3杯目「ソワレ」

 私が好きなあのカフェ、と店長は言った。gibouléeジブレ。あの店は雨の日のほうが混んでいる。一度話した壮年の男性は、雨の日に来てください、と言っていた。その後ほかの日に行ったときには、私を含め客と話しているところを見たことがない。

 giboulée は雨の日のほうがよい雰囲気なのかもしれない。ガラス張りになった壁は、入り口も大きな窓も雨に濡れてきれいな水滴を見せる。仄暗い店内から見る窓は雨の日でも明るく、静かな映画を見ているようだった。それに雨とコーヒーが混ざり合ったあの独特の香り。その香りは晴れた日でも店内に漂っていた。

 同じ接客業だけれど、扱うサービスが違う。giboulée にはスタッフとの会話という付加価値は必要ないのだろうか。


 副店長になってから売上げのノルマが上がった。前店舗からの顧客さんたちは引き続き来店してくれる人もいれば、まだ顔を見ていない人もいる。電話して呼べるくらいの、新しい顧客を作る必要があった。新入荷するアイテムの予約も伸ばさないといけない。

 前店舗では店長より売上げがよく予算も高かった。いまの店舗に移動になったのは、前店舗の店長のモチベーションを下げさせないためだったのだと思う。

 簡単に高い予算をクリアしていたわけではない。私なりに必死に努力していたし、予算が上がったいま、さらに努力を強いられる状況だった。scandalous 直営店の社員の私たちは、ひと月でも予算を落とすと次のボーナスが出なかった。

 仕事がつらいとき、giboulée のコーヒーの香りと雨のにおいを思い出す。心の底が少し温まる。




「こんにちは」

 濡れるか濡れないかくらいの雨が降っていた。遅番だった私は、早く家を出て giboulée のガラス戸を開けていた。店内にほかの客はいない。

「いらっしゃいませ」

 壮年の男性がメニューを持ってきてくれる。ロースターの前を見る。立って作業している彼の横顔が見えた。胸の中で「とくん」と音がした。

「まだ明るいですけど、ソワレを頼んでもいいですか?」

「もちろんです。ソワレは夕方一息つきたいときに合うようなブレンドになっています。疲れているときにもおすすめですよ」

「じゃあソワレと合うスイーツは何ですか?」

「どれも合いますが、よろしければチョコレートマフィンをお召し上がりください。ヴィーガンチョコレートとスペルトという古代小麦を使っています。パンケーキも有機スペルト小麦を使ってヴィーガンスプレッドで仕上げていますよ」

「いま仕事の前に少し寄っただけなんです。またパンケーキも食べにきます。ソワレとチョコレートマフィンをお願いします」

「かしこまりました」


 ヴィーガンチョコレートは思いのほかしっかり甘かった。有機スペルト小麦の独特の風味も良い。雨のにおいを含んだソワレを口にすると、窓の外が静かに暮れていくような気がした。彼は、ロースターに向かってしゃがみ込んでいる。


「ごちそうさまでした」

「この近くでお仕事をされているのですか?」

「はい。また寄らせてもらいます」

「ありがとうございます。私は当店 giboulée を営んでおります、三田みたと申します」

 オーナーだという男性が名刺をくれたので、私も名刺を出して名乗った。

「彼はしずく、といいます。本名かは分かりませんが、私どもはそう呼んでいます」

 ——どういうこと?

「彼はこちらの世界に雨が降る日だけ、別の世界から来ているのですよ。最低週に一回は焙煎しないと、雫の豆が尽きるので困ります。雫が焙煎した豆は適切な方法で保存して、私が焙煎した豆とブレンドしてお出ししています」

 笑顔でそう言うオーナーの三田さんに「そうですか」と応えたけれど、自分が笑えているのか分からなかった。彼、雫さんを振り向くと、作業の手を止めて優しい瞳で私を見ていた。


 ひとりで出た夕方の休憩時間。スワッチを持ってきたけれど開く気分になれず、giboulée オーナーの三田さんの言葉を反芻していた。

 雫さんは、雨の日にだけ別の世界から来ている人。何の比喩だろう。冗談には聞こえなかったけれど、からかわれているのだろうか。別の世界から行き来しているだなんて普通だったら信じられないけれど、なぜか納得させられた。

『雫は自分が焙煎した豆で入れたコーヒーで、お客さまがたが和んでいるのが嬉しいのです。また雨の日にいらしてくださると幸いです』

 雫さんが現れるのは朝の八時頃。雨が降っているとき、もしくは giboulée の営業時間内に雨が降る日だけだそうだ。梅雨や長雨の季節でもない限り晴れの日が続くことが多いだろう。

 スマートフォンで年間の降水日数を調べる。三割ほどしかない。営業時間内だけに絞れば、もっと少ないだろう。会えない日のほうが多いのか——。ここまで考えて、雫さんが別の世界の人だと信じている、と気づく。そして、彼のことが好きだ、という、いままで言語化していなかった言葉にぶつかった。私にとって彼は、いなくてはならない存在になっていた。



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