第2話 調査



カウントダウン24日目。桜木探偵事務所から最初の報告が届いた。


麻美は喫茶店で桜木と待ち合わせた。前回と同じ店ではない。麻美は細心の注意を払っていた。善一に気づかれてはならない。


「西村さん、こちらが初回の調査報告です」


桜木は分厚いファイルを麻美に手渡した。麻美はゆっくりとそれを開いた。最初のページには「百瀬愛美」の基本情報が記されている。


年齢:32歳

職業:善一の会社の子会社、マーケティング部門副部長

住所:港区高輪2丁目〇〇

家族構成:独身、両親は地方在住、兄が一人


「彼女は独身なんですね」麻美の声は冷静だった。


「はい。ただ、彼女には婚約者がいます」


麻美は思わず目を見開いた。「婚約者?」


「白石貴之さん、35歳。IT企業の役員です。二人は半年前に婚約し、来月結婚式の予定です」


麻美はその情報を消化するのに少し時間がかかった。愛美は結婚を控えていながら、既婚者と不倫をしている。そして善一はそれを知っているはずだ。


「彼女の婚約者は、この不倫関係を知っているのですか?」


「いいえ、全く気付いていないようです。白石さんは仕事で海外を飛び回っていて、日本にいる時間が限られています」


麻美は次のページをめくった。そこには愛美と善一の交際の記録が時系列で並んでいる。写真付きだ。レストラン、ホテル、時には愛美のマンション。二人の関係が始まったのは確かに4ヶ月前。麻美の結婚10周年記念日のわずか3日後だった。


「彼らはどのくらいの頻度で会っているのですか?」


「週に2回から3回です。主に夜ですが、時々昼間に会うこともあります。先週の土曜日には、箱根の旅館に一泊しています」


麻美は思い出した。善一は「取引先との打ち合わせで泊まりになる」と言っていた。嘘だ。すべて嘘だったのだ。


「彼女のマンションにも行っているんですね」


「はい。主に彼女の休日に。彼女のマンションは高級物件で、セキュリティが厳重です。ですが、フロントには社員証を見せれば簡単に入れるようです」


麻美は愛美のマンションの写真を見た。高層マンションの一室。善一の給料では到底手が届かない高級物件だ。愛美は成功したキャリアウーマンであり、経済的にも恵まれている。


「彼女の勤務先の詳細情報も入れておきました。彼女は社内でも評価が高く、次の昇進候補と言われています」


麻美はその情報に小さく笑みを浮かべた。次の昇進候補。もしこの不倫が明るみに出れば、その昇進も危うくなるだろう。


「婚約者の白石さんについても調べていただけますか?彼の連絡先や、彼が日本にいる予定など」


桜木は少し懸念を示す表情を見せた。「それを知って、何をされるおつもりですか?」


「彼に真実を知らせるだけです。彼にも知る権利があると思いませんか?このまま何も知らずに結婚したら、彼の人生も台無しになってしまう」


桜木はその理屈に納得したようだった。


「わかりました。彼についても調査します。あと1週間ほどお待ちください」


「ありがとうございます」


麻美はファイルを鞄に入れ、カフェを後にした。今日はこれから香織の事務所に行き、この情報を元に次の戦略を練るつもりだった。


---


「これは完璧な証拠ね」


香織は桜木の報告書に目を通しながら言った。麻美と香織は再び事務所で向かい合っていた。


「今の段階で考えられる選択肢を教えて」麻美は冷静に尋ねた。


香織は椅子に深く腰掛け、両手を組んだ。


「まず、単純に離婚して慰謝料を請求する方法。この証拠があれば、相当額の慰謝料は確保できるわ」


「いくらくらい?」


「あなたたちの生活水準、結婚期間、不倫の期間などを考慮すると、500万円から800万円程度は可能でしょう」


麻美は首を横に振った。「お金だけでは満足できないわ」


「そうね。次の選択肢は、愛人の婚約者に情報を提供すること。彼女の結婚を阻止することができる」


「それも含めたいわ」


「そして会社側への通報。不倫関係が親会社と子会社の間で行われているというのは、コンプライアンス上問題になる可能性がある」


「彼らの昇進や評価にも影響するのね」


「間違いなく。特に愛美さんの場合は、昇進が近いとなれば致命的よ」


麻美は満足そうにうなずいた。


「最後に」香織は声を落とした。「心理的なアプローチ。彼らに少しずつプレッシャーをかけ、精神的に追い詰める方法もある」


「どういうこと?」


「例えば、二人に『知っているわ』というメッセージを匿名で送る。証拠の一部を少しずつ見せる。彼らが焦り、怯え、最終的に精神的に追い詰められる。法的には問題ない範囲でね」


麻美の目が光った。「カウントダウン…」


「そう。あなたが言っていた30日間のカウントダウン。毎日何かを送り続けるの。初めは小さなことから。でも日に日に具体的になっていく。彼らは誰が送ってきているのか分からず、恐怖に震えるわ」


麻美はその計画に心を奪われた。彼らを少しずつ追い詰め、最後に致命的な一撃を与える。完璧だ。


「具体的には?」


「まず、二人が使っているホテルの写真を送る。次に、彼らが食事をしたレストランのレシート。そして徐々に彼らの会話の記録、写真…最後は、愛美の婚約者や会社の上司に全てを明かすという脅しよ」


