてやるよ」
雲雀さんの思ったより真剣な声に私と杏梨さんは黙らされた。
雲雀さんの想いを受けた杏梨さんは、へにゃっと口を曲げて眉も曲げて、目に涙を浮かべた。杏梨さんの声が震える。
「へへっ……今ちょっとだけ、本物のお姫様になった気がした」
杏梨さんはベールを被ったまま俯いてしまった。神父が杏梨さんに誓いの言葉を促す。
「病める時も、健やかなる時も、この男性を愛し、慈しむことを誓いますか?」
杏梨さんはしばらく沈黙した。深い息をした杏梨さんは俯いた顔をゆっくり上げて、大聖堂に満ちる静けさを切り裂く声を上げた。
「誓いません!」
私はえ、と口を開けて目も見開いた。杏梨さんは雲雀さんからパッと手を離す。
杏梨さんのばっちりメイクの大きな瞳から、大粒の涙がぼろっと一筋だけ頬に落ちた。杏梨さんは雲雀さんをまっすぐ見つめ、決意を叩きつけるようにキッパリ言い切った。
「次の人生で!本当に好きな男に誓いたいから!ごめんね、雲雀さん!誓えないわ!」
雲雀さんはハッと声を上げて笑った。
「フラれたな」
雲雀さんのこんなに機嫌の良い声は、初めて聞いた。私の喉にうっと涙がこみ上げ、杏梨さんの涙と共鳴した。
「ありがとう、二人とも。次の人生への夢をくれて……!」
杏梨さんは勢いよく自分でベールを上げて、遮るもののない高い天井を見上げる。煌くステンドグラスの光に向けて杏梨さんは泣き叫んだ。
「今度は絶対!幸せになってやるんだからー!!」
杏梨さんはこの式で愛の誓いではなく、次の人生への誓いを打ち立てた。私は幽体の身体で、精一杯に拍手を送った。杏梨さんの次の人生への多幸を願って。
憑依を解き、ウエディングドレスを脱ぎ捨てた杏梨さんを幽霊館の成仏ゲートの前に案内した。杏梨さんは今すぐにでも旅立ちたいと言ったから。
幽霊館の三階、月夜に照らされた成仏ゲートは今宵。優しい白さに満ちている気がする。杏梨さんを迎え入れるとでも言うように、成仏ゲートが自然に開いた。左半分だけの身体の杏梨さんが雲雀さんに向き合う。
「もうあいつのフィギュアとか、他の復讐とかどうでもいいから」
「わかった。徹底的にやっといてやるよ」
黒ハイネックスキニースタイルに戻った雲雀さんは、ポケットに手を突っ込んだまま人の話をまるで聞かない。杏梨さんはクスクス笑った。
「雲雀さんがあいつを徹底的にボコってくれたの……私が暴力を諦めるためだったよね。それも、ありがとう」
「あいつはムカつく顔だったからな。良いストレス解消になった」
「雲雀さんって素直じゃないよね」
杏梨さんは雲雀さんの肩をぱんぱんと叩いてから、私に片手を広げてハグを求めてくれた。私は触れられない杏梨さんの身体を包み込むように抱きしめた。温度も感触も何もない。気持ちだけのハグ。
「野々香ちゃん、一緒にドレス選んでくれてありがとう。最後に野々香ちゃんと遊べて楽しかった」
「……ふぁい!」
杏梨さんの旅立ちがとても嬉しくて、でもちょっとだけ寂しくて。涙がこみ上げた私の声は滲んでしまった。杏梨さんは私の背中を軽く叩いて微笑む。すごくすっきりした顔だ。
「泣かないでよ、野々香ちゃん!嬉しくなっちゃう!」
杏梨さんはにやっと笑って、私にこっそり耳打ちした。
「雲雀さんって捻くれてるけど、イイ男だよ。野々香ちゃん狙っちゃえば?意外とおすすめ」
私は予想外な言葉にぎょっとして声を大きくしてしまう。
「杏梨さん?!今度はアングラに捕まらないでくださいよ?!」
「アハハ!私はふっくらした王子様が好みだから大丈夫!」
杏梨さんはふわっと浮き上がり、私にピースしながら白い扉へ勢いよく向かって行った。
「次の人生、楽しみだわ!行って来るー!」
「杏梨さん!絶対、絶対、幸せになってくださいね!」
「うん!」
杏梨さんは笑顔で白い扉に満ちる光の中へ消えて行った。私は涙をこらえて、ぶんぶん大きく手を振った。
「絶対!ぜったい……!」
成仏ゲートがばたんと閉じると同時に、私の瞳は決壊した。我慢していた涙がぼろっと零れ落ちて、杏梨さんの幸せを願う気持ちであふれ返った。
「……よく頑張ったな、杏梨」
白い扉を見つめる雲雀さんの小さな呟きが私の胸をさらに押し上げる。いつもの雲雀さんからは考えられないほど柔い声。雲雀さんは赤ちゃん幽霊の勇気君が旅立ったときにも同じことを言っていた。
雲雀さんが心から幽霊の健やかな旅立ちを願う人なんだとわかってしまう。杏梨さんが旅立ってしまってから、そんな優しいこと言うの、遅いじゃないか。でもそれが、雲雀さんか。
「野々香、覚えてろ。幽霊の未練を晴らすのはいつだって、次の人生はきっとっていう……希望だ」
「……ウッス」
腕でごしごし涙を拭ってずびずび鼻水を吸う私の隣で、雲雀さんが一つ、安堵の息をつく。
「泣き止め。杏梨は幸せになりに行ったんだからよ」
「ウッス、雲雀さん!」
私がシャンデリアが月光に煌く天井に向かって大きな声で返事をすると、なぜか身体からふっと力が抜けた。
「あれ?」
ガクンと倒れる私の身体を雲雀さんの腕ががっしり受け止める。涙は引っ込み、私は唖然とした。
「え、何ですかこれー!」
意識はばっちりあって、口も元気なのに全身の制御だけを失った。
「一日中、憑変化してたんだぞ。今まで歩いてた方が異常だ」
「え?!そうなんですか?!」
脱力しきっていて全く動かせない私の身体を、雲雀さんがひょいと肩の上に抱え上げる。私は安定した雲雀さんの肩の上にだらんとしながらブツクサ言った。口だけはまだ元気だ。
「米俵じゃないんですから……もうちょっと優しく……」
「あぁ?なんか言ったか?」
「サーセン、お手数おかけします」
「わかりゃいいんだよ」
雲雀さんが私を荷物のように運びながら、大階段を下りていく。私は雲雀さんの歩くリズムとともに、肩の上でゆらゆら階段を下ろしてもらいながら言った。
「雲雀さん……事務所がある二階を通り過ぎました!」
「早く言えバカ」
なんとか二階に帰り着き、事務所横のゲストルームのベッドへと投げ落とされた。ダブルベッドにボフンと身体が勢いよく沈む。もっと部下に優しくても良いと思う。雲雀さんがベッドの横に立って動けない私を見下ろす。
「寝ろ。お前なら寝たら治る」
「ウッス」
そういえば重かった目蓋を閉じてそのままベッドの柔らかさに身を委ねた。雲雀さんの気配はまだ感じていたが、そのうち帰るだろう。家に帰りつくかはもう面倒見切れないが。
私は眠りに落ちて、杏梨さんとカフェでお茶をする楽しい夢を見た。
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