三年後


――三年後 


ラウラがバルウィン薬草園アポセカリーで働き始めて、三年の歳月が流れた。

15歳で訪れたこの場所で、ラウラは来週18歳の誕生日を迎えようとしている。

今では背丈もエルノに追いつき、温室の薬草管理も一人で任されるほどになっていた。

フィデリオと話すときも、昔のように顔を真っ赤にすることは少なくなった。

でも、恋する心は静かに育っていた。

フィデリオを想う気持ちも、ラウラ自身も、この三年で少し大人になっていたのだ。


しかし、今日のラウラは落ち着いていられなかった。

フィデリオが明日から一週間、この地を離れると聞かされたからだ。

一日程度の不在は何度かあったが、こんなに長い期間離れるのは初めてのことだった。


話を聞いたのは三日前。

昼食を終えたあと、フィデリオは屋敷の使用人たちを集めた。

昔から縁のある貴族からの依頼で、宝石の鑑定を頼まれたのだという。

普段なら、こういった依頼は相手が領地まで来ることが多いのだが、今回は貴重な魔法石の可能性があるため、フィデリオ自身が向かうことになった。


フィデリオは、薬草はもちろんのこと魔法石の鑑定を心得ている。

ここバルウィン領で魔石が採掘されることはほぼないが、めずらしい石が発掘された時はかならずフィデリオの元へ持ち込まれる。

時には国王からの依頼で、他国からの献上品を鑑定することもあった。

今回訪れる隣国にも腕の立つ鑑定士がいるはず。

それなのに、なぜかフィデリオが呼ばれた。

その理由は、貴族の一人娘にあるらしい。

ラウラがバルウィン領に来る少し前、その娘との縁談話が持ち上がったという。

フィデリオはきっぱりと断ったものの、どうやら先方はまだ諦めていないようだった。


しかも、道中には大きな森があり、そこは今でも魔物が出る。

フィデリオは剣の達人だと言われているが、ラウラは実際に戦う姿を見たことがない。

貴族の娘と魔物……。

どちらもラウラにとっては不安でしかなかった。


しかし、屋敷の者たちは全員、特に気にしている様子がない。

エルノとリーアムに至っては、フィデリオにお土産を頼もうとして執事のセルジュに窘められていた。

フィデリオが自室に戻った後、いつもと変わらない様子で昼食後の雑談が始まる。


「フィデリオ様が一週間もいないなんて久々だね」

「セルジュさんが忙しくなっちゃうねえ」


みんなの声は変わらず明るい。

それを聞きながら、ラウラは我慢できずに声を上げた。


「ねえ! 魔物が出るって大丈夫なの?」

「声が大きいよ聖女ちゃん。そんなのフィデリオ様なら平気だよ」

「でも! 魔物だよ? 魔物って特別な場所にいるんじゃないの?」

「僕見たことあるよ、遠目からだけど」

「俺もあるなあ」

「わたしもあるわよ」

「えっ!」


予想もしない答えに、ラウラは思わず声を上げた。

自分以外の薬師や侍女たちの中に、魔物を見たことがある者が少なくないという事実に驚く。


魔物って、そんな近くに存在するものなの?