麻美は深く考え込んだ。それは確かに効果的な方法だ。でも、自分はそこまで冷酷になれるのだろうか。いや、彼らこそが冷酷だったのだ。善一は10年の結婚生活を捨てた。愛美は婚約者がいながら既婚者と関係を持った。彼らは二人とも罰せられるべきだ。


「やりましょう」麻美の声には迷いがなかった。「すべての選択肢を組み合わせる。カウントダウンを始め、彼らを追い詰める。最終日には、婚約者への通知、会社への通報、そして離婚届と慰謝料請求書の提出」


香織は友人の決意を見て、静かにうなずいた。


「わかったわ。ただし、あくまで法的な範囲内よ。脅迫や名誉毀損にならないよう、言葉選びには気をつける必要があるわ」


「もちろん」


二人は具体的な計画を立て始めた。カウントダウンのための30のメッセージ。どのタイミングで何を送るか。最終日の行動計画。すべてを細かく決めていった。


計画が固まったとき、香織は麻美に尋ねた。


「本当にこれでいいの?復讐が終わった後、あなたはどうするつもり?」


麻美は窓の外を見た。雨が降り始めていた。


「わからないわ。でも、この復讐が終わるまでは、それしか考えられない」


「復讐は果たせても、あなたの10年間は戻ってこないのよ」


麻美は香織を見つめ返した。「わかってる。でも、この恨みを晴らさなければ、先に進むことはできない」


香織は何も言わなかった。麻美の目に宿る炎を見て、これ以上の忠告は無駄だと悟ったのだろう。


「カウントダウンは明日から始める」麻美は言った。「準備はできているわ」


---


その夜、麻美は自宅の書斎で、明日から始まるカウントダウンの準備をしていた。善一は珍しく早く帰宅し、リビングでテレビを見ている。麻美は彼に冷たい視線を送りながらも、表面上は普段通りに振る舞った。


「明日は早く帰れそう?」麻美は何気なく尋ねた。


「ああ、多分」善一は目をテレビから離さず答えた。「でも確約はできないよ。急な仕事が入るかもしれないから」


「そう」麻美は返事をする。彼が嘘をついているとわかっていながら、まるで信じているかのように振る舞う演技に自分でも驚いた。


書斎に戻った麻美は、プリペイドのスマートフォンを手に取った。これは先日購入したもので、善一や愛美に足がつかないよう、匿名で連絡するために用意した。


麻美は明日送る最初のメッセージを準備した。シンプルなものだ。

「30」


たった一つの数字。しかし、これからの30日間のカウントダウンの始まりを告げる数字。彼らはまだその意味を理解できないだろう。しかし、日が経つにつれ、少しずつ真実に気づくことになる。


麻美は送信先を設定した。善一と愛美、両方の携帯電話番号だ。桜木の調査で愛美の番号も判明していた。送信予約を翌朝9時にセットした。


次に、麻美は小さな封筒を取り出した。その中には、シティホテル丸の内の写真を印刷したものが入っている。これは2日目に送るつもりだ。3日目には、ヴィータのレシートのコピー。4日目には、善一と愛美が一緒に歩いている写真。


カウントダウンは、日を追うごとに具体的になり、彼らを追い詰めていく。そして最終日、カウントダウン1日目には、完全な証拠パッケージを愛美の婚約者と会社の上司に送る予定だ。


麻美は30枚のカードを並べた。それぞれにカウントダウンの数字が書かれている。「30」から「1」まで。


「これで準備は完了」


麻美は深く息を吐いた。明日から、彼女の復讐が始まる。


---


カウントダウン20日目。


10日間が経過し、計画は順調に進んでいた。麻美は毎日、善一と愛美に何かを送り続けた。最初は数字だけ。次に写真。そして会話の記録。彼らの行動を誰かが監視しているという恐怖を植え付ける証拠の数々。


善一の様子は明らかに変わった。落ち着きがなくなり、常に周囲を警戒するようになった。家に帰る時間も不規則になり、麻美に対しても神経質になっていた。


「最近、変な電話やメールは来てない?」ある晩、善一が麻美に尋ねた。


「いいえ、特には」麻美は知らないふりをした。「どうして?」


「いや、なんでもない」


善一は答えたが、その目は不安に満ちていた。彼は何かに怯えている。麻美はその姿を見て、冷たい満足感を覚えた。


桜木からの第二報も届いた。愛美の婚約者、白石貴之についての詳細な情報だ。彼は来週、日本に戻ってくる予定だという。結婚式の準備のためだ。


白石のメールアドレスや携帯電話番号も手に入った。麻美は最終日に彼に送る証拠一式を準備し始めた。写真、会話記録、ホテルの記録、すべてを含むパッケージだ。


香織とも頻繁に連絡を取り合っていた。法的なアドバイスを受けながら、慰謝料請求の準備も進めていた。


「愛美が今、とても神経質になっているという情報が入った」桜木は最新の報告で伝えてきた。「彼女は婚約者に打ち明けるべきか悩んでいるようです」


「まだ打ち明けさせないで」麻美は即座に答えた。「私が全てを明かす瞬間まで、二人には苦しんでもらいたい」


カウントダウン20日目の夜、麻美は愛美と善一に新たなメッセージを送った。


「20日後、あなたたちの秘密は世界中に知れ渡る」


そして箱根旅行の写真を添付した。二人が旅館の前で腕を組んでいる姿。その画像は彼らをさらに追い詰めるはずだ。


麻美のカウントダウンは、着実に彼らの精神を蝕んでいった。

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