第二章 ラウラと偽物の聖女
聖女と偽物の聖女
―― 一週間後
ガラスから差し込む朝日はまだ淡い色をして、温室の中に静かな光を映している。
薬草畑から漂う爽やかな香りは、いつもより鮮やかに感じられた。
今日、フィデリオ様が戻ってくる!
いつもより早く目を覚ましたラウラは、部屋にいても落ち着かないため温室に向かった。
皆が来る前に、オリヴァー薬師長に頼まれていた
生い茂った薬草は、葉が大きく枝分かれも多い。
「これは成功なのでは!」
深緑に覆われた畑を見て、ラウラは思わずつぶやいた。
オリヴァーさんが言うには、この種は通常より成分が濃い品種だそう。
でも、その分きっと苦くなっているはずと言ってたっけ。
そんなに苦いのかな?
薬草を摘みながら、ラウラは葉を一枚口に入れた。
「ん゛ん゛っっ‼」
慌てて駆け出し、畑の横にある湧水を両手ですくって口をすすぐ。
くぅーーー苦いなんてもんじゃないっ! せっかく大量に採れてもこれじゃ駄目ね。
ん? でも、苦みは強烈だけど香りはいいかも。
調合次第ではいけるかしら?
ラウラが毒消し草を見つめながら考えていると、
あれは……リーアムさん? オリヴァーさんの声もする。
ううん違う、全員いる!
どうやら薬師たちも、ラウラと同じように早起きをしてしまったようだ。
皆、フィデリオの帰宅を待ちわびている。
ラウラは嬉しくなり、収穫の手を早めた。
バルウィン家の調合施設に、薬草の香りが立ち込める。
蒸留器の音色が響く中、薬師たちは慣れた手つきで作業の準備を始めている。
ラウラは籠いっぱいに収穫したヴェレ草を持って、温室から調合施設へと向かった。
「皆さんおはようございまーす」
「おはよう聖女ちゃん。、もう来てたんだ」
「聖女ちゃんおはよう」
「おはよう! よく育ってるねえ、さすが聖女ちゃん!」
温室から出てきたばかりのラウラに、薬師たちが次々に声をかける。
「おはようございます皆さん。もう! 『聖女』って言いすぎです! たまには名前で呼んでください」
籠いっぱいの薬草を抱えたラウラは、葉の間から顔を覗かせて少しだけ眉を下げた。
薄紫色の瞳が、温室に差し込む日差しにきらめいている。
「いいじゃん、もう慣れたでしょ。それに、うちには『学者』もいるし」
「オリヴァーさんは薬師長ですからね!」
「そんなこと言わないでくれよ聖女ちゃん。俺は気に入ってるんだよねえ、この呼び名」
「私は恥ずかしいんですっ!」
いつも優しい薬師たちに、ラウラも本気で言っているわけではない。
今日はやけに『聖女ちゃん』と呼ばれるので、少し冗談を言ってみただけだ。
「特にエルノさん! この前みたいに街中では呼ばないでくださいよー」
「わかってるって。じゃあ
「もうっ! はい、お願いします」
にこにこしながら腕を伸ばすエルノに、ラウラは薬草の入った籠を渡そうと背伸びをした。
その瞬間、鼻先を甘い香りが撫でるように通り過ぎた。
同時に、目の前にあったはずのエルノの腕が、だらりと垂れさがる。
「え?」
驚いたラウラは、周りを見回した。
目の前のエルノだけでなく、薬師たち全員の視線が温室の入り口に集中していることに気づく。
無意識のうちに、ラウラも皆と同じように入り口へと身体を向けた。
「皆さんこんにちは。わたくし、フィデリオ様に頼まれてここに参りました」
入り口には、見たことがない女性が立っていた。
彼女から発せられる声に、薬師たちが一斉に息を呑むのがわかる。
膝の裏までありそうなほどの長い髪が、銀の糸のように揺れている。
長い睫毛に囲まれた瞳は、朝焼けを思わせる淡いピンク色。
高揚した頬を持つ肌は、同じ人間とは思えない程真っ白に輝いていた。
温室にいる者全員の注目を浴びた女は、また口を開いた。
「フィデリオ様から……『屋敷に
美しい女はそう言うと、悲しそうな表情でをラウラを指さした。
「さあ皆さん、彼女をここから追い出して!」
「えっ! 私?」
「そうよ、偽聖女さん」
「待ってください、偽物呼ばわりされるも何も……わた……んんっ」
困惑した表情で声をあげたラウラは、急に喉を詰まらせた。
さっきまで離れた場所に居た女が、いつの間にかラウラの目の前に立っていたのだ。
驚くと同時に、息苦しさで声が出せなくなっていた。
むせ返るような匂い……この美しい女性から?
何かに似ているけど、今までに嗅いだことがないくらい濃厚で眩暈がする。
これ以上吸い込むと気分が悪くなりそう……そうだ、皆は大丈夫なの?
ラウラが辺りを見回すと、温室内に居る薬師たちのほとんどが、だらしない表情で女を見つめていた。
まるで夜の灯りに群がる虫のように、全員焦点の定まらない瞳で女の周りに集まりはじめる。
おかしい、こんなの普通じゃない……。
そう感じたラウラは、すぐにこの場から離れようとした。
しかし、異常な足の重さに、ゆっくりと後退ることしかできない。
そのうえ、胸焼けするような香りにまとわりつかれ、息を吸いたくない。
ラウラは、両手に抱えたままの薬草を見つめた。
さっき摘んだばかりのこのヴェレ草は、オリヴァー薬師長の自信作。
一枚齧っただけで、わずかに体調が良くなったのはラウラも体験済みだ。
普通の薬草より、かなり効能が高いのは間違いない。
しかし、これが信じられないくらい苦いということもわかっている。
「やるしかないか……」
ラウラはぽつりと呟き、大きく息を吸い込むと薬草の束に顔を突っ込んだ。
そして、食べられるだけ口に頬張り思い切り噛みしめた。
「う゛ぅぅーに゛がーーーーいぃーーーー!! 舌が痺れる゛ぅぅーー」
「あら、偽物の聖女は馬鹿なのね」
薬草の束から顏をあげたラウラを、淡いピンクの瞳で軽蔑するように睨んだ女は、唇の端だけをあげて笑っている。
女の周りには、目の輝きを失った薬師達が、すがるように取り囲んでいた。
全員がラウラの事なんて完全に忘れているかのようだった。
そんな薬師たちに向かって、女は両手を開き、まさに聖女の微笑みを見せた。
「皆さん安心して、わたくしが本物の聖女! ロクセラーナよ」
「このかたがーほんもののせいじょさまーなんてうつくしいー」
「せいじょさまーーにせものをおいだしてくださーいー」
「おまえはにせものーせいじょじゃないー」
いままで一緒に仕事をしてきた仲間たちが、ラウラを指さして声をあげている。
薬草の苦みに顔をしかめながら、ラウラはゆっくりと後ろへ下がった。
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