僕の一歩

淺琲 凜李子(あさひ りいこ)

僕の一歩

ふわふわ、ふわふわ…

気がつくと、僕はそんな効果音がぴったりなくらい宙を漂っていた。比喩でもなんでもなく、本当に体がふわふわと浮いているのだ。なんでかはわからないけれど、それが異常事態であることだけはわかる。何故かって?それは、普段僕は地面を歩いているからだ。

ただわからないことが一つ。いや、二つ、三つ、四つ…いくつかある。

僕は一体誰なのだろう?

「お目覚めですか?」

「うわ!びっくりした!」

右隣から急に話しかけられて驚いた。さっきまで誰もいなかったはずなのに!もしかして僕が気づいていなかっただけで本当はずっといたのだろうか?

「何面白い顔してんの?」

「うわ!こっちにもいた!」

反対側からヘラヘラとした別の声がした。また急に人が現れた!いや、この人も実は最初からいたのか?わからない。何故かって?それは、僕には今何も見えていないからだ。まるでずっと目を閉じているかのように何も見えない。

「思ったより冷静なようで安心しました。これからあなたの現状について説明させていただきます」

最初に話しかけてきた右隣の人が淡々とした口調で話し始める。冷静というよりわかることが何もなくて混乱することもできないだけなのだけれど。

「簡潔にいうと、あなたは死にました」

「わあ、簡潔」

「そしてこれから次の誕生に向けて転生の手続きをしていただくのですが、少々問題があります」

「問題?」

「あなたが何者なのかわからないのです」

「…なる、ほど?」

それがどれだけ重要なのかはわからないけれど、喋り方的にはそんなに問題なさそうにも聞こえる。

「ちなみにこのまま分からずじまいの場合、君は一生転生の権利を剥奪され、俺たちは消滅することになる」

「………………大問題では?」

「大問題です」

「大問題だね」

「いやもっと焦りましょう!?」

あまりにもあっけらかんとしすぎていて何故かこちらの方が焦ってしまう。

「というか消滅って?あなた方は一体何者なんですか?」

「私たちは死者の魂を正しく導き、輪廻転生の理が乱れないよう管理する者です。そのために日々世界中を飛び回り、寝る間も惜しんで個人の個人的に所有する膨大な情報という情報を見聞きし、それを情報局へ」

「まあ、君たちの世界でいうところの天使ってやつだよ」

「なるほど」

なんとなくほんのり若干理解できる範囲でわかった気がする。

「とにかく、あなたに自分自身のことを思い出していただくために私たちはここに来たのです」

「それはそれはご足労を」

「本当にね。大体は自分で自分の行くべき場所を判断して向かうのに、とんだハズレくじの担当になっちゃった」

「おやめなさい」

「本当のことでしょ」

どうやらとんでもない面倒をかけてしまっているようだ。

「ん?自分の行くべき場所って普通自分でわかるものなんですか?」

「そりゃそうでしょ。善行も悪行も等しくその人自身が一番よく自分のことを知っているんだから」

「でもそうすると、魂を導くという天使の仕事って必要なくないですか?」

「……」

「……」

「まずはあなたの姿形を探っていきましょう」

「そうだね」

「無視?」

あまりにも華麗にスルーされてしまった。図星なのか?図星だったのか?

「というか、個人の個人的な情報、つまりただの個人情報を見聞きしているんなら、僕のことも調べ済みなのでは?」

「長くなるかもだしなんか飲みもん持ってくる」

「ミネラルウォーターでお願いします」

「見えてますかー?僕ここにいますよー?」

僕に彼らが見えていないように彼らにも僕が見えていないのだろうか?いや、そうだとしても声は聞こえているはずだよな? まるで一人取り残されたような寂しさを感じる。

「そういえば先ほど姿形を探ると言っていましたが、あなた方から見た僕は一体どんな形をしているんですか?そこから何かわかったりとかしないんですか?」

せめてどんな生き物なのかが分かれば僕自身思い出しやすくなるかもしれない。そう思って聞いてみたのだけれど、返ってきたのは意外な言葉だった。

「あー、それは無理だね。今君の体はモヤみたいに歪んでる。どんな生き物だったかは見当もつかない状態だ」

「やっぱり聞こえてるじゃないですか」

「ミネラルウォーター一丁」

どうやらかなり都合のいい耳をお持ちのようだ。どんな形をしているのか見えないのが残念で仕方がない。

「…まあいいです。いや会話の内容的には良くないです。大丈夫なんですか?姿が歪んでるって、そこから解明できることあります?今から入れる保険もうないってくらい詰んでません?」

