第2話

「ありすッ!待ってよ!」


 完也の声が空気を震わせ、愛希の背中に追いつこうとする。彼女は頬を伝う熱い涙を袖で拭った。再び溢れる涙が視界を曇らせる。その度に袖が濡れていく。胸の奥で渦巻く感情に名前をつけられない。ただ分かるのは、完也が智子を守るように見えた瞬間、自分の中で何かが鉛のように沈み込んだということだけだ。


「ほっといてよ!」


 振り返らずに叫んだ声が、自分の内側から震えている。いつもの完也なら、この一言で引き下がるはずだった。自分が少しでも強い調子で言葉を返せば、すぐに俯いて黙り込む。そんな彼だったのに。今日は違う。後ろから聞こえる足音は、彼女の心臓の鼓動と同じリズムで近づいてくる。


「だ、だめだよ」


 何かに突き動かされたような声。それは完也が自分でも気づいていなかった内なる強さの表出だった。次の瞬間、彼の手が愛希の腕を掴んだ。その感触に、愛希の動きが止まる。熱い。完也の掌が炎のように熱く、彼女の皮膚を通して血管へと侵入してくるかのようだ。それとも、自分の肌の方が熱いのだろうか。振り返った先に見えたのは、これまで見たことのない表情だった。いつもの曖昧さという仮面が剥がれ落ち、そこには確かな決意が浮かび上がっている。その変化に、愛希は一瞬言葉を失った。


「ダメって…なによッ!」


 愛希は自分の感情を隠すかのように強く言い返した。その強さは、脆さを覆い隠すためのものだった。


「一人で帰っちゃダメだよ。ともこ婦警さんが言ってたよ…追いかけろって…」


 その言葉が、針のように愛希の胸を刺し貫いた。


「何よ! 。ともこ婦警さんに言われたから来たってこと!」


 彼女は腕を振りほどこうとする。


「もう、知らないッ!」


 しかし完也の手は、今までに感じたことのない力強さで彼女の腕を握っていた。その力は完也自身にとっても驚きだったのかもしれない。彼の指の間から逃れられないという感覚に、不思議と愛希の中の怒りが少しずつ溶けていく。完也の瞳に映る自分の姿を見て、彼女は胸の中に小さな温かさを見出した。その温かさは、彼女自身も気づかぬうちに求めていたものだった。


「と、ともこ婦警さんは…」


 完也は言葉に詰まり、頬が朱に染まる。目が泳ぎ、視線の落とし所を探している。


「昔から優しいだけだよ。兄みたいな人なんだ…」


「兄…?」


 愛希は完也を見つめた。彼の言葉の裏に何か隠されているような、そんな予感がした。


「あ、違う。姉みたいな。いつも面倒見てくれただけ。それだけだよ」


 完也はあわてて言い直した。その慌てぶりに、愛希は思わず微笑みそうになった。しかし、すぐに表情を引き締める。彼の言葉を信じたい気持ちはあるのに、先刻の光景が頭から離れない。智子の顔に触れる完也の手。その親密さは、彼女の心に影を落としていた。


 愛希は完也の目をじっと見つめた。その澄んだ瞳には嘘が見当たらない。けれど、胸のモヤモヤは消えることなく、むしろ大きくなっていく。その正体が何であるのか、自分でも理解できないまま、彼女は時折完也の顔を見ては目を逸らす。その度に、心臓が締め付けられるような痛みが走る。


「ありすがともこ婦警さんにあんなこと聞いたから、僕は…その…」


 完也の言葉は途切れがちで、それが愛希の感情を再び刺激した。


「だからってそんなにムキになんなくたっていいじゃんッ!」


 愛希は感情を抑えきれず、大きな声を出した。涙が再び目に溢れ、頬を伝い落ちる。


「かんちゃんなんか大嫌いなんだから。ばかっ!」


 感情のままに投げつけた言葉が、二人の間の空気を凍らせた。完也の表情が曇り、肩が小さく震える。愛希は自分が言い過ぎたことに気づいた。けれど、素直に謝る言葉が見つからない。のどの奥に何かが引っかかったまま、声にならない。


