第127話 異世界の森にネス湖出現

天井近くの採光穴から柔らかな光が差し込み、俺の顔をくすぐる。どうやら、寝ている間に日付が替わっていたらしい。


「おはようございまぁす……」


体を起こし、ミアさんに一言だけ挨拶すると、麻痺まひしているかのように力が入らない手足を無理矢理に動かし、アニスさんのベッドという名のトラップからい出した。


「おはよう。と言っても、もう昼が近いがな」

「ははは……」


ミアさんの話では、俺は二十時間くらいぶっ続けで寝ていたらしい。


とはいえ、そのくらいの睡眠なら、日本にいた頃もたまに取っていたような気がする。あまり褒められたことではないが、試験の前日なんかに、ほぼ徹夜で詰め込んでいたからだ。


限界まで脳と身体を酷使こくししてからの長時間睡眠――健康には良くないのだろうが、め込まれた欲求を一気に解放しているみたいで、気持ちいいことこの上なかった。そして、それだけぐっすりと眠った後は、頭サッパリ、お目目パッチリ、おはようビューティフルワールド! って感じになるのがお約束だったんだが……今回は違う。


ひどい頭痛。加えて吐き気。呂律ろれつも怪しい。まるで二日酔いだ。

いや……酒飲めないから、二日酔いってのがどんな状態なのか知らないけど。


「ところでぇ、アニスさんはぁ?」


まりのない声で、ミアさんにたずねる。頭の中にもやがかかったように、思考がまとまらない。


「少し前、今日の分の食料を集めに出掛けた。ところで、少し言いにくいんだが――」

「何ですかぁ?」


「アンタ、ひどいにおいだぞ」

「ああ。やっぱりぃ、くさいですかぁ? すいませぇん」


当然だ。なんせ、丸一日近くもの間、濃厚な獣臭けものしゅうに包まれていたんだから。

俺は素直にくさいことを認め、謝罪した。


「それに、顔によだれあとが付いている。いくら疲れていたとはいえ、救世主ともあろう者がではまずい」

「そうですねぇ。アニスさんをぉ、説得しなきゃあ、いけないってのにぃ――」

「それはもう、昨日のうちに終わらせたぞ」


「てことはぁ、アニスさん、協力してぇ、くれるんですかぁ?」

「ああ。こんなに上手くいったのは、アンタのお陰だよ」


「またまたぁ。俺ぇ、鬼ごっことぉ、かくれんぼしかぁ、してませんよぉ?」

「確かにな。けど、アニスが満足してくれたんなら、それが一番だったってことさ」


そう言うと、ミアさんはからからと笑い、水場の位置を教えてくれた。この小屋のすぐ近く、歩いて三分ほどのところに、清潔な水が流れる小川があるそうだ。


「アタシは昨日と今朝、そこで水浴びをしてきたが、最高に気持ち良かったぞ。アニスが戻ってくる前に、アンタも行ってきたらいい」

「はあ。それじゃあ、そうしまぁす」

「待て。ついでに、これを持っていけ」


ミアさんが道具袋から取り出したのは、乳白色の固体。丸みをびた直方体って感じの形だ。


「これぇ、何ですかぁ?」

石鹸せっけんだ。アンタのにおい、水で洗っただけでは落ちそうにない」


「いいんですかぁ? 俺が使ってもぉ」

「言っただろう? 救世主たるもの、身だしなみにも気を付けないと」


なるほど。ミアさんの体からいつもいいにおいがするのは、マイ石鹸せっけんを持ち歩いているからか。こういうとこ、さすが名門貴族の子女って感じだな。


石鹸せっけんを受け取り、顔を近付けてみる。

おお。これは――


「何かぁ、いいにおいがぁ、しますねぇ」

「母が愛用していた銘柄めいがらのもので、女向けではあるが……少なくとも、今よりはマシになるだろう」

「はあ。それじゃあ、有難ありがたく使わせて頂きまぁす」



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



さて、ミアさんに教えてもらった小川にやってきた。


小さな木が折り重なるように密集したその奥に、くだんの小川はあった。大型の動物に荒らされないよう、植物たちが隠しているようにも見える。何というか、って言葉がぴったりの情景じょうけいだ。


枝をき分けて近付き、透明な水に触れる。馬鹿みたいな暑さだというのに、驚くほど冷たい。たぶん、このあたりの地下水が湧き出してるんだろうな。


では! 前置きはこのへんにして! いっちょいきますかぁ!


光の速さで全裸になり、冷たい水の中へ一直線にダイブ。どっぼおんという心地いい音、盛大な水飛沫みずしぶきともに、体中にまとわりつく不快感のすべてから、一瞬にして解放される。


ミアさんの言った通りだ。

気持ちいい。気持ちよすぎて、あふれ出した脳汁が耳からこぼれてきそう。


よし。それでは、お借りした石鹸せっけんを使ってみるとするか。女性向けという話だったが、このにおいから解放されるのなら、何だっていい。


まずは両手で泡立て、全身に……って。


こ、これ! 泡立てるとすげえいいにおいがするぞ!

安物の香水のような、不自然な付加要素をまったく感じない。例えるなら、一流の庭師が丹精たんせい込めて手入れした薔薇園ばらえんの中にいるようだ。


まさに貴族! まさにお嬢様の香り!

何時間もの間、獣の悪臭にさいなまされ続けてきた我が嗅覚。

それが今……歓喜かんきの涙を流している! 


浄化カタルシスぅっ!」


俺は大声で叫びながら、全身に染み込ませるように泡を塗りたくると、再び水の中へ飛び込んだ。

最高。最高にハイってやつだ。よし。この異常な高揚感ハイテンションに任せて、まだこっちの世界では披露ひろうしていないをやっちゃいますか!


ルークさんがいない今、浮遊魔法フローティングの恩恵は得られない。だが、それはむしろ好都合というもの。俺は手と足を小刻みに動かし、体を仰向けに浮かせると、を水面から露出させた。


ふふふ……異世界の森に、あっという間にネス湖が出現! これぞ我が奥義、だ! この解放感……ツッコミ役がいなくても楽しいぜ!


そうだ。これ、今度は皆を誘ってやってみよう。タッシー、ギッシー、ルッシー、ミッシーの四匹が悠々と水面みなもただよえば、そこはまさにUMA未確認動物のパラダイス! 世界中から続々と観光客が訪れ、子供たちはタッシーのぬいぐるみに熱狂し――


「タラキ、そこにいるのか?」

「おぅわああああっ!」


どこからともかくアニスさんの声が聞こえてきて、タッシーは水中へとのがれた。


「い、います! ちょっと前に起きて、水浴びに来ています!」

「そうか。水をみに来たんだが……昼食後に出直すとしよう」


「あの! それと、昨日はベッドを占領して、すいませんでした!」

「気にするな。あのベッドは簡素なものだが、なかなかの寝心地だっただろう?」


「そ、そりゃもちろん! 最高でした!」

「それでは、私は家に戻る。お前も早めに帰ってこい。あまり遅いと先に食べておくからな」


その言葉を最後に、アニスさんの声は聞こえてこなくなった。どうやら、水場の近くに来ていたわけではないらしい。かくれんぼのときに使った、声を遠くに届ける魔法を使ったのだろう。


しかし今回のこと、きもめいじておかなくては。

タッシーは見つかってはならない。

というより、見つからないからこそ価値があるんだ。


決めた。皆を誘うのはやめておこう。ルッシーとミッシーはともかく、露出狂気味のギッシーは、きっと趣旨しゅしを理解しないから。

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