宣戦布告

 色のない世界は、あまりにもあっけなく、あたしに馴染んだ。

 帰った翌日は大事をとって休んだけれど、そうするまでもなく、心身とも凪いだように落ち着いていた。光の色が見えないのは一時的で、一日経てば普通に見えるようになったけれど、ことのはわたりとして、言葉の色が視えることはついぞなかった。電車の中も、学校でも、世界は透明で灰色で、あたしが二年間忘れていた何の変哲もない姿をしていた。

 たぶん、自分の中で何かかふつりと途絶えてしまったのだ。

 恋の歌に魅せられて、その輝きを追いつづけた。星灯りが目に焼きついて、いつまでも消えない幻を視ていた。それがすっかり抜け落ちてしまって、悲しさや悔しささえ浮かばなかった。ただ虚ろで、ぼんやりするうちに、時間だけがあたしを置きざりにして過ぎていった。気づけば、わたりびとのリーグ戦は全日程が終了していた。決勝トーナメントの中継は、見ようとすら思わなかった。

「れーん、れんってば! 寝てるの?」

 これだけ華やかで爛漫な声さえも、今やあたしの目には響かなかった。体を揺すられて、あたしはようやくすみれの姿を認めた。鈴葉はいなくて、今はひとりだった。

 今更になって、ああ、夏休みが終わったんだと思った。

 放課後の喧噪が、さざなみのように意識の表層へ触れる。まだ高い日が、教室の半分をくっきりと照らしだしている。ちょうど暗がりのところに、あたしが座っている。すみれは日差しを背に負いながら、困り顔であたしに訴えかけている。

「ずっと話したかったんだよー! 学校、なかなか始まらないんだもん!」

 言われて、あたしは愕然とした。確かに、夏休みの最終週は課外授業がなくて、学校に来なかった。けれど、そのことをこの瞬間まで意識しなかったのだ。記憶がぽっかりと、なかったことになっている。一週間、家で何をしていたのか思い出せない。

 あたしの動揺を知ってか知らずか、すみれは続ける。しかし、その内容はほとんど頭に入らなかった。気づかぬうちに、自分のあちこちが欠けてしまっている感覚。怖気がして、でも、はたと理解した。そんなの、当たり前のことだ。あたしは詩歌をなくしてしまったのだから。

「ねえ、すみれはどうしたらいいの? 何て謝ればいいのか、わかんないよー!」

 我にかえった瞬間、そんな言葉が飛びこんできた。頭が真っ白になった。

「わからないよ、そんなの」

 あたしは立ちあがっていた。すみれの顔が見られなかった。

「なんであたしに訊くの。わかるわけないよ、あたしなんかに。恋人も、友達だってろくにいなくて、人の気持ちなんて、全然わからないのに」

 続けようと息を継いで、これは怒りだと気がついた。向ける先のない、いや、自分自身に向けるべき怒りだ。

 はっとして、あたしはすみれを見やった。すみれは今にも泣きだしそうに、信じられないものを見る目をしていた。あたしは息ができなくなる。あの目だ。あたしが傷つけて、永遠にへだててしまった人の目だ。

「……ごめん、なさい」

 かろうじて口にして、あたしは逃げた。そんな自分が、本当に最低だと思った。でも、なんて言えばいいかわからない。どんな言葉も言い訳にしかならなくて、いっそ、あたしを最低の人間として見放してくれればいいとさえ思った。だって、それがあたしだから。それがあたしのしてきたことで、嘘偽りのない姿だから。

 昇降口を駆けだして、誰もいない路地へと逃げこんだ。息が切れ、体ががくんと重くなって、アスファルトに倒れてうずくまった。硬く、灼けついて、ざらざらとした地面が肌をえぐる。動悸が耳の裏から聞こえて、冷えきった手足は動かなかった。

 あたしはひとりで、空っぽだった。

(そうか、そうだった)

