これぞまさにオタクの夢
「次の人ー」
男性スタッフの野太い声で我に返った。
数メートル先、ポップな柄の黒Tシャツに水色のオーバーオールを着た推しが立っている。
いつもの握手会は自分の番が来るまでただただ待ちきれないのに、その日は心がどこかに飛んでいた。
「あの部屋に帰りたくない」という不安で。
「一分四十秒です」
そんな私をよそに、握手券を十枚受け取ったスタッフが「早くしろ」と言いたげに先を促す。
「お姉さんお久しぶりです~、お元気でした~?」
何度も通っている私は顔を覚えられている。
「はい、流奈様のおかげで何とか」
「嬉しい~。だけどお姉さん、無理して推し活しないで……ん?」
にこにこしていた流奈が突如、真顔になる。
「どうかしました?」
「……あー、ごめんなさい。急に。……話変わるんですけど、LINESってやってます?」
最後だけ小声だった。
LINESとは、日本で普及してるメッセージアプリのことだ。
「やってますけど」
「良かったです」
オーバーオールのポケットあたりで流奈様の手が素早く動いた次の瞬間、私の掌は小さな紙を握らされていた。
「アドレス友達追加したら、個チャに名前送ってください。絶対ですよ」
「え?」
素っ頓狂な声をあげた私に、流奈様がしいっ! と口元に指を当てる。
「くれぐれも他の人にはばれないようにしてください」
「はいもう時間でーす!」
時間切れ。非情にも男性スタッフが私を剥がしに来た。
「……本人のID?」
バーガーショップのカウンター席、若い男性が独り言つ私を不審そうに見てから去っていく。
名刺サイズの紙に書かれていたのは、アットマークから始まるアドレス。小文字アルファベットで「ryuuna」の後に、「0928」の数字。
ばんかみ公式サイトのメンバープロフィールは何度も見て暗記している。流奈様の誕生日は9月28日。偶然の一致には出来すぎている。
「……しょうがない」
——推しに友達追加してと言われたんだからするしかない!
追加されたのは初期設定アイコンの「りゅうな」というアカウント。何も考えず個チャに「三河島律子」と本名を送ると、五分もしないで無料通話の着信が来た。
『もしもし、水上流奈でーす。三河島さんですかー?』
あれ、聞こえてますー?
返事ができない私の耳に、流奈様の声が響く。
「水上、流奈様……?」
『そうで~す、さっきぶりですね~』
何故私はメッセージアプリの無料通話で推しと話をしている?
『いきなり電話しちゃってごめんなさい! だけど、急を要することがあったので、連絡しちゃいました』
「急を要する?」
——イベント会場出禁とかだったらどうしよう。生きてけないよ。
『はっきり言いますね。三河島さん、悪い霊に憑りつかれちゃってます。握手会の時、見えちゃいました』
「は?」
『今日、予定空いてますか?』
「……あ、いえ、家にいます」
『オッケーです。九時ぐらいに行くんで、住所送ってください。三河島さんに憑いてる幽霊さんを祓いに行きます』
そこで電話は切れた。
「大丈夫ですか……?」
「大丈夫です……」
流奈様は頷いたが、顔をしかめた彼女は全く大丈夫そうではなかった。霊感が強いらしく、霊のいる場所にいると頭痛がするという。
「三河島さんに憑いてる幽霊さんは、間違いなくこの部屋の彼が原因です」
彼。私の部屋に地縛霊となって残っている前の住人だ。私が説明する間もなく、部屋にやってきた流奈様は彼の存在を言い当てた。
「『寂しい』『一人は嫌だ』、マイナスな感情を一杯抱えてる。それをこじらせて律子さんを道連れにしようとしてます。一人じゃ寂しいから」
昨日の夜、首を絞めてきたのは仲間を増やしたかったからだ。
「いつまでもこの部屋にいるのはお互いにとって良くないので、出て行ってもらいましょう」
「お祓いとかするんですか」
「そうですね~。ここ、使えそうなものがいっぱいあるので」
流奈様は満足そうににっこり笑った。
「……流奈様」
「様付けやめてくださいよ~。三河島さんの方が私より年上でしょ?」
「いやいや、推しを呼び捨てとか無理です。それよりどういう状況なんですか?」
私の両手にはライブ用のサイリウム二本。流奈様に「全力で盛り上げてください」と渡されたものだ。
『あたしが歌って踊って盛り上げて、この部屋の幽霊さんに出て行ってもらいます!』
流奈様がお祓いと称するのは、私の部屋で行うライブのことだった。
「さっきも言った通り、霊は人の欲望に引き寄せられるんです」
つまり「推しに狂喜乱舞しているオタクで霊を引き寄せ、除霊する」という理屈らしい。
「三河島さんを生贄にしてるみたいで、申し訳ないですけど」
「それは別にいいです。流奈様のためだったら喜んで生贄になります。だけど他のファンにバレたら……」
恐ろしくて、それ以上は言えない。
「あはは、SNSで自慢とかしなきゃ大丈夫ですよ~」
流奈様がひらひらと手を振ったときだった。
「あっ」
部屋の照明が落ちた。
うごおおおお……
「来ましたね」
流奈様が立ち上がる。彼女の手には、マイク代わりの500ミリペットボトルが握られている。
「お願いしたこと、覚えてます?」
「……はい」
——推しに言われた言葉を忘れるわけない。
流奈様が言った今日の除霊で大事なこと、その一。
『今夜のライブは、いつも通り全力で楽しんでください』
「なら完璧です。音楽、お願いします」
流奈様の真剣なまなざしが私を貫く。
タッチパネル式の音楽プレーヤーの再生ボタンを押すと、音量を最大まで上げたプレーヤーからアイドルポップ調のイントロが流れ出す。
「世界ーっ、行くよっ!」
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