恋の足跡
水月梟
初失恋
スマホのアラームで目が覚める朝。まだ眠いけど二度寝はしない。しないけど、布団の中で数分ぼんやりする。これがないと頭が働かない。顔を洗い、着替え、車に乗る。朝のルーティンは十五分。これで十分だ。むしろ、これ以上かける理由がない。
通勤途中のコンビニに寄り、パンとトマトジュースを買う。
店を出ると、風が吹いて街路樹の若葉が揺れた。葉がこすれる音がかすかに聞こえる。
朝食はこれで十分。トマトジュースだけで一日の栄養が補えると本気で思っている。いや、正確には「思いたい」。手軽さと健康のバランスを考えた結果、こうなった。
会社に着くと後輩たちが談笑している。みんな素直で優秀だ。時々、「あの頃は良かった」なんて冗談めかして言うけど、どの「あの頃」なのか、自分でもよくわからない。大学時代か、フリーター時代か。就職氷河期のせいにして、好き勝手生きていたあの頃か。
大学を卒業した時に就職はしなかった。フリーターで食いつないで、気づけばブラック企業の初期メン。遠回りしすぎた新社会人、なんて自分で言って笑うけど、本当はちょっとだけ気にしている。
「おはようございます」
三つ年下の後輩が笑顔で挨拶する。気にしているのは、たぶん僕だけだ。
営業車に乗り込む。エンジンをかけると、ラジオが自動で流れ出す。朝のワイド番組。適当に聞き流していると、軽快なイントロが始まる。
「マルマルモリモリー♪」
最近やたらと流れている、あの曲だ。ドラマの主題歌らしいけど、子どもが歌って踊るのを見ていると、三十二歳独身男子としてはなんとも言えない気分になる。これぐらいの子供がいてもおかしくないんだよな。
つかこの子たちの給料って、僕より高いよな。
ぼんやりそんなことを考える。一年前、この小さな大女優が主演のドラマを何気なく見て、まんまと泣かされたことを思い出す。演技力とかセリフ回しとか、そういう次元じゃない。単純に、人としての器の差を突きつけられた気がした。
僕と彼女の人間力の違いは、もう歴然としている。
それなのに、しょうもない嫉妬をした。
音楽が終わり、ニュースが流れる。
『○○大学のサークルで不祥事が発覚……』
あー、またか。大学生なんて大半が何も考えてないからな。僕も例外じゃなかったけど。
———
大学一年。
附属高校にいた僕は、そのまま流れるように大学へ進学した。県内でも有数の三流大学。特にやりたいことがあったわけじゃない。ただ、なんとなく進学しただけだった。
髪はオレンジ。前髪は目までかかるストレート。フェミ男全盛期、僕もその流れに乗っていた。
今では袖を通すことすらできないほど小さいTシャツ。体にピタッと張り付くようなやつ。それを平気で着ていた。耳には穴がいくつも空いていた。
携帯は二台。着信用の携帯と、発信用のPHS。そして、ポケベル。メールなんてまだなかった時代、ポケベルが唯一のメッセージツールだった。ポケットに入れ、チェーン部分だけ外に出す。それがこのあたりでは普通だった。思うと、完全におかしい。でも、当時はそれが「カッコいい」と信じていた。
僕が所属していたのは映画研究会。名前だけ聞くと、映画好きが集まる地味なサークルを想像するかもしれない。でも、実際は全然違った。
他大学との交流がやたらと多く、飲み会も頻繁に開催される。映画よりも合コンが主目的になっていて、集まるのはどちらかといえば陽キャばかりだった。映画を語るより、飲み放題のカラオケパブで騒ぐほうがメイン活動になっていた。
〇〇県大学映研会連盟略して映連ってのがあって、県下の大学や短大の映画研究会が合同でイベントをしたりしてた。
他の大学の映画研究会はちゃんと自主映画を作っていたみたい。演劇サークルを兼ねいてるところも多かったのか、主演の女子が可愛かったり、アナウンサーを目指していますなんて子もいた。映研とは名ばかりのうちのサークルとは違い、ちゃんと創作活動をしていたんだと思う。
うちも過去には自主制作していたらしい。でも、僕が在籍していた期間で映画を作ったことは、一度もない。
サークルの飲み会は、もはや合コンと呼んだほうが正しかった。他大学と合同で集まり、ただひたすら飲む。もちろん、そこには独自のルールがあった。