「いえ、情報ならありますよ。少なくともあなたの生まれたであろう国は判明しました」

「え?どうやって?」

「言葉です。あなたが今話している言葉は日本語といって、日本という国でしか扱われていない言葉になります。他の言語が出てこないところをみると、おそらく日本生まれの日本育ちなのかと」

「なるほど」

「また、先ほどからあなたはご自身のことを“僕”と表しています。日本でこの一人称を使うのは男児、もしくは若い雄…いえ、若い男性が多いです。これによって年齢と性別もある程度はわかるかと」

「つまり、僕は男の子か若い男性ってこと?つまり、僕は若くして亡くなったってこと?つまりそれは…なんたる悲劇!」

「まあそうとも限らないけどね?」

「え?」

僕の嘆きに対し左隣の天使が間髪入れずに否定の言葉を被せる。

「日本っていうのは独特な文化を持った国なんだ。だからかその一人称っていうのも他の国より種類が多くてね。僕の他には俺、私、あたし、あぁし、わし、うち、おら、おいら、拙者、某、我、朕、吾輩、小生、わたくし、わらわ、まろ、あちき、わっち、僕ちん、おいどん、ミーなどあげ出したらキリがない」

「そんなに!?」

「最後のは英語だったような気もしますけど…」

「それだけじゃない。日本では今空前の“ボクっ娘ブーム“だ」

「ボクっ娘ブーム…!」

「そう!自分のことを僕と呼ぶ女子がこの世を震撼させているのだ!政治家の中にはそのことを危険視する者も現れ始め、議題はもっぱら『ボクっ娘の粛清運動』について。もし君がボクっ娘ならば何者かに命を狙われその結果…」

「嫌ー!日本、恐ろしい国!」

「とまあ冗談はこの辺にしておいて」

「冗談なんですか!?」

「むしろ何故本気にできるのかが疑問です」

右から呆れ声、左から笑い声。馬鹿にされているのがひしひしと伝わる。なのに不思議と嫌な感じがしないのはこの状況に慣れつつあるからかもしれない。僕の順応力恐るべし。

「まあ、これだけで性別や年齢が特定できないっていうのは本当だよ。だから次は質疑応答を行う」

「はい、よろしくお願いします」

「そんなに構える必要はありません。まずはリラックスしてください」

「はい」

「体の力を抜いて、暖かいお日様に包まれているような気分で」

「はい」

「……」

「……」

「……」

「……?あの?」

「はっ、よろしゅうございます」

「寝てましたね?」

「そんな馬鹿な」

「いや完全に寝起きの声でしたよね?」

「次の質問です」

「まだ何も答えてないです」

この人、いやこの天使、口調はこんなにも丁寧なのに思ったよりもいい加減だな? もしかして天使というのはこういうものなのだろうか?これが普通なのだろうか?

「それでは第二百二十二問」

「二百二十一問分はどこに旅立ったんです?」

「あなたがイメージする歩行は二足歩行ですか?四足歩行ですか?」

「まあ、二足歩行かな」

「第二百二十三問、あなたは人間ですか?」

「それを確かめるための質疑応答では?」

「質問に質問で答えないでください」

「理不尽な」

「まあ二足歩行の日本生物なので大体人間でしょう」

大雑把だと思う。けれどいちいちツッコむのもキリがないと思い、僕は質問に答えることだけに集中することにした。

「朝目覚めた時、何をしたいと思いますか?」

「うーん…とりあえず朝食かな?」

「朝食で食べているのは?」

「…わかりません」

朝食を食べるという行動は容易に想像できるのに、それが何かと言われると返答に困ってしまった。僕はいつも何を食べていたのだろう?

「なんでもいいんですよ。あなたが人間だとすると、お米とか卵とか」

卵…なんだか馴染みがある気がする。きっと僕は卵をよく食べていたに違いない!

「卵!卵だと思います」

「…なるほど、朝食は卵ですね」

なんとなく不思議な間があった気がするけれど、右隣から何かをメモするような音がするので特に問題はないのだろう。

ところで先ほどから左側がやけに静かなのだけれど、左隣の天使はいなくなってしまったのだろうか?そうなら一声かけるくらいしてくれてもいいのに。

そう思い何もないであろう左隣に手を伸ばしてみる。すると、カサ、という微かな音と共に何かが手に触れる感触がした。これは…羽?そうか、彼らが本当に天使なのだとしたら羽があってもおかしくない。この羽で空を飛んだりするのだろうか?