子供の頃、ドラゴンバスターの物語が大好きだったけど、特別な場所にしかいないと思ってたのに……。


目を丸くするラウラに、オリヴァー薬師長が微笑んだ。


「聖女ちゃんは都会育ちかい? そりゃ街中には居ないけど、深い森や大きな湖がある地域にはいるんだよ」

「僕たちは家族で行った森の奥で、グリフォンっぽい影を見たことあるんだよ。なあリーアム」


リーアムは、弟エルノの言葉に大きく頷く。

そして、まだ驚きの表情を浮かべるラウラに、にやりと笑いかけた。


「グリフォンといえば、フィデリオ様が羽根をくれたことがあるんだ」

「そうそう、ホワイトファングを倒した時だよね。ここの皆は爪をもらったんだ」

「ホ、ホワイトファング!」


突然聞かされた白狼王と呼ばれる魔物の名前に、ラウラの声が裏返った。


「こら! エルノもリーアムもそんなにラウラを驚かせないで! 魔物と言ってもそんなにうじゃうじゃいるわけじゃないわよ。安心してラウラ」


グレイスがラウラの肩を優しく叩き、リーアムたちの前に立った。

リーアムは軽く笑いながらその場を離れ、エルノは『ごめんごめん』と謝っている。


「でもね、ホワイトファングの爪は本当だよ。ほらあれ」


エルノはグレイスの横から顔を覗かせ、オリヴァー薬師長がいつも首から下げている首飾りを指さした。

首飾りは、青白い爪に美しい羽根と小さな貴石があしらわれ、淡い光を放っている。


「ああこれ……素敵だと思ってました」


ラウラの言葉にオリヴァー薬師長は満足そうに頷いた。

その首飾りは、前からラウラが気になっていたものだ。

薬師長が大切そうに身につけているので、大事なお守りだろうと考えていた。

青白くて珍しい石だと思ってたものが狼の爪で、まさかフィデリオが倒したものだなんて想像できるはずがない。


「まあとにかく心配することないよ。我らが領主さまは大丈夫だよ、強いからね」

「はい……」


オリヴァー薬師長から子供をなだめるように言われ、ラウラはそれ以上質問をしなかった。


グレイスは『あとでね』とテーブルの片づけを始め、他の侍女や薬師たちも仕事に戻っていく。

皆が教えてくれた話は心強かったものの、ラウラの心は落ち着かないままその日は過ぎていった。


翌日、ラウラは早起きをして、特別な聖水と万能薬を大量に作った。

フィデリオに渡すためだが、これが特に役に立つとは思っていない。

自己満足なのはわかっている、でも何かしたいのだ。

薬師たちが来てからは、不安な気持ちを紛らわすように仕事に没頭した。

だが今度は、魔物より『貴族の娘』のことが気になってきていた。


「……ちゃん、聖女ちゃん!」

「あっ、はい」

「ガラ草はそれくらいでいいよ」


呼ばれて気付くと、目の前の精練鉢には、溢れるほどのガラ草の粉末が出来ていた。


「うあーーごめんなさい」

「いいよいいよ、明日も使うしね」


薬師に山盛りの鉢を渡し、ラウラは精練台の上を片付けはじめる。


「はぁ……何やってんだろ」


フィデリオへの想いが叶わないことは、ラウラ自身がよくわかっている。

年齢は10歳離れているし、相手は貴族。

どこの誰かもわからない自分が雇ってもらえただけでも、感謝しなければいけない。


内外からの評価が高いフィデリオは、その整った容姿と領地経営の手腕で、晩餐会や舞踏会の招待状が絶えることがない。

華やかな場所は好まないというが、親しい貴族や知人のパーティには必ず顔を出していた。

だが、いつも驚くほど早い時間に帰ってくる。


それでも、知らないところで誰か特別な人がいるのかもしれない——。


ラウラはそんなことを考え、また大きく溜息をついた。


仕事を終えて自室に戻り、作業着を着たままベッドの上に横になる。

窓の外に広がる薄闇色の空を見ながら、ラウラは15歳の頃を思い出していた。

ここに来てもうすぐ三年になる。

フィデリオの顔を見るだけでもドキドキしていたことが、今では懐かしい。

最近では、夕食後にフィデリオの書斎で薬草について話す時間が増えていた。

書斎の机に向かい合って座り、薬草の効能や調合について意見を交わす。


二人きりではあるけれど、フィデリオはいつも紳士で、ラウラも自然に接するように心がけた。

ラウラはその時間がとても大切で、壊したくなかった。

だからこそ、これ以上何も望んではいけない。

何もしてはいけない——そう自分に言い聞かせていた。


それなのに、今日は全身がざわざわして落ち着かない。

まだ何かできることがあるような気がして、じっとしていられない。

フィデリオが出発するのは明日の朝だ。


「んーーーーーーっ!!」


ベッドから起き上がり、鏡の前に立ったラウラは、イヤリングを外そうとして手を止めた。

青紫の石が、ぼんやりと光を放っている。

生まれた時からずっと一緒にいる、この精霊からの贈り物。

王宮を出た後、ネックレスからイヤリングへと形を変えてからずっとこのままだ。

もうすぐ来る18歳の誕生日には、何か変化があるのかな……。


「そうだわ!」


ラウラはふと思いついた。

バタバタとチェストに向かい、引き出しから革紐を取り出す。

はずしたばかりの片方のイヤリングを、革紐に通して首飾りを作った。


今まで一度も手放したことはないし、誰かに渡すなんて考えたこともなかった。

でも、今はちょうど二つに分かれている。

片方だけならきっと大丈夫……なはず!

ラウラは首飾りをぎゅっと握りしめ、部屋から飛び出した。

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