17杯目「向こうの世界」
さっきまでの激しい雨音が止み、優しい雨の音が部屋を包んでいた。呆然として立っていたけれど、来られたね、と抱きしめられて我に返る。
「ここで靴を脱いでね」
床に敷かれた麻袋の上に立っていた。
壁に広げて吊り下げられた大きな布に近づく。真っ白いリネンだ。別の壁の、閉じられているカーテンに触れる。これは
思いのほか柔らかいカーテンを開ける。静かな雨の向こうに睡蓮の葉が見える。さまざまな太さのねぎのような植物が育てられていた。遠くにログハウスのような建物が数軒ある。この部屋の壁も木材で出来ていた。
壁際にシングルくらいのサイズのベッドが置かれていた。ソファのようで縦に長い。いくつかのクッションを枕にしているようだった。クッションとタオルケットに触れる。クッションはリネン。ガーゼのタオルケットはコットンだろうか。
さっき掃除しに戻ってきていたんだ、と笑う雫。
「外に出る?」
「うん」
「少しの間にしようか。今日は突然豪雨にはならなそうだけれど」
雫が、自分のスニーカーと私のブーツが載った麻袋をどかして、入ってきたドアを開けた。
猫と一緒にソファに座っている男の人と、あいさつをかわす雫。人がいることに驚いていると、兄とモカだよ、こちらは
「こんにちは」
「はじめまして」
「あなたが紗季さん。雫がよく話していた」
ようこそこちらの世界へ、今日はゆっくりしていくの? と訊く泉さん。
「——えっと」
「今日は突然だったから、夕食までには向こうの世界に戻るよ」
「そうか。きっとまた来られるよ。今度はゆっくりしていってね」
雫の兄、泉さんは、オーバーサイズのコットンリネンに見える生地のカットソーを着ている。同じ素材のワイドパンツを履いてモカを撫でていた。上は半袖、下はロングで、色は上下とも黒。雨音をかき消すようにモカの喉が鳴る音が響いている。
リビング風の部屋の奥は土間になっていて、いくつかのレインコートが壁にかかっていた。
「大きいけれど履けるかな」
レインブーツと、ナイロンに似た見たことのない素材のレインコートを借りる。
「外は暑いからジャケットは脱いでね」
大きなレインコートのフードをかぶり、雫と軒下に出る。ぶかぶかのレインブーツで飛び石の上を歩き、両脇の池を眺めた。蛙が水草の上に乗っている。雫の家を振り返ると一階建てのログハウスがあった。ビーチクルーザーのような自転車が壁に立てかけられている。
「歩きにくいよね? 大丈夫?」
「大丈夫。歩けるよ」
飛び石を渡って、敷地の外に出た。大きな建物は一つも見当たらない。ぽつりぽつりと建つログハウスは一階か二階建てのものばかりのようだった。道のすぐ脇に小川が流れ、波紋を通してきれいな水草が見える。小さな魚がたくさん泳いでいた。
レインコートは不思議な素材で、撥水性が高いのに通気性がよい。それでも少し汗ばんできた。
「夏みたいだね」
「いまは暑い時季なんだ。二季しかなくて、寒い時季もあるよ」
「冷たいコーヒーが飲みたくなる」
「飲もうか」
リビングのような部屋に戻ると、泉さんはコーヒー豆を量って紙袋に詰めていた。モカは椅子の上に座っている。ソファに座ると、雫がアイスアメリカーノを作りはじめた。
「泉も飲む?」
「俺はさっき飲んだ」
作業の手を止めずに泉さんは話す。
「紗季さんは雫が入れたコーヒーを毎日のように飲んでいたのだよね。だからこちらの世界に来られるようになったのだと思う」
「雫はどうして向こうの世界に行けるんでしょうか。泉さんは行けないんですよね?」
「うん。俺は行けない。——どうしてだろうね。誰かが、向こうの世界で雫のことを待っていたのかも」
誰か——。三田さんだろうか。三田さんが願ったのだろう。「giboulée」のようなコーヒーを作りたいと。
ライブハウスのオーナーも願ったのだろう。雨粒のような音がするピアノが聴きたいと。
雫が向こうの世界に初めて行った日、そのわけ。本当は、あの雨の日に私と出会うためだったと信じている。
「雫、
リビング風の部屋に雨のにおいとコーヒーの香りが満ちる。雫が水と氷の入ったグラスにエスプレッソを注いで、私の前に置いてくれた。
「試してみるよ」
一度部屋に戻った雫はタブレットを持ってきて、アイスアメリカーノを飲みながら操作している。
「朋さん、お久しぶりです」
タブレットから電子音が鳴り、突然雫が通話しはじめた。
「分かりますか? ——ええ、ぜひ行かせてください」
ライブハウスの名前と地名さえ分かれば、マップアプリで検索できるだろう。近いだろうか。遠いだろうか。『時雨』とよく似た香りのアイスアメリカーノを味わいながら、通話が終わるのを待った。
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