「…いいな」

「はい?」

僕の無意識に出た言葉に右隣の天使が怪訝な声を出す。

「あ、いや、これって羽かな?なんて」

しどろもどろにそう告げると、突然左隣からバシッという音が聞こえた。

「いっ!はっ、二百二十一の質問が襲ってくる夢見てた!」

「とんでもないところに旅立ってた」

というか、この天使もしかしてずっと寝ていたのだろうか?そういえばリラックスして体の力を抜くくだりら辺から声が聞こえなくなっていた気がする。え、もしかしてそこから?今おそらく何かで叩かれたであろう瞬間まで?なんとなく忘れがちだけれど、僕が何も思い出さなかったらこの人たちは消滅してしまうんだよね?危機感なさすぎじゃない?

「全く、珍しく大人しくしていると思ったら何をしているんですか」

「しょうがないじゃん、毎回同じことの繰り返しでつまんないんだもん」

まるで親子のようなやりとりだ。親子…なんだろう、この言葉にも何かが引っ掛かる気がする。

「親子…もしかして僕には子供がいる?いや、僕が子供の可能性も…」

「お?何か思い出した?やっぱりいつもとちょっと違うことをしたほうがいいこともあるんだよ!」

「…はあ、まあ思い出させたのはお手柄と言ってさしあげなくもありません」

「どうもどうも」

「他に何か思い出したことなどはありますか?」

「他?うーん、特には…」

思い出したというより、話の中で無意識な違和感を抱いたというほうが近い。なので、はっきりこうだ!と言えるものは今のところ何も思い浮かばない。

「そういえば、先ほど羽に興味があるようでしたが」

「あ、そうですね。なんとなく羨ましいなとは思ったんですけど、その理由までは」

「羽への憧れなんて空を飛びた胃とかそういうのじゃないの?」

「なるほど…確かに言われてみればよく空を眺めていた気がします」

左隣の天使の言葉にいつも見ていた光景が蘇る。そうだ、確かに僕はよく空を見上げていた。そして何かを叫んでいた気がするんだけれど…

「うーん、思い出せない」

「まあ、すぐに思い出せていたらこんなに苦労することもないでしょうしね」

「う、すみません」

「いえ、これも私たちの仕事ですから」

淡々としすぎていてその言葉が本心なのか怒りからなのかがわからない。

「とりあえず質問を続けます。第二百五十問」

「二十七問分が行方不明です右の方」

それから僕はいくつかの質問に答えていった。中には答えられないものや質問自体理解できないものもあったけれど、天使の二人は僕を見捨てることはなかった。それが嬉しくて、暖かくて。迷惑をかけているのは十分わかっていながらも二人が僕の担当で良かったと心の底から思った。

「それでは一旦整理すると、あなたはおそらく日本人男性多分既婚者、空を飛ぶ関係の仕事に憧れていて、好物は卵料理、祖父母と暮らしており両親は不明。親子関係に問題ある可能性あり。方向音痴で出かける際は誰かと一緒じゃないと帰れない。そのためよく人に囲まれていた」

「君、生きてても死んでても迷ってるんだね」

「いやあ、それほどでも」

「褒めてないよ」

「でもこれだけでは特定は難しいですね。もっと見た目に関するところも探らなければ」

「見た目、ですか」

「髪型や体型など思い当たるものはありませんか?」

聞かれて思い浮かべるいつもの自分の姿。

「…赤と黒?」

「赤と黒、ですか?」

「はい、よく赤と黒が目の端でチラチラしていたような気がします。黒い方に関しては引きずっていたというか…あ、あと黄色も」

「考えられるものとしては髪の毛や服装でしょうか」

「日本人といえば黒髪と聞くし、黒は髪色なんじゃない?」

「でも引きずってましたよ?」

「めちゃくちゃ長かったんじゃない?」

「適当だなあ」

左隣の天使の緊張感がない声を聞いているとこちらまで気が抜けてしまいそうになる。ここで改めて確認しよう。このまま僕が何も思い出さなければ僕は転生不可能に、この二人は消滅してしまうのだ。

「装飾品という可能性もあるかと。だとするとそれなりにオシャレな方だったのかもしれません」

「そうでしょうか?」

「もしくはだいぶ独特のセンスの持ち主か」

「その上げて落とすのやめません?」

弄ばれている気がする。どことなくほんのりと。

ともかく服装に関する情報は出た。身に纏っている姿は全く想像できないけれど、一歩真相に近づいたことに変わりはない。

「ところで、この質問って最終的にどこまで判明すれば僕は転生できるようになるんですか?」

そういえばゴールラインを聞いていなかったことに今更気づく。聞かれるまま答えているだけよりも、彼らが僕に何を思い出して欲しいのかが分かったほうが僕自身もやる気が出るというものだ。

