5杯目「雫」
「こちらの世界でも、お買い物されるんですね」
「向こうの世界では違った感じの服装をしているので、この服はこちらの世界で買ったものです。あと『スニーカー』と財布も」
向こうの世界では毎日が雨なので、こちらの世界でいう『レインブーツ』ばかりなんですよ、と
「——毎日雨が降っているんですか?」
「そうです。『晴れ』は、こちらの世界で数回だけ体験しました」
雫さんの世界は——雨が止まない世界……。
「『晴れ』はきれいですね。店の窓でたくさんの雨粒が光っていました」
アイスコーヒーが二つ、テーブルに届く。雫さんは笑顔で話し続けてくれる。
「今日は『
「『時雨』——?」
「俺が焙煎している豆の名前です」
「お店で豆を選んだことがないので、知りませんでした。ごめんなさい」
「いいえ、とんでもない」
雫さんの笑顔が眩しい。そしてふとした瞬間に雨のにおいが漂う。
「食べ物はどうですか? 向こうの世界とは違いますか?」
「かなり違います。向こうの世界では、動物性のものは食べません。コーヒーやきのこなど、まったく同じものもあります。こちらの世界では
それぞれの手元にボロネーゼの皿が載せられた。giboulée にはヴィーガンのメニューもあるけれど、ボロネーゼは牛ひき肉を使っている。雫さんは、こちらの世界で動物性のものを食べることに抵抗はないようだった。
エシカル・ヴィーガンの人たちは口にするものだけではなく、身の回りのものもできるだけ動物由来のものを避けていると雑誌で読んだ。雫さんも初めてこちらの世界に来るまでは、そうだったのではないだろうか。いま、レザーのブーツを履いて牛肉を食べている行為が、とんでもなく悪いことのような気がする。
「私は職業がら、ファッション誌をよく読むのですが——雫さんは雑誌を読みますか?」
「俺はこちらの世界の文字は、まだほとんど読めないのです。向こうの世界ではタブレットで映画の記事を読んだり、コーヒーの勉強をしたりしています」
「映画がお好きなんですね」
「大好きです。
「映画を観るより音楽を聴いてることのほうが多いです。でも映画も好きですよ」
「音楽もよいですね」
優しく微笑む雫さん。胸がいっぱいであまり食が進まない。
店では先に帰っていた岡本くんが接客していた。荷物をバックヤードに戻し、ヘルプに入る。無事セット売りにつながった。
「助かりました。俺だけだったらブルゾン単品しか売れなかったかも」
「時間があるときはフルコーデでいくつか提案させてもらうといいよ。意外なアイテムが響くこともあるから。タイミングがあればアクセサリーの棚も紹介してね」
「はい。なんか今日は調子がいいですね」
「そう?」
「そういえば、さっきの男の子、前店舗からの顧客?」
店長が話に入ってくる。
「いえ、よく行くカフェの店員さんなんです」
「あの通り沿いの? カスタマーズカード書いてもらってないじゃん」
「それが——いえ、すみませんでした! 次こそ書いてもらいます」
「あんなに買ってもらったのに。食事するだけなんて中野さんらしくないな」
「本当にすみませんでした」
彼は、別の世界の住人なのだ、とは言えなかった。
「giboulée の人が来たんですか?」
一緒に出た夕方休憩で岡本くんが言う。
「焙煎してる人か。分かりませんでした。中野さんの顧客さんかと思ってましたよ」
店長にも岡本くんにも、雫さんのことをどう話せばよいか分からない。もし今度来てくれたら、なんと言ってカスタマーズカードを書いてもらおう。彼はこちらの世界に住所がないし、文字もほとんど読めないと言っていた。財布の中の三田さんの名刺を思い出す。
「そこまでしなくてもよかったのに」
三田さんに書いてもらったカスタマーズカードを持って出勤する。営業中のカフェに押しかけて、カードに記入してもらったと思っている店長は呆れ顔だったけれど「さすが中野さんだね」とも言ってくれた。
giboulée の開店直後に思い切って電話してみると三田さんが出て、事情を言って助けてもらったのだ。遅番の今日、仕事の前に giboulée を訪れた。偶然か必然か、店内に客の影はなかった。
こちらの世界に戸籍がないことで給与面などいろいろとたいへんだろうけれど、そんなたいへんさとは無関係かのように二人は穏やかに話していた。そして、二人との会話に伴奏するように、雨粒のピアノが流れていた。
『雫が焙煎している豆は『時雨』という名前で販売したり、ブレンドに使ったりしています。毎日焙煎していると生豆の入荷が追いつかなくなるので、自由時間ができるのですよ』
『そうでしたか。私、明日は休みなので、こちらに伺おうと思ってました。雫さんがいらっしゃるかと思って——』
『では——当店で雫と過ごしてはいかがですか?』
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