7時間前 1
―― 7時間前
一台の馬車が山間の道を抜け、丘を下っている。
中には、一週間の遠征を終えたフィデリオと従者二人の姿があった。
車内には荷物が所狭しと積まれ、三人は背筋を伸ばして座っている。
「すまないね、こんなことになっちゃって」
「大丈夫ですよ、フィデリオ様」
「はい、お気になさらず。皆喜びますね」
「だといいんだけどね」
馬車の中の荷物は、使用人たちへの土産だ。
フィデリオたち三人は、姿勢よく座り窓の外の景色を眺めている。
「魔物にも会わず、天候も良く、良い旅でしたね」
「ああ。でもまさか、鑑定する魔法石が一つとはね」
「それは、まああれでしたが……」
フィデリオの正面に座っている従者二人は苦笑いを浮かべた。
ヴェル国のカール侯爵に依頼を受け、フィデリオは魔法石の鑑定のため遠征に出かけていた。
その国とは昔からの縁があり、フィデリオの曾祖父の時代からの付き合いだった。
カール侯爵がフィデリオを気に入っており、4年前に縁談の話を持ち掛けてきた。
一度断ったので、その話はもう終わったものと思っていたが、今回また婚約の話が出たのだ。
めずらしい魔法石というのは、ただの口実にすぎなかった。
他に用事が無いのであれば早めに帰国するというフィデリオを、あの手この手で引き留め、結局予定どおりの一週間の滞在となってしまった。
「乗馬や狩りなんて久しぶりすぎて、鑑定より緊張したよ」
「カール侯爵家は、とても広い森をお持ちでしたね」
「うん、素晴らしい森だった。おかげでモウルの木を大量に見つけられたのは運が良かったね」
モウルという木は、その樹皮が調合に欠かせない貴重な素材だ。
しかし、単独で生えることが多く、まとまった数を見つけることは難しいため、市場では高値で取引されている。
フィデリオはカール侯爵の敷地内でモウルの群生を発見し、すぐにヴェル国へ報告。
採取されたモウルは、最初の取引先としてバルウィン領に優先的に納品されることが決まった。
「あれはきっとラウラがよろこぶだろうな」
そう言ってフィデリオは少し微笑み、馬車の窓から外を見た。
胸元には、精霊の石が付いた首飾りが揺れている。
馬車は速度を上げ、バルウィン家への敷地へと入っていった。
門をくぐり、馬車は馬車庫へ向かう。
御者が馬車を停め、扉に手をかけた瞬間、彼の足元が大きくよろめいた。
漠然とした違和感を覚えたフィデリオは、慎重に周囲を確認しながら馬車を降りる。
そして、二人の従者が荷物を運び出しているのを見ながら首を傾げた。
「どうなさったんですか、フィデリオ様?」
「いや、セルジュがいないんだ」
「確かに! いつもは必ず迎えに出ているのに、めずらしいですね」
「ああ……」
フィデリオはまた周りを見回す。
「薬草の匂いがしないな、いま何時かな?」
「はい、もうすぐ10時になります」
「10時か……」
時間を聞いたフィデリオは、短剣を差している腰ベルトを確認した。
首からかけられた青紫色の石を、ぎゅっと握りしめる。
従者たちは屋敷の入り口に向かい、荷物を置いて玄関の扉を開ける。
室内から流れ出る不自然な甘い香りに、従者二人は足元をふらつかせた。
「うわっ、何だこの匂いは?」
「……」
「……」
フィデリオは手で口を覆い、従者二人は扉をあけたまま無言で立ち尽くしている。
玄関ホールの向こうからは、誰かが話している声が微かに聞こえる。
「大丈夫かい?」
「……」
「……」
フィデリオの呼びかけに答えず、二人の従者は荷物を置いたまま屋敷の中へ入っていった。
屋敷から流れ出てくる匂いに顔をしかめながら、無言の従者のあとをフィデリオはついて行く。
玄関ホールに入ると、開け放たれた客間の扉が目に入った。
その横には、家具が乱雑に置かれている。
不信に思ったフィデリオだが、客間へまっすぐに向かう二人の従者の後を、少し距離を置いて進んだ。
誰かが話している声は、そこから聞こえてくるようだ。
「そのソファもいらないわね、でも一旦そのままでいいわ」
「わかりましたー」
「花瓶はすべていらないわ」
「はい、おおせのままにー」
「そうだわ、昼食の前にホットチョコレートが欲しいの」
「はい! ただいまもうしつけてまいりますー」
「ありがと♡」
聞きなれない女の声と、聞いたことがある声。
違和感を覚えたフィデリオが、客間の前で立ち止まる。
従者たちは、吸い寄せられるように中へ入っていった。
そこへリーアムが慌ただしく飛び出してきた。
「あっ、フィデリオさまー」
「リーアム、何かあったのかい?」
「なにもありませんーにせものはおいだしましたー」
「偽者? どういう意味だい?」
「にせものせいじょーほっとちょこれーとー」
「あっ、待ってくれ」
リーアムはぺこりと頭を下げ、フィデリオが止めるのも聞かずに厨房へ行ってしまった。
『偽物聖女』という言葉と、リーアムの様子。
そして、この異常なほど屋敷に充満する香りに、フィデリオの表情は厳しいものに変わっていく。
明らかにおかしなものがこの屋敷に入り込んでいるのは確かだが、それにしては皆の様子に危機感がない。
そして、まだセルジュは姿を見せず、侍女の姿もない。
フィデリオは再び香りにむせながら、ラウラの姿が見えないことが気になっていた。
不快で胸焼けがする香りの正体がつかめないまま、フィデリオは客間に足を踏み入れた。
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