「そっか…」


 完也はポツリと呟いた。その声が夕暮れの空気に溶け込み、消えていく。幼い顔に浮かぶのは、どこか大人びた諦めの色だった。


「嫌いなら、もう近づかないようにする…」


 彼の手が愛希の腕から離れた。温かだった場所が急に冷たくなる。その瞬間、彼女は何か大切なものが遠ざかっていくような恐怖を覚えた。それは継父に襲われた夜、誰も助けに来てくれなかった時の孤独感に似ていた。予感めいた喪失感が、彼女の内側から湧き上がる。


「違うよッ! そうじゃなくて…」


 言葉が詰まる。どう説明すればいいのか分からない。この胸の中にある温かく、でも痛いような感情に名前をつけられない。理解できない感情の正体に、愛希は戸惑っていた。


「あのね…」


 愛希は俯いて言った。まるで自分の心の奥を覗き込むように、靴先に視線を落とす。


「嫌いじゃ…ないの」


「え?」


 完也の声が上ずる。その反応に、愛希は少しだけ勇気をもらった気がした。


「だから…嫌いじゃないのッ!」


 愛希の声が少し大きくなり、頬に熱が集まるのを感じる。それは単なる恥ずかしさではなく、もっと深いところから湧き上がってくる原初的な何かだった。完也もまた、耳まで真っ赤に染まっている。二人の赤みは、沈みゆく太陽の色と同じだった。


「ともこ婦警さんと話してるかんちゃんが…なんか…ずるいなって思った」


「ずるい…?」


 完也は理解できないという表情で首を傾げた。その仕草には、幼さと純粋さが混在していた。


「うん…」


 愛希は自分の靴先を見つめながら続けた。言葉を選ぶように、ゆっくりと。


「かんちゃんは私といる時、いつもそんな顔しないもん。かんちゃん、ともこ婦警さんとは違って笑うんだよ」


 その言葉に、完也の息が止まったように見えた。


「そ、そんな顔って…?」


「楽しそうな顔…にこにこした顔…」


 愛希の頬が林檎のように赤く染まる。彼女自身も今の自分の言葉に恥ずかしさを覚えていた。これまで自分がどれほど完也の表情を見つめ、記憶していたのか、その事実に気づくのは今この瞬間だった。


 静寂が二人の間に満ちる。夕暮れの街の音だけが、その沈黙を埋めていく。遠くの車の音、下校する子供たちの声、コンビニから漏れるチャイムの音。二人の間に流れる空気は、目に見えない境界線のように微妙なバランスで揺れていた。


 完也が小さく笑った。それは照れくさそうでありながら、どこか安堵した表情でもあった。その微笑みに、愛希は胸が温かくなるのを感じた。何かが溶け始めるような感覚。


「そんなことないよ」


「あるよッ」


「な、ないよ!」


 完也は珍しく強い口調で反論した。その声には、自分を守るための必死さがあった。


「僕、ありすといる時、すごく緊張してるけど…でも、楽しいよ」


 愛希は顔を上げた。完也の表情は真剣そのものだった。その瞳に映る自分の姿を見つめているうちに、愛希は何かが変わり始めていることを感じた。凍りついていた何かが、少しずつ融けていくような、そんな感覚。心の奥底から温かさが湧き上がり、全身を巡っていく。


