第16話
週明けの月曜日。
桐生さんの車で護を保育園へ送った後、病院の裏口で下ろしてもらった。
護は車での登園がよほど楽しみだったか私が起こす前に起き、自分で保育園へいく準備を始めたから驚きだ。
「ありがとうございました」
「じゃあ、また帰る時間に迎えに来る。駐車場で待ってるから」
「分かりました。いってきます」
頭を下げて職員用の入口へ向かうと、背中に視線を感じた。
振り返ると、私が院内に入るのを見届けるためか桐生さんがこちらを見つめていた。
目が合うと、ふっとわずかな笑みを浮かべる。
あの微笑みはあの頃と全く変わっていない。
トクンっと鳴る心臓にそっと手を当てると、私は桐生さんに頭を下げて逃げるように扉を開けた。
「405号室の潰瘍性大腸炎の小田さん、昨晩から血便が続いています。主治医の池崎先生から今後は痛みを押さえながら絶食で腸を休めてステロイドの点滴で症状の寛解を目指すとお話がありました。少し気持ちが不安定なので注意深く見守ってください」
夜勤者からの申し送りを受け、看護師長の朝礼と伝達事項を聞く。
そのあと自己摂取できない患者の朝食介助と内服薬の服用介助、口腔ケア、それからバイタルチェックや点滴交換などめまぐるしいほど忙しい業務をこなす。
昼休憩になり食堂へ行きお弁当を広げる。
「今頃桐生さんも食べてくれてるかな……」
今朝、お弁当を作っていると桐生さんが背後から覗き込んだ。
「良い匂いがするとおもったら弁当か。美味そうだな」
「桐生さん、お昼はいつもどうしているんですか?」
「大体外食だな。午後に依頼人が事務所に来るときは、近くのコンビニで買ってきて食べてる。ちなみに今日は午後1時から依頼人が来るんだ」
「それならお弁当作りましょうか?一つも二つも同じなので」
「いいのか?それは助かる。今日は仕事が捗りそうだ」
分かりやすく表情を明るくする桐生さんに思わずくすっと笑う。
最初から「作って」と言ってくれれば作るのに。そういうところが桐生さんらしいといえばらしいけれど。
「……莉緒!どうしよう……。あたし……」
お弁当を食べ終えリラックスしてから午後の業務に臨もうとしていると、私の前の席に美子が座った。
その顔はひどく青ざめている。
「どうしたの?何かあった?」
「ホントごめん。あたしのせいで良太先生が莉緒のこと血眼になって探してるみたいなの」
「……え?どういうこと?」
美子の言葉の意味が分からず、私は首をひねる。
良太とは別れたあの日以降一度も会っていないし、連絡もとっていない。
むろん、五年前に電話番号は変更しているし教えてもいない。
「東山病院にあたしらと同じ看護学校出た子がいたじゃない?その子とこないだ偶然会ったの。そこで莉緒の話になって、同じ病院で働いてることと子供を産んで一人で育っててるって話もしちゃって……」
「それぐらい別に話したっていいよ。それがどうして良太に繋がるの?」
「その子が良太先生にその話をしたみたい。あの子がおしゃべりなのすっかり忘れれてて……。それで……」
「それで……?」
美子がうな垂れる。
「良太先生が、その子は俺の子だって……。東山家の跡取りだって騒ぎ出したみたい……」
「跡取り……?」
絶句する。
今さら何を言ってるの……?
結婚まで考えていた私をあんなふうに捨てておいて、護が自分の子だなんて。
そもそも良太は林さんと結婚したはず。彼女のお腹にも赤ちゃんがいたんじゃなかった?
五年も経って何をバカなことを……。
腸が煮えくり返りそうになり、私はぎゅっと拳を固く握った。
「こうなったのは全部あたしのせいなの……。本当にごめん」
「違うよ、美子のせいじゃない」
「でも……」
私は美子を安心させようと微笑んだ。
「護は良太の子供じゃないから東山家とは何の関係もないよ。だから、大丈夫」
憔悴する美子を励ましながらも心の中に不安が沸き上がってくる。
良太……。今さらどういうつもり……?
