第3話:あの気難しいピアニストの顔を思い浮かべる
◆
「驚かせてごめん。私はなんとなくここに来ただけなんだ。すぐに帰るよ」
私の現状は、どう見ても大人の男性による廃屋への不法侵入だ。少女からすれば警戒して当然だろう。下手をしたら防犯ブザーを鳴らすかもしれない。
私は少女を恐がらせたくなかった。幽霊でないと分かり、彼女は丁重に扱いたかったからだ。
「別にいいですよ、帰らなくて。一緒に雨宿りしましょう」
意外な言葉だった。てっきり不審者扱いされて追い払われるかと思ったのだが。
少女は私に興味がないらしく、視線を再びピアノの鍵盤に戻した。しかし、弾くことはない。いや、そもそも長年放置され、調律もされていないピアノだ。弾くという行為に応えられるわけがない。
少女から許可が下りたので、私は彼女から少し離れたところに放置された椅子に腰かけた。
私の体重を受けて、椅子が軋んで音を立てた。生身の私だ。実体があり、体温があり、重みがある。その証拠が椅子の軋みだ。
一方で、ピアノの前に座る少女はひどく現実感がなかった。彼女は何もしない。そして会話もなかった。雨の音だけが聞こえてくる。
私は廃屋の窓を眺める。曇ったガラスの向こうに、雑草で覆われた庭がある。まるでここは水族館だ。窓ガラスの向こうは水槽。あるいは、私たちのいる場所の方が水槽なのかもしれない。
「ピアノで、どんな曲が好きですか?」
いきなり少女がそう言った。私がそちらを見ると、彼女はこちらを見ていた。私に質問しているらしい。
「バッハのゴールドベルク変奏曲。それも1981年のグレン・グールドの演奏が一番好きだよ」
私は即答した。
あの気難しいピアニストの顔を思い浮かべる。世の中のすべてが気に食わないと言わんばかりの
「どうして好きなんですか?」
少女は重ねて尋ねてきた。
「そうだな……」
私は考える。まさか会話が続くとは思わなかったし、彼女の方から話題を振ってくるとも思わなかった。
私がグールドのゴールドベルク変奏曲を好む理由はたくさんある。そもそもクラシック自体が好きだったし、あの演奏は音楽史に残るものだと思う。だが、私はこう答えた。
「……雨の日に聞くと落ち着くんだ。雨音と、グールドの弾くピアノの音はとてもよく溶け合う。まるで、コーヒーにミルクを注いだようにね」
たとえが面白かったのか、それとも私の答えが
「君は?」
「私はショパンのエチュードが好きです」
「クラシックが好きなのかい? ピアノを習っているから?」
少女は首を振って否定した。
「好きなんです。ショパンその人が」
そう言うと、少女は鍵盤に指を置いた。
適当な仕草に見えた。恐らく少女はピアノを習ったことはないのだろう、と私は勝手に思う。
そして、壊れたピアノは音が出ない。弾けない少女と、鳴らないピアノの組み合わせだ。
――それなのに。
少女は弾き始めた。雨音の中にメロディが躍り出ていく。
廃屋に放置され、調律されていないピアノが、彼女の指先に導かれて在りし日の音を奏でていく。
それは、ショパンのエチュード第3番「別れの曲」。
私は息を呑んでその演奏を聴いた。少女は目を閉じ、当然のようにその曲を弾き終えた。
雨音が拍手の代わりだった。
◆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます