第4話:白昼夢
◆
雨が降っていた。
はたと気付くと、私は一人で廃屋で椅子に腰かけていた。少し離れた場所に、古びたピアノがある。
私は立ち上がってそちらに近づく。どう見ても、弾くことが不可能なピアノだ。完全に壊れてる。それなのに、私の耳には確かにショパンのエチュードが耳に残っていた。
廃屋にいるのは私一人だった。あの少女はどこにもいない。
そもそも、最初から彼女はここにいたのだろうか。
「白昼夢か……」
私はつぶやいた。
それは、恐怖体験と呼ぶには穏やかで優しい時間だった。幻覚と呼ぶには真に迫っていた。でも、現実ではないと言われればうなずかざるを得ない。
廃屋に一人でいる少女。彼女の手によって、壊れたはずのピアノから優しいメロディーがあふれ出たのだ。
雨はまだ降り続いている。けれども、私はここにいてももう意味がないことを悟っていた。
それでも未練がましく、私はそっとピアノの前の椅子に手を置いた。気のせいか、かすかな人肌のような温もりを感じた。
その時、私は奇妙なことに気づいた。椅子のそばに、何かが落ちている。拾い上げて見ると、それは小さな色あせたメモ帳だった。
私はおそるおそるページを開く。
『あなたの名前を教えてください』。そう書かれていた。
誰かのいたずらなのか気まぐれなのか。私自身、こうしたいたずらに心を躍らせるには大人になってしまった。しかし同時に、子供のための本を書く以上、こうしたことに胸が高鳴らないようでは作家として朽ちていくことは分かっていた。
だから私は、持っていたボールペン(手帳と共にいつも持ち歩いてる。アイデアを書きとめるためだ)でその下に名前を書いた。『加納修次』と。
メモ帳を閉じ、落ちていたのと同じ場所に置いた。振り返らずに私は廃屋を後にして、傘を差した。
頭の中の熱は冷めていた。通りを行く人は影法師ではなく、私と同じ生きた一人の人間に見えていた。
少しずつ、私は自分の連載が頓挫したことを受け入れることができてきた。
また次の物語を書いていこう。
あの少女が私にとってのなんだったのか、それは分からない。もしかしたら、また会えるかもしれない。それとも、一生このまま会うこともなく終わるのかもしれない。
雨が逢わせた、不思議な出会いだった。
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