最初の試練は「コール」を覚えること。新入生はとりあえず、先輩たちが編み出した無駄にテンションの高い掛け声を叩き込まれる。飲み会の最中に指名されたら、それに合わせて一気するのが暗黙の了解だった。
人数分のグラスなんて誰も頼まない。とりあえずメニューに書いてあるアルコールを十杯ずつ注文し、テーブルを埋めてからスタート。ビールだろうがカクテルだろうが、目の前にあるものを飲むしかなかった。当然、飲み潰れるやつが数人は出る。救護班なんてものはないから、トイレで沈んでいくのを見守るしかなかった。
確か、この少しあとから飲み放題のシステムが変わった。グラス交換制になり、一気飲みの強要ができない仕組みに。店側の負担も大きかったのだろう。潰れて動けなくなる客や、急性アルコール中毒が問題になった結果、あの無茶な文化は廃れていった。
僕は先輩にも、他大学の先輩にも可愛がられた方だと思う。
映画は好きだったから、映連の映画ガチ勢の先輩方とも楽しく話せた。この場所は結構僕に合っていたみたいだ。映画の話ができるのは楽しかったし、そういう時間は居心地が良かった。
僕は結構色白で、飲むと顔が真っ赤になる。すると先輩たちには「大丈夫か?」と心配そうに声をかけられた。コンプレックスだった色白も、こういうときは役に立つ。顔が赤いと無理に飲ませようとする人は少なかったし、逆に「もういいぞ」と助け舟が出ることもあった。
酒は弱かったけど、とにかく飲んだ。出された物は飲む、出されなくても飲む。ただ楽しく飲み続けた。酔うと人懐っこくなるのもあって、飲み会の場ではすぐに馴染んだ。
限界が来ると、とりあえず戻す。そして、戻した分はまた飲む。弱ったサイヤ人が復活すると強くなるように、これで酒が強くなると思っていた。だから、飲んで飲んで、鍛え続けた。
その理屈でいくと、今頃はスーパーサイヤ人になっているはずだが、現実は逆流性食道炎に悩まされている。
各大学の新歓コンパが落ち着くと、今度は夏休みの合宿が控えていた映連合同合宿。泊まり。映画研究会の名目だけど、実際はただの大規模な飲み会だった。
いちおう合同で映画の撮影があった。
映連の会長が監督だった。多分、脚本も会長。カメラはハンディのみで、撮影が行われた。機材らしい機材はなかったし、演出というより、その場のノリで進んでいく感じだった。副会長がカチンコを使っていた。生で見るカチンコに、ちょっとテンションが上がった。
それでも撮影は続く。僕の役は「驚くだけの通行人B」。ほんの一瞬の出演だったが、監督にダメ出しされ、2テイク撮った。1テイク目と何が違ったのかわからないが、オッケーをもらった。監督には感じるものがあったのだろう。違いのわかる男だ。
自分のカットが終わると、もう自由時間。海が近いわけでもなく、観光地でもない。特にすることもなく、みんなだらだら過ごす。でも、目的はひとつ。夜の宴会。これのために、みんな来ているようなものだった。
そう言えば、あの映画の完成は見ていない。僕の銀幕デビューは幻に終わった。
合宿の夜。宴会は、いつものように始まった。
ただ、夏休みということもあって、田舎に戻っている人も多い。参加率は半分以下。集まったのは三十人弱といったところだった。それでも、宴会が始まれば関係ない。飲み会のテンションはいつも通りだった。
ましてや、女子大の先輩は色っぽかった。
ほぼ男子校と言っていい様な工業系高校を卒業した僕にとって、先輩の浴衣姿は刺激が強すぎた。居酒屋での飲み会とは違う。合宿だからこそ見られる姿。その特別感も相まって、意識しないほうが無理だった。
「ほら、飲んで」
お姉様の先輩にお酌されると、当然断れない。断る理由なんて、あるはずがない。飲んで、また注がれて、さらに飲んで。気づけば、周りのペースにも引っ張られていた。
人数が多い分回転のも早い。次々に注がれる酒、飛び交うコール、飲み干すグラス。宴会の熱気が高まるほどに、僕の意識はぼんやりしていく。
そして、気づけば酔い潰れていた。
頭が痛い。喉が渇いている。
心地の悪い目覚めだった。布団がいつものベッドとは違う感触で、ぼんやりとした意識の中で思い出す。そうだ、合宿に来ていた。二日酔いの朝。
ゆっくりと横を向く。
……え?
