第10話 上書きはイチゴ飴で

 真っ黒な画面をタップし、メッセージアプリを立ち上げた。最上段にある『良太りょうた』のトーク画面を開いてみるが最新のメッセージは八分前に送った自分のものだ。既読マークは未だついていない。あんは下唇を軽く噛み、〝今どこ?〟のスタンプを連打する。

 何かあったのだろうか。急に体調不良になって倒れている……のはさすがにないか。でも何かのトラブルに巻き込まれているとかなら。


 ――あぁ、ありそう。


 つい半眼を閉じていた。良太の場合、巻き込まれ系アクシデントはものすごくあり得る。

 ……なんて。現実的に考えるなら〝目当ての店がものすごく並んでいた〟あたりが妥当なはず。


 籠巾着かごきんちゃくにスマートフォンを放りこむと顔を上げた。

 花火会場へと続く土手沿いの道は車が優にすれ違えるほど幅広い。さながら歩行者天国となったその端には様々な屋台がずらりと店を構え、皆めいめいに並んだり冷やかしたりしていた。そのどこにも杏の見知った顔はない。


 ――こんなことなら一緒についていくんだった。


 りんご飴が食べたいと、既に通り過ぎてきた方向に駆け戻っていく良太を見送ってからそろそろだ。駅を降りての道すがら、良太が屋台に目を輝かせていたのはわかっていた。だから唐揚げを買ったし、時間内に食べるならそれだけで十分だと説得もした。けれど彼は頑として聞かなかった。


「杏さんはゆっくり行ってて。すぐ追いつくから」


 良太の言う〝すぐ〟とは一体何分くらいを指すのだろう。少なくとも杏にとっての四十分は〝すぐ〟ではない。

 やり場のないモヤモヤを溜息にこめて吐き出した。いつものことと言えばいつものことだ。自分と彼とではきっと時間の流れ方が違う。良太はいつだって〝のほほん〟としているもの。

 突如、どん、と背中に衝撃を受けた。


「きゃっ」

「おわっ。――何すんだよ、ぶつかったじゃん」

「だっせー」


 男ばかり複数人のグループのようだ。当たった男は杏をロクに見もせず、仲間内でぎゃははと笑いながら離れていった。杏の眉間にぐぐぐと力が籠もる。そこは一言謝るところじゃないの?

 失礼な男たちはあっという間に人混みに消えた。その人混みも気づけば随分まばらになっていた。皆、土手へと続く階段を次々に登っていく。巾着の中のスマートフォンをタップしてみれば開始時刻が迫っていた。

 依然としてなんの通知も来ていないロック画面を睨みつける。モヤモヤが少しずつイライラに変わっていく。


「……本当に何してるのあいつ?」


 何が「上書きしたら変わるよ」だ。これじゃ上書きじゃなくてだ。

 電話をかければ流れてくるのは相手に繋がらない旨の定型文。メッセージアプリをタップすれば立ち上がるまでに結構な時間を要する。人が多すぎるせいか電話回線もネット回線もずっと不安定だ。せめて既読マークがついたかどうかだけでも確認したいのに――。

 杏はハッと顔を上げた。今、耳馴染みのある声が小さく聞こえたような。

 視線の先、遥か彼方にひょろっと背の高い男性が見えた。目が合うとその面持ちがぱあっと輝いた。


「杏さん!」

「良太!」

「よかったぁぁ、いたー! ほんとごめん! ごめ、ごめん、ごめん!」


 あっという間に駆けてきた良太は肩で息をしながら頭を下げた。それからいかにもホッとした様子で破顔する。片手にりんご飴、片手に三連のイチゴ飴を持った呑気なその笑顔に、杏の顔がカッと熱くなった。


「どこまで行ってたのよ! 電話しても出ないし」

「そう! そうなんだよ、電源、入らなくて。多分、充電切れかなぁ……。このまま一生会えなかったらって、ほんと焦った。よかったぁ……」

「一生って……。あのねぇ、ちゃんと充電しときなさいよ。肝心なときに使えないんじゃ意味ないじゃない」


 額を押さえ、深々と溜息をつく。電波以前の問題だった。

 脱力する杏とは対照的に良太はにこにこと朗らかな笑みを振りまいていた。


「やっぱ杏さんの浴衣姿最高だなぁ。遠くからでもはっきりわかったよ。すごく似合ってる。綺麗だなぁ」

「……なっ何言ってるの! 話を変えようとしても無駄よ。騙されないんだから」

「嘘じゃないよ。輝いてるもん。今日は杏さんと一緒に来られて本当によかったな」


 顔が熱を帯びていく。さっきとはまた別の感情で。

 今夜も彼の周りに小花が舞っていた。こういうときの良太は本当に嬉しそうに笑う。だから抗うのが難しいし、いつも丸め込まれてしまうのだ。

 大体今日はお互いにレアな浴衣姿だし。いくら自分が指定したとはいえ良太の和装は意外と似合っていて、ほんのちょっと格好いいかもなんて思ったりもするし。

 だけどそんなことは絶対言えない。言わない。代わりに眉間に力を込めて睨んでやれば、彼の笑みはますます深くなった。睨まれて喜ぶなんて本当に意味がわからない。


「……行くわよ。花火始まっちゃう」


 言い返すのを諦めた杏は良太の腕を引っ張った。こんなところで押し問答をしていても仕方がない。今夜のメインは打ち上げ花火。せっかく来たからには気を取り直して楽しまなければ。


 階段へ向かう列に合流し、歩調を合わせてぞろぞろと歩く。土手の上までは何段くらいあるだろうかと先を仰いだところで、


「おじちゃーん!」


 幼い声が響き渡った。

 杏たちがいる場所から十数人先の位置、まさに階段を登り始めた親子連れがこちらを向いていた。父親らしき男性と、彼に手を引かれた小さな女の子と。空いた方の手を目一杯振る少女の視線はなぜか杏に向けられているように見える。見覚えも、心当たりすらないけれど――。

 思わずあたりを窺おうとしたところで、隣から「あっ」と声がした。


「さっきの!」

「おじちゃんありがとー! またねー!」

「あっ……あの、気をつけてね!」


 女の子に負けず劣らず大きく手を振り返している良太を、杏はじとーっとめつけた。その視線を気に留めることなく良太はのんびり振り向いた。すかさず「誰?」と目で訴えれば彼はきょとんと瞬く。やがて照れ臭そうにふにゃっと顔を綻ばせた。


「あの子さ、りんご飴の屋台の前で泣いてたんだ。どう見てもひとりぼっちで」

「えっ迷子?」

「そう、迷子。それで一緒に探してたんだよ。こう……肩車して、誰か知りませんかーって。そしたらお父さんと無事に会えてさ。ほんとよかったよ。すごく感謝されちゃって、お礼にイチゴ飴これまで貰っちゃって」

「良太……」

「こんなところではぐれちゃうと大変だよね。あの子、まだ携帯持たせられるような歳じゃないし……あ、俺も同じか。電源入らないんじゃあ……。あの、ごめんね杏さん」


 イチゴ飴を持ち上げて見せた良太は、次いで申し訳なさそうに頭を下げた。杏は緩く首を横に振る。四十分かかった内訳は実に彼らしい理由だった。

 心が穏やかになっていく。良太がでよかった。


「――そういうことなら仕方ないわね」


 なのに杏の口から出てきたのは上から目線な言葉だった。可愛くない。もっと素直に、一緒に喜んであげられる性格だったらよかったのに。

 杏が内心溜息をついていると、隣の良太が杏よりも深くて大きな溜息を吐き出した。これには杏もぎくりとした。さっきの自分の言葉はやはり彼の気に障ったのだろうか。

 おそるおそる「どうしたの」と口にすれば良太は実に深刻そうな面持ちで眉尻を下げた。


「おじちゃんって」

「……え?」

「あの女の子。俺のことおじちゃんって言ってたよね? せめてお兄ちゃんって呼んでほしかったなぁ。おじちゃんか……」

「……あんたねぇ」


 マリアナ海溝のごとく深い溝を眉間に刻む。

 そうだ、良太はだった。普段は飄々としているのに変なところを気にするのだ。夏の遊園地では甥っ子はるにも散々おじさん呼ばわりをされたようで、あれからしばらくの間ぐじぐじと鬱陶しかった。


「安心しなさい。あんな小さい子からしたらたとえ十代でもおじちゃんよ」


 フォローになっているのかいないのか。

 よくわからない言葉を投げ、杏はぽんぽんとその肩を叩いた。










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