紗栄子は、崖下を仁子を探して進む。

 誰も歩かない場所である。枯葉がうずたか積もり、足首まですぐに埋まってしまう。普段なら、姿を見ただけで悲鳴を上げてしまうような大きな虫が、足元からブウンと羽音をさせて飛び立った。

 恐ろしい。

 だが、紗栄子には、どうしても後戻りは出来なかった。

 細々と聞こえる仁子の声を頼りに、慣れない山道を進む。


「仁子……」


 目を凝らしても、木々に視界を遮られるこの場所では、仁子の姿は見えなかった。

 軍手もしていない手は、どこで切ったのか、スリ傷だらけだった。


「まま……」


 沢の水音が耳に入るほど下に降りた時に、仁子の声がまた聞こえた。

 流れの横にうずくまっている小さな影に気づいて、紗栄子は駆け寄る。

 

「仁子!」


 抱きしめると、すっかり冷たくなった体は小刻みに震えている。

 そうだ。水族館で仁子の着ていたはずのパーカーははぎとられてしまっていたのだ。

 こんな寒空で、幼い子どもを上着も着せずに放置するだなんて。紗栄子の怒りは、腹の底からフツフツとまた湧いてくる。


「寒かったね」


 紗栄子は、自分の着ていて上着を仁子に着せて仁子を抱きしめる。


「ママ、痛い」

「え?」


 見れば、仁子の足から出血している。

 紗栄子もここへ降りて来る時に、手足が傷だらけになったのだ。

 暗い山道だ。しかも、仁子は、灯りを持たない。

 仁子だって、この場所へ来るまでに怪我をしたのだろう。

 紗栄子は、上着のポケットからハンカチを取り出して、仁子の傷を止血する。


「あのね。先生と内緒で水族館行ったの。でも、迷子になって、ね、それでね、道から落っこちちゃったの」

「うん……」

「パパもいるって」

「うん……」


 妹島は、入院している。顔は、紗栄子も見ている。きっと、あの女……が、仁子を騙したのだろう。しばらく会っていなかったパパがいると保育園の先生に言われて、仁子はすっかり信じてしまったのだろう。

 保育園の先生と、パパと一緒に、夜の水族館。仁子は、楽しい気持ちを心一杯に膨らませていたに違いない。

 そして、それは、最悪の形で裏切られた。


「大変だったね。もう大丈夫よ」


 仁子の頭を撫でて、紗栄子は仁子を落ち着かせる。


「どうして、こうなっちゃったんだろう……」


 妹島と離婚してから、ずっと考えてきた答えのない問いが、また、紗栄子の口からこぼれ落ちる。


「ごめんなさい……」

「ううん。違うの。仁子は悪くないの」


ぎゅっと仁子を抱きしめる紗栄子の力が強くなる。


「仁子、お腹空かない?」

「うん……喉も渇いた」

「そっか。明日、仁子の好きなレストランへ行こうよ」

「いいの?」

「もちろんよ。パンケーキでも、ジュースでも、ハンバーグでも、何でも頼んで良いのよ」

「仁子、イチゴの載ったやつがいい!」


 昔、妹島と結婚していた時によく外食したレストラン。

 仁子がそこの料理を気に入っていたことは知っていたのに、離婚してからは、全く足を向けなかった。

 細かな我慢を、仁子にさせてきたことが、黙って水族館へ行くという行動につながってしまった気がした。

 


「いっぱい食べようね」


 紗栄子の言葉に、仁子の返事はなかった。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る