「そうですね、これといってどこまでという基準はありません」

「え?」

「記憶を失くしてここに来ること自体稀な上に、何をどのくらい思い出せば輪廻転生の輪に戻れるかはみんなそれぞれ違うんだ。ある者は生まれ故郷を思い出すだけで良かったし、またある者は死ぬまでの一生を思い出すまで戻れなかったこともある。基準にするには判断材料が少ないんだ」

珍しく左隣の天使がまともに説明してくれた。つまり、これさえ思い出せば!というよりも数打ちゃ当たる方式に思い出せるものを思い出したほうがいいということだろう。

「でも基準がないならどうやって終わりを判断するんです?」

「思い出した瞬間わかる方もいますが、大体は時間です」

「時間?」

「記憶を失くした者がここに来てから約一時間の間に重要な記憶を思い出さなかった場合、強制的に輪廻の輪から外されます」

「い、一時間!?聞いてないですよ!」

「言ってないからね」

「言ってくださいよ!」

「忘れていました」

「最重要事項でしょう!?僕まだほとんど思い出せてないですよ!」

ここに来てどれほどの時間が経ったかはわからないけれど、少なくとも一時間は経っていないはず。それまでに重要な記憶を思い出さなければ!

「もっと思い出すべきこと…あるはずだ。思い出せ、思い出せ僕…!」

「ちなみに残りあと十分ね」

「短くない!?」

思いの外タイムリミットが迫っているという事実が頭の働きを鈍くさせる。そもそも毎日忘れるものの方が多い日々の中から何かを思い出せと言われても、はいこれですね、と出てくるわけがないじゃないか。

「焦ってるねえ」

「焦ってますねえ」

「逆に何故ゆえそんなに冷静なんですか!あなたたちだって消滅しちゃうんですよね!?」

訴えるようにそう尋ねれば、二人とも変わらないテンションで各々話し出す。

「まあ、天使なんてそんなもんです」

「下界のやつらとは存在から違うしね〜」

「消えたくないとかないんですか!?」

「まあ、特には?生まれた時も突然だったし、下界でいう死ぬとはまた違うし」

「そもそも何かに抗おうとすること自体考えることがありません。できるだけ流れに身を任せて空気抵抗を減らす。それが世界の理というものならば当然私たち管理者も従うしかありません」

「そんな…ん?今、なんて?」

「それが世界の理というものならば、私たち管理者も従うしかありません?」

「いや、その前」

「下界でいう死ぬとはまた違うし?」

「左の方は黙っててください」

「なんで!?」

「…できるだけ流れに身を任せて空気抵抗を減らす、ですか?」

「それだ!」

“空気抵抗”という言葉に失った記憶が反応し、同時に幼い頃の記憶のようなものが頭の中で流れ出す。四角い箱に入る僕を箱ごと抱えるおじいちゃん。そのままそこかしこを走り回り「ブーン」という掛け声に合わせて箱を上下に大きく揺らす。その時によく話してくれた。

「本物の飛行機は空気抵抗を抑えるために先が尖っていて、こんな箱よりもっとかっこいいんだぞ」

と。その後に「俺も本当はパイロットになりたかった」と遠くを見ながら零していた。

だから僕は決めたのだ。おじいちゃんのためにも僕がパイロットになろうと。

「わかりました」

「え?」

「僕が取り戻すべき記憶がわかりました。僕の夢、憧れ…。何があってもこれだけは忘れちゃいけなかったのに」

「でも思い出せたんでしょ。だったらもう忘れなければいい」

「…はい、もう絶対に忘れません」

「タイムリミットまであと五分ちょっと。ギリギリではありますが、無事ミッション達成ですね。あなたには見えないでしょうけれど、このまま真っ直ぐ十メートルほど先に輪廻への入り口があります。足元に気をつけて、忘れ物のないようにお進みください」

右隣の天使が優しい声で僕を導く。そんな声も出せたんだなと、つられて僕まで優しい気持ちになれた。

「もう戻ってくんなよ」

左隣の天使は変わらずヘラヘラとした口調だけれど、不思議とその言葉に温もりを感じる。

「ありがとうございました。行ってきます」

僕は迷うことなく一歩を踏み出した。


「…行ったかな?」

「…行きましたね」

「…」

「…」

「っはあー、やっと終わった!」

「ええ…長かったですね…」

「あんなに厄介な魂は初めてだよ!」

「もう二度と担当したくないですね」

本日最後の魂を見送った後、残された管理者二人はその場にへたり込んだ。

死後に記憶をなくし輪廻の輪に戻ることのできなくなった『はぐれ者』。管理者は自分達が日頃集めている情報を基にそのはぐれ者の記憶を取り戻す手伝いをしている。

ただ、全てが善意というわけでもない。気が向いた時にしかその役目を果たさないので天使というにはいささか無責任すぎる部分もある。もしくは野心のある者が出世のためにそういった仕事をする。仕事といってもさまざまで、中でも管理者は生前の情報を基に魂を導けはいいだけなので、楽に効率よく仕事をするために選ぶ者が多い。

