第3話:あの気難しいピアニストの顔を思い浮かべる





「驚かせてごめん。私はなんとなくここに来ただけなんだ。すぐに帰るよ」


 私の現状は、どう見ても大人の男性による廃屋への不法侵入だ。少女からすれば警戒して当然だろう。下手をしたら防犯ブザーを鳴らすかもしれない。

 私は少女を恐がらせたくなかった。幽霊でないと分かり、彼女は丁重に扱いたかったからだ。


「別にいいですよ、帰らなくて。一緒に雨宿りしましょう」


 意外な言葉だった。てっきり不審者扱いされて追い払われるかと思ったのだが。

 少女は私に興味がないらしく、視線を再びピアノの鍵盤に戻した。しかし、弾くことはない。いや、そもそも長年放置され、調律もされていないピアノだ。弾くという行為に応えられるわけがない。


 少女から許可が下りたので、私は彼女から少し離れたところに放置された椅子に腰かけた。

 私の体重を受けて、椅子が軋んで音を立てた。生身の私だ。実体があり、体温があり、重みがある。その証拠が椅子の軋みだ。

 一方で、ピアノの前に座る少女はひどく現実感がなかった。彼女は何もしない。そして会話もなかった。雨の音だけが聞こえてくる。


 私は廃屋の窓を眺める。曇ったガラスの向こうに、雑草で覆われた庭がある。まるでここは水族館だ。窓ガラスの向こうは水槽。あるいは、私たちのいる場所の方が水槽なのかもしれない。


「ピアノで、どんな曲が好きですか?」


 いきなり少女がそう言った。私がそちらを見ると、彼女はこちらを見ていた。私に質問しているらしい。


「バッハのゴールドベルク変奏曲。それも1981年のグレン・グールドの演奏が一番好きだよ」


 私は即答した。

 あの気難しいピアニストの顔を思い浮かべる。世の中のすべてが気に食わないと言わんばかりの憂鬱ゆううつそうな表情。しかし、彼の弾くゴールドベルク変奏曲は、初めて聞いた時から私の中で響き続けている。


「どうして好きなんですか?」


 少女は重ねて尋ねてきた。


「そうだな……」


 私は考える。まさか会話が続くとは思わなかったし、彼女の方から話題を振ってくるとも思わなかった。

 私がグールドのゴールドベルク変奏曲を好む理由はたくさんある。そもそもクラシック自体が好きだったし、あの演奏は音楽史に残るものだと思う。だが、私はこう答えた。


「……雨の日に聞くと落ち着くんだ。雨音と、グールドの弾くピアノの音はとてもよく溶け合う。まるで、コーヒーにミルクを注いだようにね」


 たとえが面白かったのか、それとも私の答えが気障きざだったからか、少女はくすりと笑った。初めて少女の顔に浮かんだ表情は笑顔だった。


「君は?」

「私はショパンのエチュードが好きです」

「クラシックが好きなのかい? ピアノを習っているから?」


 少女は首を振って否定した。


「好きなんです。ショパンその人が」


 そう言うと、少女は鍵盤に指を置いた。

 適当な仕草に見えた。恐らく少女はピアノを習ったことはないのだろう、と私は勝手に思う。

 そして、壊れたピアノは音が出ない。弾けない少女と、鳴らないピアノの組み合わせだ。


 ――それなのに。


 少女は弾き始めた。雨音の中にメロディが躍り出ていく。

 廃屋に放置され、調律されていないピアノが、彼女の指先に導かれて在りし日の音を奏でていく。

 それは、ショパンのエチュード第3番「別れの曲」。

 私は息を呑んでその演奏を聴いた。少女は目を閉じ、当然のようにその曲を弾き終えた。

 雨音が拍手の代わりだった。





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