午後の業務中も美子からされた良太の話が度々頭を過ぎった。
どうして今さら良太が私を探そうとするのかも、護を跡取りだと言い始めたのかも全く理解できない。
そもそも自分が林さんに乗り換えて一方的に私を捨てたくせに、今さら何なのよと腹正しい気持ちになる。
「ダメダメ。気持ちを切り替えなくちゃ」
私は自分に喝を入れると、バイタルチェックのためパソコンを乗せたカートを押しながら病室を回ってデータ入力を行ったり、入院患者の受付対応に追われた。
「お疲れ様でした」
すべての業務が終わり桐生さんを待っていると、事故渋滞で少し遅れると連絡が来た。
慌てずに来てほしいと伝え、職員用出入り口の扉の近くで桐生さんの到着を待っているとポンッと肩を叩かれた。
振り返るとそこにいたのはスーツ姿の男性だった。
「久しぶりだね、莉緒」
あまりの驚きに目を見開く。
「……りょ、良太……。どうしてここに……?」
「莉緒がここで仕事をしてるって聞いたんだ。今日は近くに用があってね。会いに来たんだ」
「そうじゃなくて、なんで今さら私に会いに……?」
美子に話を聞いていた私は警戒しながら良太の言葉を待った。
「なんでって、莉緒と復縁する為に決まってるだろ?」
「……ねえ、自分が何言ってるか分かってる?あなたは私と結婚の約束までしておきながら、林さんと浮気して私を捨てた。なのに、今さら復縁……?」
「葵ちゃんとはもう別れた。あの女はとんだ嘘つき女でね。妊娠も嘘だったし、他に男までいた。僕はあの女にまんまとハメられたんだ」
良太は林さんがどんなに酷い女かということをつらつらと話した。
妊娠していたと嘘をつき結婚の約束もして、両家との挨拶も終わった後に林さんの浮気に気が付いた。
それを問い詰めて結婚破棄すると告げると、彼女は開き直り「妊娠なんてしてない。アンタとの結婚も金の為に決まってんでしょ!」と吐き捨てたという。
彼女の実家の稼業はすでに傾いていて両親が資金繰りに困っていることを知り、彼女は外科医かつ院長候補である将来有望な良太に狙いを定めたのだ。
「僕がバカだった。あんな若いだけの頭の空っぽな女を選んでしまうなんて。後悔してもしきれないよ。でも、あのことがあって気付けたんだ。莉緒がどんなに素敵な女性であるかということに」
顔が引きつる。なんて自分勝手な思考なんだろう。
「私はあなたと復縁する気は一切ないから。こうやって突然会いに来られても迷惑なの」
「いや、莉緒は僕と復縁すべきだ」
「どうして?私とあなたとの関係は五年前に終わってるでしょ?」
「確かに僕達の関係は終わった。だが、護くんのこととなったら話は別だ。あと少しで誕生日か。4歳になるんだね?」
「待って!どうして名前を……それに誕生日まで……」
美子はそんなに詳しい話までしたんだろうか。それとも……。
「莉緒の身辺調査を調査会社に依頼したんだ。それで、護くんのことも……僕は莉緒のことを全部知ってるよ」
「なっ……」
悪気なくさらりと言ってのける良太に背筋が凍り付く。
「今二人が住んでるアパートも環境が良いとは言えないね。莉緒と護くんは大家のおばあちゃんともずいぶん仲良くしてるみたいだけど。所詮他人だよ。年寄りだからって気を許して深入りすると痛い目に見るよ。善人のふりをした悪人なんてたくさんいるんだしさ」
「大家さんを悪く言うのはやめて!」
シングルマザーで身寄りのない私はアパートを借りるのにとても苦労した。
何十件と不動産会社を回り、ようやく私と護を受け入れてくれたのが大家さんだった。
『何かあったら私に言ってね。できることは協力するから』
事あるごとに私達を気にかけ、庭で作った野菜をおすそ分けしてくれたり本当によくしてもらっている。
護は大家さんを本当のおばあちゃんのように慕っているし、大家さんは護を孫のようにかわいがってくれる。
私達にとって大家さんは恩人だ。その大家さんを侮辱されたら黙ってなどいられない。
「さっきから勝手なことばっかり言わないで!あなたと話すことはもうありませんから」
冷たく言って歩き出そうとすると、パシッと手首を掴まれた。
「離してよ!」
「護は僕の子なんだろう?」
「違う!!あなたの子じゃない!!」
「いや、僕の子だよ。口元なんて昔の僕そのものだから」
「ふざけたこと言わないで!!」
――護は私と桐生さんの子供よ……!!あなたの子供じゃない!!
手を振り払いながら叫ぶと、裏口から出てきた病院関係者が私と良太の不穏な空気に気付いてコソコソと話し始めた。
それを察知した良太は「とにかく、あとでゆっくり話をしよう」と小声で囁く。
「これ以上話すことはないから。こうやって会いに来るのはやめて」
「また来るよ。それまで護のこと頼むね?」
全く話にならない。
良太は護が自分の子供と確信するように言うと、踵を返して駐車場の方へ歩いていった。
「なんなのよ……」
美子の話は本当だった。
良太は護を自分の子だと決めつけ、私に復縁を迫ってきた。
また新たな問題に直面し、私は頭を抱えたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます