香りの記憶

 高校三年の三学期、大学の進学が決まった僕は二月の中旬には自由登校になった。


 自由になった解放感から髪をオレンジに染めてピアスを開けた。

 ピアスは耳たぶに消しゴムを当てて、安全ピンで開けた。

 当時は当たり前だった気合いスタイル。


 想像以上に痛かった。でも、一度やってしまえば慣れたもので、最終的には左右合わせて五つの穴が開いた。


 頭の中では尾崎豊の「卒業」がよく流れていた。


「支配からの卒業♪戦いからの卒業♪」


 何かが変わる気がしていた。


 でも、変わったのは耳たぶから膿が出るようになった事だけだった。


 時間を持て余した僕は、近所のコンビニでバイトを始めることにした。


 求人情報誌でウチから最短の勤務先。

 それでいて身なりにうるさくないとこ。

 コンビニの店員なんて、そんなイメージだった。


 面接の日、店長は一筋縄ではいかなそうな雰囲気をまとっていた。

 ひげ面に、ベタついた髪。多分三十ちょい過ぎ。


 こもった声で聞き取りづらい。それで、ゆっくりとこう聞いてきた。


「いつから来れる?」


 それだけで、あっさり採用が決まった。


 春休みだった僕は、最初は昼間に働くことになった。


 初出勤、制服に袖を通し店内へ。

 教育係のおばちゃんからいろいろ教えてもらう。

 レジの打ち方、商品の並べ方、掃除のコツまで、手取り足取り教えてくれた。


 後に店長の恋人だと発覚するこの人は、みんなから陰で「ヤジロベー」と呼ばれていた。

 最初はドラゴンボールのヤジロベーに似ているからだと思っていたが、帰りに両手に満杯のビニール袋をぶら下げ、左右に揺れながら帰る姿が由来だったと後から知った。

 ただ、そのヤジロベーがレジを通しているところを見た者は、誰もいない。

 やがて本部の調査が入り、店長ともども店を去ることになる。


 こうしてヤジロベーの指導の下で僕のバイト生活は始まった。


 まさか大学卒業後も辞めずに、ここで計五年の年月を過ごすとは、この時は夢にも思ってなかった。


 時は過ぎて、夏休み。

 バイトにもずいぶん慣れてきた。


 大学が始まり、シフトは夕方に移動。

 バイト代で携帯、PHS、ポケベルを買った。


 ポケベル依存期。

 常にポケベルが鳴っていないと不安になった。


 サークル活動、バイト、自動車学校。

 忙しい日々を過ごしていたある日、店長が言った。


「今日から新人が入るよ」


 高校三年の女の子らしい。


 夕方、シフト交代の時間。

 僕はバックヤードで制服に着替え、品出しの準備をしていた。


 店のドアが開く音がして、元気な声が聞こえた。


「よろしくお願いします!」


 バックヤードのカーテンをめくると、制服姿の小柄な子がいた。

 活発そうなボブ。

 笑顔が絶えない女の子。


 この時の僕は、ポケベルが鳴るのを気にしながら、ただ適当に挨拶を返しただけだった。

 彼女との物語が始まるなんて、思ってもみなかった。


 彼女とはシフトがよく一緒になった。


 明るい彼女は、一緒にいるだけでこっちまで楽しくなった。


 店内には防犯カメラが四つあった。

 外周通路と入り口を映す三台と、レジを映す一台。


 でも死角は存在する。

 バイト生はその死角を熟知していた。

 サボる時はそこに隠れる。


 レジの中の死角、それはフライヤーの前。

 僕たちはよくそこで話していた。


 ある日、近々上映の映画の話をしていた。

「スワロウテイルバタフライ」岩井俊二監督。

 映画好きの僕は蘊蓄を語る。


 彼女はフライヤー前の壁に寄りかかりながら言った。


「へー、見たいなー、映画連れてってよ」


 唐突だった。


 でも特に断る理由もないし、僕はいつもの調子で答えた。


「いいよ」


 映画を見に行く日。

 僕は待ち合わせ場所に先に着いた。


「パルコの玉の前な」


 いつも使っていた場所。

 水が流れる台の上に、大きな石の玉が乗っていて、くるくる回っている。


 数分後、人混みの向こうから彼女が来るのが見えた。


 バイトの時は学生服かオーバーオール姿が多かった彼女。

 でもその日は違った。


 白っぽいブラウスに、ふわっとしたスカート。

 短いボブが揺れる。

 なんか、いつもと違う可愛いっぽい服。


 思わずドキッとした。


 でも、何か言うのも照れくさくて、僕はいつもの調子で声をかけた。


「おう」


「待ったー?」


 いつもの笑顔。


 映画はきっと面白かったんだろう。

 でも、なんだかいつもと違う時間だった。


 映画の後も、特に何かが変わったわけではなかった。品出しをし、レジを打ち、掃除をする。いつもと変わらない日々。その日も、いつものようにフライヤーの前で雑談をしていた。


 時計に目を向ける。トイレ掃除の時間だ。

 トイレはエアコンが効かないから暑い。

 面倒くさいな、と思っていると、彼女が言った。


「トイレ掃除の時間だねー」

 間をおいて、続ける。

「…ねぇー行ってきて!」

 押し付けてきた。


「いいよ、んじゃご褒美にチューしてね」


 冗談のつもりだった。


 ———。


 小さな彼女の身長がすっと伸びた。

 気づけば、僕の目の前に彼女の顔があった。


 唇が、軽く触れた。

 一瞬の事だった。


「…」


 彼女は少し顔を赤らめながら、言った。


「よし!トイレ掃除に行ってきて!」


 初めてのキスだった。

 いつも当たり前だったフライヤーの油の匂いが、なぜか心地良く感じた。

 程なくして、僕たちは付き合うことになった。


 バイトの仲間には伏せていた。

 二人だけの秘密。


 シフトが一緒の日は楽しかった。

 フライヤーの前のカメラの死角は、僕たちだけの秘密の場所だった。


 今日もファーストフードを揚げると、立ち上る油の匂い。

 彼女がふと呟いた。


「ずっと先でも、この匂いを嗅ぐと思い出すよ」


「何を?」


「二人のこと」


「何それ」


「プルースト効果って言うの。

 匂いと記憶って深く結びついてるんだって。

 ふとした香りで、忘れてたはずのことが蘇るんだよ」


 僕はふと、フライヤーの油の匂いを吸い込んだ。


 僕たちにとって、この匂いは、きっとずっと特別なのだろう。


 ———


 あぁ、酸っぱいものが込み上げる。

 昨日の酒が効いているのか、それとも逆流性食道炎の調子がいいのか。

 どちらにせよ、朝から気分は最悪だった。

 出勤前、パンとトマトジュースを買うために、いつものコンビニに立ち寄る。

 エンジンをつけたまま店内へ。


 パンを物色していると、店員の声が聞こえた。


「ただいま新商品の唐揚げがあがりましたー、いかがでしょうかー」


 店内に広がる油の匂い。


 あぁ、フライヤーの匂い。


 この匂い、嫌いなんだよな。

 昔、コンビニでバイトしていた頃、揚げ物を大量にあげさせられて、気持ち悪くなったのを思い出す。


 なんて言うんだっけ、こういうの。


 あぁ——。


 プルースト効果だ。


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