甘い香り


「でさーフィデリオさまも怒ってるしー、なんかグレイスにもすっごく怒られた」

「当たり前でしょ! エルノの顔ったら見てられなかったわ!」

「な、怖いだろ?」


エルノは頬杖をついたまま、肩をすくめた。


夕食を終え、ラウラは今、グレイス、エルノ、リーアムと厨房の隅でお茶を飲んでいた。

あの後、フィデリオと一緒に裏門から屋敷に帰ると、グレイスは歓喜の声を上げてラウラを抱きしめた。

街中でラウラを探していたというエルノたちも、帰宅してラウラを見た途端、深く頭を下げて何度も謝罪の言葉を口にした。


使用人の多くがラウラを探しに外に出て行った後、フィデリオは窓辺から周囲を見ていたらしい。

そこに、ラウラが見慣れない服装で坂道を登ってくるのを見つけ、急いで裏門へ向かったという。


「完璧な変装だと思ったのに!」

「あのフード可愛いかったわよ」


グレイスがふふふと笑う。

テーブルの上には、お詫びとして料理長が揚げたふわふわのベニエが山のように盛られていた。

雪のように粉砂糖がかけられ、中にはたっぷりのカスタードクリーム。

皆でベニエを頬張りながら、少し濃いめの紅茶を口に運んだ。


「本当にごめん、何も覚えてない」

「気にしないで。私も気持ち悪くなっちゃったし、相手は魔女なんだもの」

「魔女なんて、本当にいるって思わなかったよ」

「俺もいまだに信じられない。顔も思い出せないんだ」


リーアムは唇をへの字にして、頭を振る。


温室にロクセラーナが現れた時から、皆の記憶がまったくないそうだ。

料理長のネヴィルも庭師のオロフも同様で、フットマンの少年は熱を出してしまっていた。

気になっていた執事のセルジュは、書斎で倒れていたため魔女の姿さえ見ていないらしい。

濃厚な毒気に一気に当てられたようだ。


その後、全員の意識が戻った時、そこには今まで見たことがない表情のフィデリオが立っていたという。

憤怒に歪む美しい顔。

右手に短剣、左手に漆黒の髪を掴んでいる姿に、全員言葉を失った。

状況が理解できず、その怖さに膝が震えたと、エルノとリーアムは口を揃えた。


しかも、小さな女の子が床に座っている。

その天使みたいな少女をフィデリオが片手で持ち上げたので、これは現実ではなく、悪夢を見ていると思っていたそうだ。


ラウラはその光景を想像してみたが、怒ったフィデリオの表情がどうも思い浮かばない。


でも、二人がこう言うってことは、よっぽど怖かったのね。

短剣と長い髪を持ってる人が目の前にいたら、フィデリオ様じゃなくても恐ろしいけど……。

それにしても、どうしてロクセラーナは子供になったんだろう?


ラウラは、目の前のベニエを一つ頬張った。

カスタードとバニラの香りが口の中に広がり、自然と頬が緩む。

そのときふと、フィデリオの胸で大声で泣いてしまった自分を思い出した。


私ったら、背中ポンポンされてたわ……。


一気に頬が熱くなる。


「どうしたのラウラ?」


グレイスはベニエを頬張りながら、大きな目をぱちりと瞬いた。


「私、裏門で泣いちゃって……今思い出したらフィデリオ様に失礼なことを……」

「そりゃ泣いちゃうわよ。信頼してた仲間に放り出されたんだもの、ね?」


片眉を上げ、グレイスはエルノとリーアムを見た。

二人は申し訳なさそうに何度も頷いている。


「それはそうだけど……」

「大丈夫よラウラ。わたしも泣いたし、エルノのほっぺたを思いっきりつねったの」

「えっ!」


グレイスの言葉に、ラウラはエルノの顔を見た。

さっきからやけに頬杖をついていると思っていたが、よく見るとエルノの頬が真っ赤になっている。


「まあ!」

「な、怖いだろ?」

「もーエルノ!」


真っ赤な頬をしたエルノは、グレイスを茶化しながらも笑っている。

そんなエルノと話すグレイスも楽しそうで、いつも以上に愛らしく見えた。

二人の楽しげな笑い声が厨房に響き、ラウラはこんな日常が本当に幸せなんだとあらためて感じていた。


「そういえば、ラウラはこのあとフィデリオ様に呼ばれてるんじゃないの?」

「うん、魔女のことでお話が..….あっ!」


時計を見上げたラウラは、約束の時間が迫っていることに気づいて慌てて席を立った。


「私行かなきゃ、また明日ね」

「「うん、また明日」」

「待って、ラウラ」


エルノとリーアムが笑顔で手を振る中、グレイスは新しい籠にベニエを盛り、ラウラに差し出した。


「これ、フィデリオ様も好きなの」

「ありがとう」


二人は顔を見合わせて微笑んだ。


「じゃ、明日ね」

「うん」


ラウラはふわふわのべニエの優しい香りを味わいながら、笑顔で厨房を後にした。

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