第2小節

 

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、まぶたをじんわりと温める。


 柚希は目を開けるものの、すぐに閉じた。

 ……起きたくない。

 布団の中は心地よくて、外の空気はひんやりとしていそうだった。

 
 どこか遠くでテレビの音がしている。


 「……週の後半は……気温が……」

 アナウンサーの声が、くぐもって聞こえる。母の動き回る気配も混じっているが、はっきりとは聞き取れない。

 
 まどろみの中でぼんやりとそれを聞いていた。


 「柚希ー!そろそろ起きなさいよー!」

 母の声が、突然くっきりと耳に届いた。


 「……んー」


 寝返りを打ちながら、布団を引っ張る。
 けれど、もう一度「朝ごはん冷めるわよ!」と言われてしまい、仕方なく起き上がった。

 足を床につけると、冷たさに肩をすくめる。
 

 ふらふらとリビングへ向かうと、テレビの音が一気に鮮明になった。


 「続いての話題です。最近人気のスイーツ、『ふわとろパンケーキ』が――」


 画面には、ふわふわのパンケーキにシロップがゆっくりと垂れる映像が映っている。


 「……これ、食べたい」

 ぽつりと呟くと、母が笑いながら振り返った。


 「朝ごはん、パンケーキにすればよかった?」

 「えっ、作れるの?」


 思わず母を見る。期待を込めた視線を向けると、「いや、今からは無理だけどね」と肩をすくめられた。

 
 「なんだよぉ」と口をとがらせながら、目の前のトーストにかじりつく。

 母はコーヒーをすすりながら、「今日も放課後まで部活?」と聞いてきた。


 「部活じゃないよ。新入生歓迎の演奏の練習」

 「へえ、遅くなるの?」

 「うん」


 それ以上、母は特に何も聞かず、食器を片付け始める。
 柚希もテレビを眺めながら、残ったトーストを口に運んだ。


 窓の外は晴れている。




 電車に揺られながら、柚希はつり革を握る手に少し力を込めた。


 ――今日も、放課後に葵と練習する。

 新入生の入学を祝う催しでの演奏だから、ちゃんと仕上げなきゃいけない。
 それは分かってる。分かってるけど――


 『そんな演奏、退屈』
 

『それは自己満足じゃない?』


 葵なら、そう言いそうだ。

 もちろん、本当にそんなふうに言われたことはない。

 
 でも、あのちょっと呆れたような顔や、楽しそうに指を滑らせる姿を思い出すと、つい先回りして考えてしまう。

 
 また、何か言われるかもしれない。
 また、うまく合わないかもしれない。


 ……ま、いつものことか。


 小さく息をついて、車窓の外に目を向けた。
 車内アナウンスが流れ、電車は次の駅に滑り込んでいく。



 ◇◇



  教室の扉を開けると、朝のざわめきが迎えた。
 何気なく中を見渡し、空いている自分の席へ向かう。


 「おはよう」


 
 クラスメイトの声に軽く手を上げて応えながら、椅子を引いた。鞄を机の横にかけ、教科書を取り出す。特に意識することもなく、いつも通りの朝だった。


 ふと、前方の席に視線が向く。

 
 葵が頬杖をつき、どこか遠くを眺めていた。誰とも話さず、静かに風景を眺めているだけなのに、その姿は妙に存在感がある。

 
 一瞬、柚希は目を留めたが、すぐに視線を戻した。


 今日も、たぶんまたあのやり取りを繰り返すことになる。


 柚希は何も考えないふりをしながら、机の上に肘をついた。


 ◇◇


 先生の声が、教室の空気にゆっくりと溶けていく。


「文章というのは書き手の考えが込められているものだが、時にはそれが読者にうまく伝わらないこともある」


 静かに時計の針が進む音が聞こえた。


 ペンを指で転がしながら、黒板の文字を目で追う。けれど、内容が頭に入ってくるわけではなかった。


 (考えが込められていないって思うことも、実は考えがあるってこと?)

 
 (それとも、本当に何も考えてないこともある?)


 窓の外では、ゆっくりと雲が流れていた。

 前の席で、葵がペンを弄んでいる。


 カチッ、カチッと、小さな音が一定のリズムで響く。


 黒板を見ているようで、見ていない。
 何かを考えているようで、何も考えていないのかもしれない。

 
 風を受け流すような、どこか軽やかな横顔だった。


 柚希は頬杖をついたまま、ゆっくりとノートの端にペンを走らせる。


 『考えないことを考える』


 インクがじんわりと紙に染み込んでいく。

 先生の声は続いていた。

 
 教室の空気も、時間も、まるで水の中みたいにゆっくり流れる。




 柚希はノートの端をぼんやりと見つめていた。


「……じゃあ、ここからの解釈について、誰か意見はあるか?」


 先生の声が教室に響く。返事はない。静けさが数秒だけ教室を満たす。


「はい」


 葵が手を挙げた。

 柚希の指がノートの紙を擦る。


 葵はまっすぐ前を見たまま、簡潔に意見を述べた。特に強調するでもなく、抑揚のない静かな声。それなのに、不思議と耳に残る。


 先生が軽く頷き、「なるほど」と言葉を返す。

「いい意見だな。他には?」


 柚希はノートに視線を落とす。葵の言葉はたぶん正しい。けれど、正しいからといって、それがすべてというわけでもない。


 ふと、葵がわずかに体を動かした。

 気のせいかもしれない。でも、柚希の視界の隅で、彼女が一瞬だけこちらを振り向いた気がした。


 柚希はそのまま、ノートの片隅に小さく書き足す。


『でも、それだけじゃない』


 消すことも、強く書き直すこともなく、その文字は静かに紙の上に残った



 ◇◇



 昼休み、柚希が弁当を開こうとしたとき、クラスメイトが言った。


「柚希、先生が呼んでたよ。星崎先生」


 柚希は箸を止める。


「……私?」

「うん、あと葵も」


 その言葉に、柚希は小さく息をついた。

 なんとなく、理由はわかる気がする。新入生歓迎の演奏のことだろう。いつまでも葵とうまくやれていないことについて、何か言われるのかもしれない。

 そう思うと、余計に箸が進まなくなった。


「行かなきゃ」


 弁当をそっと閉じ、席を立つ。

 教室を出ると、廊下の空気は少しひんやりしていた。柚希はその冷たさを意識しながら、星崎先生のいる音楽準備室へと向かう。


 曲がり角を過ぎたあたりで、ちょうど前を歩く姿が目に入った。


 葵だった。


 彼女もまた、目的地が同じなのだろう。特に急ぐわけでもなく、一定の速度で歩いている。


 柚希は何も言わず、少しだけ歩調を落とした。

 廊下に響く足音が、静かに重なる。


 葵は振り向かない。


 柚希も、何も言わずにその背中を追った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る