悪霊

 今度は私が先導して、やっと勇気君の自宅マンションに到着した。緑に囲まれた分譲マンションはまだ新しくて、エレベーターで子ども連れの家族とすれ違った。勇気君もこれからああやって元気に育つはずだったのに、と思ってしまう。


 人間は私と雲雀さんだけのエレベーター内で、注意が飛ぶ。


「幽霊館は公的な裏組織だ」

「やっぱり……就職前に守秘義務の書類に署名手続きとかありましたもんね」

「幽霊成仏課から来たなんて、一般人に言うんじゃねぇぞ」

「ウッス、雲雀さん」


 幽霊なんて公的にはいないものとされているはずなのに、役所として非公式に幽霊館があるのだ。言ってはいけない組織だとう薄々は感じていた。


 雲雀さんが裏組織に所属しているのがあまりにも似合いだ。


 エレベーターを下りて、勇気君の自宅のインターホンを押した。押してから気づいたのだが、何て名乗ればいいのだろうか。


「はい、どなたですか」

「あ、あの私、依月野々香と申しまして」


 ドアから顔を出したのはま20代の女性で、痩せて浮き出た鎖骨が彼女の疲労を物語っている。私の背後で雲雀さんに抱かれた勇気君から明るい声が上がった。


「まーま!」


 勇気君の声が聞こえない勇気君のお母さんは、私を見て首を傾げている。雲雀さんは何も言わない。え、私がこれ切り抜けるの。


 幽霊成仏課というのはダメ。だけど、いきなり訪ねて来て勇気君のこと聞いても不自然ではない訪問者を装えってことか。そんなの頭回らない!そんなに頭が良かったら警察官試験落ちてないから!


 私が固まっていると勇気君のママが、あっと気づいて声をかけてくれた。


「病院のナースエイドさんですか。勇気にお線香上げに来てくれるって聞いてます。私、自分のことばっかりで、エイドさんの顔まで覚えてなくて……ごめんなさい」

「いや、そんな」

「中へどうぞ」


 ママさんがナイスな勘違いをしてくれたので便乗した。深く考えずに流れに乗るのは体育会系お得意の処世術だ。私は玄関にお邪魔しながら、上司の雲雀さんを恨めしく睨む。


 新人にはまず前線に立たせるなんて、絵に描いたような実践主義だ。だが、戸惑いはするが、そういうやり方は嫌いじゃない。柔道でも、実戦で学ぶことは練習の十倍多い。でも役所OLがこんな潜入捜査的なことするなんて知らなかった。


 ナチュラルカントリーなインテリアにまとめられた、可愛いリビングの奥に案内された。


「そこが仏壇です」


 リビングのすぐそばにある和室に、ホワイトの愛らしい仏壇があった。私たちは仏壇の前に腰を下ろした。私は仏壇の作法がわからなくて固まる。


 だが、雲雀さんが体幹がエグそうな背筋を伸ばしたまま隣に正座した。迷うことなく線香に火をつけ、綺麗に手を合わせる。大人の所作だななんて思いながら、倣った。習うより慣れろ。私は今日から、社会人。大人だ。


 仏壇には勇気君の笑顔の遺影が飾られ、仏壇の周りにはおもちゃや服、靴まで供えられていた。勇気君は雲雀さんから離れて、紅茶を淹れ始めたママさんの背中にくっついていた。


「まーま」


 ママさんに姿を見てもらえなくても、声が聞こえなくても、そばにくっついてふふっと微笑む勇気君を見ると胸がきゅっと縮んだ。


「わざわざ来て頂いて、ありがとうございました。たくさんの方に手を合わせてもらって、勇気も喜んでいると思います」


 ママさんにリビングテーブルにどうぞと言われて座り直し、紅茶にクッキーまで振舞ってもらった。雲雀さんが私に耳打ちする。雲雀さんが近寄ると大中小様々のピアスがついた耳にぶつかりそうだ。


「勇気の未練に心当たりがないか聞け」

「ウッス、雲雀さん」


 勇気君は仏壇の前に座り込んでおもちゃを眺めていた。私は雲雀さん指示のもと、斜め隣に座ったママさんに顔を向けた。まず距離を埋めようと目についた話題を振ってみる。


「勇気君はにゃんにゃん丸が好きだったんですね」


 ママさんは仏壇へ視線を向けながら疲れた顔で微笑む。先ほどから勇気君が見つめているおもちゃにデザインされているネコのにゃんにゃん丸は、小さい子どもに大人気の国民的キャラクターだ。私も小さい頃に好きだった。


「ええ、亡くなる前ににゃんにゃんミュージアムにも連れていくことができたんですよ」


 ママさんが紅茶に深く息を吹きかけて一口飲む。リビングを見回せば、部屋中に飾られた勇気君との思い出の写真。ママさんとパパさんに抱っこされた勇気君がにゃんにゃん丸の着ぐるみと一緒に写っている。


 写真の中の勇気君は、抱っこされてにゃんにゃん丸滑り台で遊び、にゃんにゃん丸に抱っこされて一緒に踊り、お土産ににゃんにゃん丸の靴を買っていた。漫喫した時間が流れていた。


「勇気はずっと寝たきりでしたが。親としてはできることは、できる限りしてあげられたかなと思っています」


 ママさんが穏やかに笑う。勇気君はとても愛されていた。ママさんは病気の勇気君に付き添い続けて、やってあげたいこと、勇気君がしたいことは全てやりきってあるのだろう。


 こんなに愛された果てに残った未練とは、何だろうか。唐突な別れではなく、死期が見えていた病死だった。ありがとうもさよならも、たくさん言い合えたはず。


 雲雀さんは一言も話さず立ち上がり、もう一度仏壇に手を合わせに行った。仏壇の前の勇気君が座り込んだまま、まだじっとおもちゃを見つめている。


「熱心に手を合わせてくださって、嬉しいです」


 ママさんは雲雀さんを見て少し笑い、私に勇気君との思い出話をたくさん聞かせてくれた。でもその中に、ああしてあげたらよかったという後悔の念はひとつもなかった。


 勇気君の家を出ると、もう夕暮れ時だった。


 暮れなずむ遊歩道を雲雀さんが先導して歩く。家を出る前、勇気君はママさんといたいと言うようにふにゃふにゃ泣いていたが、雲雀さんに強制的に抱っこされて連れて来られた。


 幽霊は成仏するまで、成仏課が監視下に置くのが決まりだと雲雀さんは説明した。勇気君は泣き疲れたのか、雲雀さんの腕の中で眠っていた。


 今回の訪問では成果が得られなかった。目に涙を滲ませたまま眠る勇気君を見て、ふと不安が過ぎる。これからどうなるのかと。


 私は雲雀さんの隣に立って、赤く染まる雲雀さんの横顔を見上げた。


「雲雀さん、未練が果たせなかった幽霊はどうなるんですか」

「49日以内に未練が果たせなかった霊は、悪霊堕ちだ。どんなに無垢な霊でも、理性を失くし、ただの害に成り下がる」


 悪霊堕ち、なんてそんなことがあるのか。初めて聞く単語だが、幽霊を知ってしまった以上、悪霊がいるのも自然なことだと思えた。


「悪霊って……どんなことをするんですか」

「人間を殺す」

 

 雲雀さんの端的な説明に胃がウッとなる。あまりに生々しい。


「悪霊は普通に暮らす人間にとって害でしかない。幽霊館は悪霊の発生を徹底的に防ぐための組織だ」


 幽霊館は警察とは違う形で、市民を守っているということか。勇気君が悪霊になるなんて信じられなかったが、そんなの絶対ダメだということはわかった。私がよくわかったと頷くと雲雀さんが続ける。


「俺の担当は、絶対に悪霊堕ちなんてさせねぇよ」


 勇気君を抱き直す雲雀さんの力強い宣言に、私はにっと頬が上がった。雲雀さんは幽霊をお客様やただの案件ではなく「自分が責任を持つ存在」として扱ってるのがビシッと伝わった。それは正直すごく、グッときた。


「私もできること全部!がんばります!っていうか、雲雀さん、ここさっきも通りましたよ?」


 雲雀さんがふと立ち止まり、私を睨む。眉間の皺が海より深い。


「俺は迷うんだよ」

「初めて行く場所どころか、帰り道もわからないんですね!了解です!」


 雲雀さんの部下教育方針はまず説明してではなく、まずやってみろ。それはわかった。だが、病的な迷子体質です、くらいは最初に言っておいてもいいのではないか。

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