理由

 約束の週末はすぐやってきた。動物園へのお誘いはふたつ返事で決まって、肩透かしをくらった気分だった。

 長かった梅雨も明け、久方ぶりの太陽は鬱憤を晴らすかのごとく、駅前のロータリーを容赦なく灼いてはばからなかった。立ちこめる熱気とうだるような暑さに顔をしかめて、あたしは往来をぼうっと眺めている。

 少し街中から離れているとはいえ、よくもまあ動物園なんて作れたものだと思うほど、駅前はよく整備され、にぎわっていた。電車で来られるのはありがたいけれど、動物園はもっと山とか森の中にあると思っていたから、なんだか狐につままれたような気分がする。

 改札の外、日陰まで入りこむ熱気に汗を流していると、雑踏へ嫌味っぽい声が響いた。

「もう少し、わかりやすい場所にいてくれた方が助かったんだけど? 探したわよ」

 そう言う割に、時間よりも早く現れたうたうを見て、思わず口元をゆるめる。

「ごめんね、あたしも不案内だから。いい待ち合わせ場所が思い浮かばなかったの」

 返事をしながら、うたうと向きあう。休みの日にも関わらずいつものブレザー姿なのが、少し残念だった。とはいえ、あたしも私服なだけで、特別なこだわりはないけれど。

「目的地まで迷わないなら、いいわよ。こんな天気の中でさまよいたくはないし」

「それは、大丈夫。ちゃんと調べてきたから」

 そう言って、勇に印刷してもらった地図をひらひらさせる。我ながらアナログ丸出しで、しまったと思ったけれど、うたうは笑わなかった。

「じゃあ、よろしく」

 うたうが後ろについてくる。だいぶ素っ気ないけれど、気にしないことにした。

 いっそ拍子抜けするくらい、動物園まではすぐだった。学生の券を買って中へ入ると、土と獣のにおいが立ちこめて、むせかえるほどだ。

「落ち着かないわね。こうも騒々しいところだなんて思わなかったわ」

 言って、うたうは寒気を感じたかのように腕をさする。もちろん、こんな炎天下で寒いはずもないから、喧噪を肌で感じたのだろう。ことのはわたりとして言葉にさらされると、うたうはよく身じろぎをした。

「まあ、行楽地だものね。中へ入ったら少し休む?」

「それなら、何のためにこんなところまで連れだしたのよ。少しくらい大丈夫、行くわよ」

 不機嫌そうに、うたうは先を行く。小柄な割に早足で、置いていかれそうになる。

 入ってすぐの場所は開けていて、お土産やソフトクリームを扱う売店兼休憩所がある、広場になっていた。人の行き交うそこを通りぬけ、うたうは早速囲いの柵へと取りつく。見つめる先には、ごつごつとした灰色の肌をさらして、立派な角を持つサイが所在なげにくつろいでいるところだった。

 食い入るように眺めるうたうの姿を見るに、興味津々な様子だ。表情は動かず、黒々とした、まっすぐな視線もまるで動かなかった。もしや動物が好きだったりするのだろうか。

「ねえ、恋はさ」

 不意に口を開くので、ちょっと跳びあがりそうになった。見つめていたのがばれたのかと思ったら、そういうわけではなさそうだった。

「恋は、どうしてわたしを誘ったの」

「どうしてって、なんとなく、だけれど」

 素直に答えると、うたうは肯定とも否定ともつかない声で、そう、と言った。なんだかいたたまれなくなって、たまらず先を続けた。

「なんか、気分転換というか、連れだしてあげた方がいい気がして。あたしも、遠出することってないから。勇……弟にこの場所を聞いてね、週末に出かけるならいいかなって」

 まくし立てるように言っても、うたうは何も言わずサイの寝姿を眺めていた。だんだん、言い訳でもしているような気分になってくる。

「……嫌だった?」

「そんなことはないわ。ただ、不思議で」

 おそるおそる聞くと、きっぱりそう言われて、あたしは内心で胸をなでおろす。一方のうたうは、そっと目を閉じてから、あたしに向き直った。

「恋は、どうして唄を詠むの。……どうしてわたしの唄を聞きたかったの」

「え、ええっと……」

 慮外の質問攻めに、あたしはちょっとたじろいだ。こちらを見つめる瞳は深い色をして、一挙手一投足をも見のがすまいとしている。改めて訊かれると恥ずかしいけれど、無碍にするのもよくないと感じた。小さく咳ばらいをして、口を開く。

「あこがれている唄があるの。ことのはわたりとして目覚めさせられた唄が。その世界にたどり着きたくて、けど、最近は調子が出なくて。勘を取り戻すきっかけを探している」

「それがわたしってこと?」

「まだわからないけど、たぶん」

「……そう」

 ちょっと憮然とした風に、うたうは視線を戻す。期待はずれだったのか。かといって、喜ぶこともわからないから、正直に言う他ないけれど。

「うたうはどうなの?」

「どうって」

「唄を詠む理由」

 うたうはしばらく黙りこんで、あたしが不安になり始めたころに、ようやく口を開いた。

「昔の言葉が、詩とか和歌とかが好きなの。長い歴史の中を耐えて残ってきたものには、それだけの価値があると思うから。……自分の中に、そんな言葉たちを棲まわせていると、なんだか落ち着く」

 古式ゆかしい言葉を使うし、そうだろうと思っていた。うたうが中学生だということは重々承知しているけど、悠久の時を生きる仙女みたいに感じることがある。それくらい、ごく自然に、古風な言葉と居ずまいを身につけていた。

「例えば、どんなの? 聞いてもわからないかもだけど」

「有名どころよ。詩歌で引いたやつなら、漢詩なら柳宗元、孟浩然、王維とか。三顧の礼みたいな故事も好きだし、まだうまく使いこなせないけれど、清少納言や紫式部みたいな平安文学もいいと思っているの」

 少し苦しそうな顔をしたかもしれない。うたうは目ざとくそれを見てとって、あきれたように言った。

「たぶん、教科書にも載っていると思うわ」

「……すいません」

 しおらしくするあたしへ、うたうは冷ややかな目を向ける。学校の勉強が無駄と思ったことはないけれど、こんなふうに必要なこともあるのだと知った。

「でも、恋は上手なのよね、古典や漢籍に疎くても」

 ぼそりとつぶやくように言って、うたうはまたそっぽを向く。その視線の先で、サイがむくりと体を起こした。

「もしかして、照れてる?」

 がくっ、とうたうが肩を落とす。しばらくして、眉間にしわを寄せて見あげてくる。

「そういうことは、それとなく探るか、胸に秘めておくものだと思っていたわ」

 恨みがましく言い捨ててから、逃げるように走りだす。あわててその小さい背中を追いかけながら、やはり今日は来てよかったと、微笑まずにはいられないのだった。

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