 自分がどんな人間だったか、今ならわかる。

 恋の唄に出会う前、ことのはわたりになる以前、あたしには何もなかった。これという趣味もなくて、特別親しい友人もいなくて、ぬるま湯のような、代わり映えのしない毎日だった。何にも惹かれることがなく、繰りかえしの日々を、ただ浅く呼吸をしながら受け流していた。唄に、詩歌に、言葉に出会って、その彩りを視て、初めて世界が輝いて見えたのだ。新しい発見と刺激に満ちあふれ、そのひとつひとつが自分の糧になった。生きているって、自分の足で歩いているって、実感があった。

 今のあたしには、ないものだ。

 どうやって帰ったかは覚えていない。ずっと、それでも受け入れてくれる家族のことを想った。どんなに落ちぶれようと、あたしには帰る場所があった。寝て、起きて、ご飯を食べるところが。笑い、励まし、慰めてくれる、あたたかい人たちがいた。その幸福を、いっそ恨めしくも思う。きっと、あたしなんかには過ぎたことだ。あたしには、そうしてもらうだけの資格なんて……。

「姉ちゃん!」

 顔を上げると、勇がいた。玄関先で、ぎゅうっとあたしの手を引いた。

「姉ちゃん、早く! テレビ見て!」

「ゆ、勇? どうしたの?」

「いいから、早く!」

 あたしがボロボロなことにも、気がつかないくらい焦っているようだった。言われるまま、靴と鞄を放りだして、転がりこむようにリビングへ入る。

 翠を孕んだ風が、目の前をよぎった。灰色に垂れこめた雲を、散らしていくようだった。

「えっ……?」

 画面の中に、うたうがいた。

 断片的な言葉が飛びこんできた。『新人』『わたりびと』『最年少』『ことのはわたり』。あの、人見知りなはずのうたうが、堂々と記者の質問に答えていた。

 嘘だ。あたしは信じられなかった。

 千代うたうが、あたしより若い最年少のわたりびととして、デビューしようとしている。そんなはずがない。まだ歴史の浅い、わたりびとという立場に興味がなさそうだったのに。二度と見たくないと言った、あたしに出会ってしまうかもしれないのに。

 唖然としている間に、会見は淡々と進んでいった。終了間際になって、最後のコメントを求められたとき、うたうの顔つきが変わった。

「能書きはここまでよ」

 凍りついた声音に、記者たちがざわめいた。有無を言わせず、うたうは続けた。

「夜伽、恋!」

 名を呼ばれて、びくりと体をふるわせた。夜空の瞳が、まっすぐあたしを見ていた。

 やめてくれ、と思った。あたしは、とっくに終わっているのに。

「わたしは貴女を許さない。わたしを、わたしの大切なものを侮辱した、貴女を!」

 烈火が弾けた。漆黒に塗りつぶされた空を、引き裂くように稲光が走った。妖しい紫煙をまとい、視界をじりじりと灼いて赤熱する。

「だから、わたしはここに来た。貴女の舞台で、認めさせる。わたしの言葉を、わたしの歴史を、わたしが愛し縋ってきた、数限りない詩歌の山積を。わたりあいの場で認めさせてやる! 覚悟なさい、わたしは腑抜けても、へこたれてもいない」

 激昂のままに、うたうが叫ぶ。あたしの胸を、突き刺すように。

「わたしの全身全霊をかけて、正々堂々、叩き潰す!」

 どよめきの中で、うたうは画面から消えていった。あたしは呆然として、何も言えずに立ちつくしていた。目の前が真っ暗だ。足下がばっくりと裂けて、地獄の釜の中へとどこまでも落ちていく気がした。うたうが手を下すまでもなく、すりつぶされて消えてしまいそうだった。

「なんなの、なんだっていうの」

 泣きたくてたまらなかった。膝をついて、肩を抱いて震えた。

 からからに渇いた喉へ、熱い息が流れていた。

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