8杯目「母」

 去年。当時付き合っていた人がひとり暮らしをしていたので、家賃と光熱費を折半して同棲することになった。

 バスタオルやフェイスタオルなどは彼のものだったけれど、どれを使ってもいい、と言われていた。それなのに、ある日、一番ふわふわの真っ白いバスタオルを使うと「これだけは使わないで」と言われた。

 休みの日に、女の子の友だちを部屋に上げて遊んでから数日後。早番で部屋に帰っていると彼が男友だちを連れて帰り、私を無視して遊んでいた日があった。

 狭いシングルベッドで彼と眠るのが苦痛になり、私は実家に帰って寝るようになった。一週間部屋に帰らないでいると、彼が店まで来て「鍵を返して」と言った。その場で部屋の鍵を返し、残したままの荷物は母に運転を頼んで、車で一度に取りにいった。その日から彼とは会っていない。




「先月から付き合いはじめた人がいるんだ。三田しずくさんっていう二十五歳の人」

 同じくらいの年に見える雫は、こちらの世界のカレンダーで計算すると二十五歳になるらしい。

「三田雫さん? 何をしている人なの?」

「ロースタリーカフェで焙煎してる」

「焙煎士の資格を持っているってこと?」

「『焙煎士』っていう資格はないんだって。バリスタの資格は持ってるよ」

 向こうの世界でもバリスタがいて、スペシャルティコーヒーもあると言っていた。スペシャルティコーヒーの資格、こちらの世界でいうQグレーダーの数少ない保有者でもある。

「二人で暮らそうって話してるんだけど——そうなったら荷物を運ぶのを手伝ってくれる?」

 免許は持っているけれど車は持っていなくて、ペーパードライバーの私は運転に自信がなかった。

「まだ付き合いはじめたばかりでしょう。もう少し付き合ってからのほうがいいんじゃないの?」

「前は長く付き合ってても、暮らしはじめたらうまくいかなかった。付き合ってる期間は関係ないと思う。いま私たちが一緒に暮らしたいと思っているから、そうしたい」

「——紗季さきがそうしたいなら止めないけれど、家具は置いていくのね?」

「服とか必要最低限のものを運ぶだけ」

 前回のように、ひとりで地下鉄を何往復かして scandalous の大きなショッパーに詰めた荷物を運んでもよいのだけれど、まだ母に雫のことを話していなかったので報告の機会にお願いしてみた。

 トラウマより雫と居たい気持ちのほうが強く、一緒に暮らすことに決めた。母はよい顔はしなかったけれど了承してくれ、父にも話してくれた。




 雫は数回三田さんの家に泊めてもらったので、地下鉄に慣れたようだった。定休日には三田さんが同行してくれて、マンションから gibouléeジブレ までの往復のしかたを教えてくれたらしい。

 三田さんが書いてくれた住所を受け取り、マップアプリに登録する。三田さんが借りてくれた1LDKのマンションは、実家よりも giboulée と scandalous に近い街にあった。




 セールが終わり、やっと長い連休に入った日、先に入居していた雫を追って私の荷物を運び込む。教えるまでもなく、いくつかの道具を使いこなしていた雫だったけれど、物干し竿がなかったので母の運転でホームセンターに行った。服や布団などを干すための道具をそろえていく。


 scandalous が入っているファッションビルの駐車場に車を止め、初めて母と一緒に giboulée のガラス戸を開けた。

「不思議ね。一瞬、降ってきたのかと思った」

 大きな窓の向こうを振り返りながら母が言う。よく晴れた真夏日だった。

「いらっしゃいませ」

 メニューと水を二つ持った雫が、私たちのテーブルまで笑顔でやってきた。

「こちらが雫。こちらが母だよ」

「はじめまして。三田雫です。よろしくお願いします」

「はじめまして。こちらこそ、紗季をよろしくお願いします」

 雫はオーナーの甥ということになっている。

 奥のカウンターの中に雫が戻り、メニュー表を母に渡した。

「引越しを手伝ってもらったお礼にごちそうさせて」

「じゃあ、遠慮しないでいただくね」

 暑かったのでアイスアメリカーノにしようと思っていたけれど、店内は心地よい涼しさで、やはりマチネを頼もうと決めた。あとはタコライスとプリン。

「マチネとソワレはどう違うの?」

「マチネは一日の始まりや、やる気が欲しいときに合っていて、ソワレは一日の終わりや、ゆっくりしたいときに合っているんだって」

 母はマチネとボロネーゼに決めた。奥のカウンターでハンドドリップしている雫に見惚れていると目が合い、笑顔になった彼がそっと頷く。

「すてきな人だね」

「本当? ありがとう」

 雫は別のテーブルにブレンドを届けてから、私たちのテーブルにオーダーを取りに来てくれた。ホールにいる雫は新鮮で、ずっと見ていたかった。


 いつもは賄いを食べてから帰るという雫に、今日は一緒に晩ご飯を食べよう、と伝えてあった。私はあまり料理をしないけれど、これからはできるだけ作ろうと思っている。

 駐車場に戻り、最後に母にスーパーマーケットにつれていってもらう。豆乳クリームパスタのレシピを検索して、買うものをメモしてきていた。道具の使いかたを見てもらいながら、雫と一緒に作るつもりだ。



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