「…はずなのに、さっきの魂ハズレにも程がある」

「あまりそういった言葉を使うべきではないと言いたいところですが、今回は同意せざるを得ませんね。まさか、あんなにも忘れっぽい“鶏”がこの世にいたなんて」

お互い顔を見合わせて再び大きなため息を吐く管理者二人。

“鶏”というのは先ほど見送った魂のことである。日本語には『鳥頭』という言葉があり、物忘れが激しいとか記憶力がないという意味で使われている。

しかし二人の会話に出てくる鶏はその比喩で言っているのではない。


遡ること五十五分前。その魂は二人の前に現れた。

「…僕は一体誰なのだろう?」

ふわふわという効果音を纏いながら漂う魂。紛れもない“はぐれ者”である。

「これからあなたの現状について説明させていただきます」

そうしてあらゆる情報を駆使し、ものの数分で魂の正体を突き止める。

「やっぱり。君は塚本牧場の尾長鶏だったんだね」

「はい。どうやらそのようです」

記憶を取り戻した魂は本来の美しい尾長鶏の姿に戻った。立派な赤いトサカに絡まることなく伸びた黒い尾羽。その姿だけでとても大切にされていたことがわかる。

「そういえば一羽ずいぶん年寄りの個体がいましたね。なるほど。無事寿命をまっとうできたようでよかったです」

「むしろ塚本の爺さんがまだ生きていることにびっくりだけどね」

「はは、そうですね。お爺ちゃんはまだまだ元気ですよ。僕が先にこっちに来て寂しがっていないといいんですけど」

鶏がポツリと悲しげな声を出す。

「気になるなら待ちますか?」

「待つ?」

「“虹の橋”といって、動物が生前お世話になった人間を待つスペースがあります。そこにいれば転生を遅らせることができ、たまに下界の様子を見ることもできます」

「僕、そこに行きたいです!」

「決まりですね。それではあなたの行き先は“虹の橋”。このまま真っ直ぐ五十メートルほど先に入り口があります」

「真っ直ぐですね、わかりました。真っ直ぐ進むのは得意です!」

そう言って歩を進める鶏。力強く一歩、二歩、三歩…進んだところで突然鶏の姿が消えた。

「…ん?」

「…え?」

突然の出来事に管理者二人が戸惑っていると、

ふわふわ…。

どこかで聞いたような効果音が聞こえてきた。

「…僕は一体誰なのだろう?」

「「ええ!?」」


「そこからが大変だった…まさか本当に三歩歩くと全部忘れる鶏が存在するなんて。何度思い出させては忘れを繰り返したか…」

「でもあの鶏、塚本さんの趣味で芸を教え込まれていましたよね?確か算数の計算ができるとか」

「そうそう、足し算と引き算ができるんだよ。だからたまにテレビとかに出てちょっとした有名人、いや有名鳥だったんだけど、あの様子じゃ何か裏があったとしか思えないよね」

「ああ、だから『よく人に囲まれていた気がする』なんて言っていたんですね」

「多分。それにしても時間が間に合ってよかった。まさか人間と思い込ませるだけで十メートル歩ききるとはね」

「苦肉の策でしたがうまくいってよかったです。彼が単純なのが功を奏しましたね」

「目隠しするだけで目が見えないことを受け入れるとは思わなかったけど」

「しょうがありません。思い出すことを繰り返しすぎて魂が形を覚え始めていましたから。体に残った鶏の片鱗を万が一にも見られてしまったら一発で人間じゃないとバレてしまいます」

「急に羽根で触られた時はもうダメかと思ったよ」

「それも彼の思い込みの賜物ですね。自分のではなくあなたの羽だと勘違いしてくれた」

「管理者に羽なんてあったら余計に天使だと思われちゃうよ」

「何はともあれお疲れ様でした。本日の業務は終了です」

「これでやっとゆっくり遊べる。せっかくだし下界に行って塚本牧場の様子でも見てこようかな」

「ハメは外しすぎないでくださいね。後処理が面倒なので」

「わかってるって」

ふわふわ

「…ん?」

ふわふわ

「…え?」

「なんか、不穏な効果音が聞こえる気がする…」

「…僕は一体誰なのだろう?」

「「この鳥頭―!」」

タイムリミットまであと三分。ゴールラインまであと一歩。

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