同じ布団に、女の子が寝ていた。
昨晩、一緒に飲んでいた女子大の子。長い黒髪に、クリッとした目。酔って無邪気に笑っていたのが、めちゃくちゃ可愛かったのを覚えている。
え?何があった? いや、本当に何があった?
動揺で頭が一気に覚醒する。昨晩の記憶を必死にたどる。でも、肝心なところが思い出せない。
そのとき、彼女が目を覚ました。
はだけた浴衣からのぞく白い肩。昨晩は整っていた黒髪が、少しボサボサになっている。それが妙に色っぽかった。
彼女は眠そうに目をこすりながら、ぽつりと言った。
「おはようございます」
静かな声が、やけに耳に残った。
僕は頭が痛いのも忘れていた。
先輩から聞いた話。
昨夜、女子大の部屋で飲んでいた僕は、酒が回りすぎて動けなくなり、そのまま用意されていた彼女の布団で眠ったらしい。
気づけば、彼女も同じ布団に寝ていて、僕を部屋に運ぶのが面倒だった先輩たちは放置を決めた。どうせ二人とも意識はないし、周りに先輩が寝るから、変な事は始めないだろうという判断だった。
これが、事の真相。
部屋に戻った僕は、見事な二日酔いだった。朝ごはんは食べず、薬を飲んでしばらく休む。午前中にはまた撮影があると聞いていたが、正直、動きたくはなかった。
チェックアウト後、外での撮影が始まった。彼女はスタッフのように動きながら、他の人たちと談笑していた。昨夜と変わらない様子で、何事もなかったかのようだった。
……いや、確かに何もなかったんだけど。
でも、僕は一定の距離を置いてしまう。彼女が普通であればあるほど、自分のぎこちなさが目立つ気がした。話しかけようかとも思ったが、そのタイミングをつかめないまま、時間は過ぎていった。
撮影が終わり、昼ご飯を食べて、解散。
秘めた思いだけを残し、合宿は幕を下ろした。
合宿が終わり、いつもの日常が戻った。
サークルの友達と飲みながら、合宿の話をする。すると、ふと聞かれた。
「で、気になる子とかいた?」
「あー、まあ……」
思い出すのは、あの黒髪の彼女。連絡先は聞いていない。でも、ふとした拍子にまた会えたらいいな、くらいには思っていた。
「その子は知らないけど、友達の連絡先なら知ってるよ」
友達の友達。ああ、ずっと隣にいたあの茶髪ボブの子か。うるさくて、ちょっと苦手だった。上から話すし、空気読まないし。でも、絶対連絡するべきだと友達に後押しされ、携帯を手に取った。
急な連絡に最初は警戒されていた。でも、僕だとわかると茶髪ボブは合宿の思い出を話し始めた。撮影がどうとか、あの先輩がどうとか、どうでもいい話をひたすら繰り返す。
そろそろ本題に入りたいんだけどな…
「あの…」
茶髪ボブの声が一瞬止まる、わずかな沈黙が落ちた。
何かを察したように続けた。
「あ、勘違いさせたらごめんなさい、私、彼氏いるよ」
……え?
振られた?
いや、振られたと思う。
奇しくも、それが僕の初めての失恋になった。
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