わたしのなかで生きることを選んだあなた

青空一夏

第1話 

 その日は、晴れているのに雨が降っていた。

 学校の帰り道、西の空は朱く染まり、細い雨が夕焼けの光を透かしながら降り始める。


 天気雨だ。


 祖母がよく言っていた。

「狐の嫁入りだよ」って。


 その言葉を思い出した瞬間、神社の脇の石段に、人影が見えた。


 夕陽の中に立っていたのは、現実とは思えないほど美しい人。

 銀色の髪に金色の瞳を持ち、墨を流したような黒の衣に身を包み、夕暮れの光にゆらめいていた。


「おまえ、俺の姿が見えるのか?」


 その声は、耳の奥で鈴が転がるように響いた。


 私はうなずいた。

 怖くはなかった。むしろ、不思議な安堵に包まれていた。


 ――あぁ、私はずっと、この出会いを求めていたのかもしれない。

 そんなふうに、自然と思えてしまった。


 それから、彼と過ごす日々が、少しずつ増えていった。

 学校帰りの道。夕暮れの神社。


 彼は大昔からずっと生きてきたと言った。

 昔の言い伝えや、草花の香りに宿る“気”の話もしてくれた。


 私が妖や幽霊が視える力を話しても、珍しがらず、否定もしなかった。


 「怖かったな。これからは俺が守ってやる」

 

 彼は自分も妖だと言った。

 妖狐と呼ばれる大妖怪のひとりだと。


 ある夜、私はまた眠れなかった。

 布団に入っても、目を閉じれば、得体の知れない気配が部屋の隅から忍び寄ってくる気がして心がざわついて、布団の中でもじっとしていられない。


 そんなとき、窓の外に気配を感じて、私は立ち上がった。

 カーテンをそっと開けると、そこに――妖狐がいた。


 黒い影のように静かに立ち、金の瞳が私を見つめていた。


 窓を開けると、彼はためらいなく部屋に入ってきた。

 妖のはずなのに、彼はどこか人間よりもあたたかく感じられた。


「また、怖い夢を見たのか?」


 私がうなずくと、彼はぽつりとつぶやいた。


「おまえが俺と一緒に生きるなら、その苦しみから、全部解放してあげられる。そのかわり、もうここでは暮らせない」


 私は――答えられなかった。

 彼が嫌だったわけじゃない。それどころか、好きだった。


 でも、私はまだ高校生だ。

 両親と離れるのは寂しいし、友達との日々を手放すことが想像できない。

 ただ、それだけの、子供っぽい理由だった。


 私が視線を逸らすと、彼は静かに笑った。

 悲しそうに、それでも微笑んだ。


「おまえのために、俺は魂を差し出すよ。おまえは絶対にもう悪夢は見なくなる」

 そう言って、胸元に手を差し入れる。

 朱に染まった、ぬるりとした“それ”を、私に差し出した。


「これは俺の肝だ。食べれば、おまえは俺の力を得る。幽霊や妖にも怯えず、悪夢にも苦しまない。……強くなれるんだよ。俺は死ぬけど、おまえの中で生きるから。血になって、骨になって、おまえを守るから」


 その言葉に、足がすくんだ。


 死ぬ? ――それは、私が望んだことじゃない。


「やめて。そんなこと、しないで……!」


 涙が頬を伝う。でも彼は、優しく笑った。


「おまえが笑ってくれるなら、それでいい。俺の存在が、おまえの夜を照らせるなら、それだけで充分なんだ」


 そっと彼が顔を近づけ、唇が触れた。

 体温がなかった。でも、温かく感じたのはなぜなんだろう?


 気づけば、彼の姿は光の粒になって、闇に溶けていった。


 残されたのは、私の右手に握られた彼の肝。

 ゆっくりと、それを口にした。


 怖かった。でも、食べなきゃいけないと思った。

 それが、彼の最後の願いだから。


 それ以来、悪夢は消えた。

 視えていた幽霊も妖も、私を恐れて近寄らない。


 闇は、もう少しも怖くない。


 でも、彼は――もう、いない。


 彼は私の中にいるの?

 いいえ、どこにもいる気配はない。

 あのとき、手を取っていれば――そんな後悔が、今も消えない。


 ほんとうに、大切だった。

 でも私は、それに気づくのが遅すぎた。


「……ねぇ、会いたいよ」

 夕焼けの神社で、そう呟く。


 狐火が一瞬、ふわりと灯った気がした。

 けれど、それは風にさらわれ、すぐに消えた。


 命を差し出してまでくれた愛。

 あんな激しさを、私は一度しか知らない。


 きっと、これからどれだけ長く生きたとしても――

 あんなふうに、誰かに命を懸けられることなんて、もうない。


 あぁ、そうか。

 あなたは、あの瞬間、私の心ごと攫っていったんだね。


 ずっと消えない。

 この想いは、私を縛りつけて離さない。


 あなたは、命と引き換えに

 私の心を、永遠に手に入れたんだ。


 そう、ひとりごちたとき。

 ――心のどこかで、妖狐が微かに笑った。


 忘れることも、逃れることも許さない。

 そんな冷たくも美しい囁きが、どこからか聞こえた気がした。



 完

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わたしのなかで生きることを選んだあなた 青空一夏 @sachimaru

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