「本当?」


「う、うん」


「じゃあ…なんでいつも私の後ろを歩くの?」


 愛希の問いは単純だったが、その奥には複雑な感情が隠れていた。完也が自分を避けているように感じる不安と、寂しさ。


 完也は少し困ったように頭をかいた。戸惑いと照れが混じった仕草。二人だけの時間が流れる中、彼は言葉を探していた。


「それは…」


「なんで?」


 愛希はもう一度聞いた。その声にはわずかな震えが混じっていた。


「ありすが…可愛すぎるから…」


 完也の言葉は、ほとんど囁くような、風に消されそうな小ささだった。だが、愛希の耳には雷鳴のように響いた。心臓が跳ね上がり、鼓動が耳で鳴り響く。


 その言葉に、愛希は息を呑んだ。自分の心臓が、今までにないリズムで躍動するのを感じる。まるで胸の内側で小さな生き物が目覚め、羽ばたき始めたかのように。


「可愛い過ぎて、まともに顔を見ることできないし…、隣を歩くなんて、なんか申し訳なくて…」


 完也の素直な告白に、愛希は何も言い返せなかった。ただ、胸の中で温かいものが広がり、全身を包み込んでいくのを感じていた。それは今まで知らなかった、しかし確かな感情だった。


「でも」


 完也は続けた。彼の声には、新たな決意のようなものが混じっていた。


「ともこ婦警さんが言ってた。僕がまだ小一の時に。大切な人は、遠くから見守るんじゃなくて、そばで支えるものだって…今はわからなくても、大きくなったらわかるから、ずっと覚えていてねって」


「大切な…人…」


 愛希はその言葉を繰り返した。三つの単語が、彼女の心に静かに沈んでいく。まるで深海に降りていく光のように、消えるのではなく、内側で輝き続けるように。


 二人の間に再び沈黙が流れた。夕焼けに染まる空の下、二人の影が長く伸びていく。その影は時に重なり、また離れる。まるで二人の心模様を映し出すかのように。街灯が一つ、また一つと灯り始め、辺りが青紫色の闇に包まれていく。その光と闇のコントラストが、二人の間にある言葉にならない感情を浮かび上がらせていた。


「行こう…」


 完也が静かに言った。その声には、何かを決意したような芯の強さがあった。


「おばあちゃんの家まで送るよ…」


 愛希は小さく頷いた。並んで歩き始めた二人の間には、まだぎこちなさが残っていたが、それは壁ではなく、お互いを意識するための必要な距離のように感じられた。何かが変わり始めている。愛希はそれを確かに感じていた。


 しばらく黙って歩いた後、愛希は決意したように口を開いた。「かんちゃん」


「な、なに?」


「明日も…一緒に帰ろう? …友達として、だよ」


「友達」という言葉を口にしながら、愛希は胸に小さな痛みを感じた。それはまるで、本当の気持ちと違う言葉を選んだときに感じる、奇妙な不協和音のようだった。自分の本心と違う言葉を選ぶことで、守ろうとしている何か。まだ名付けられない、けれど確かに芽生えている感情。


 完也は微かに微笑んだ。その笑顔には、何か新しい光が宿っているように見えた。 


「うん…わかった。友達としてね」


 その「友達」という言葉が、なぜか愛希の胸に小さな痛みをもたらした。でも、それがどういう意味なのかは、まだわからない。ただ、何かが変わり始めていること、そして、それが自分にとって大切なものになりそうだということだけは、確かに感じていた。


二人の歩く道に、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。その光が二人の行く手を照らす。光の粒が増えると同時に、闇もまた深くなっていく。光と闇の境界が、二人が知らない世界の入り口でもあるかのように見えた。


 だが、その光は同時に二人の背後に鮮明な影を浮かび上がらせる。そしてその影は、彼らが気づかないところで別の存在によって見つめられていた。


 軽自動車のエンジン音が静かに響き、ピンクのミニワンピース姿の女がハンドルを握りしめていた。その赤い爪がハンドルに小さな傷を刻む。車内には甘い香水の匂いが充満していたが、それは腐りかけた蜜のような不自然さを含んでいた。バックミラーには、離れていく二人の後ろ姿が小さく映っている。彼女の唇が不気味に歪み、顔に浮かぶのは完全な支配者の表情だった。


 モモはスマホを取り出し、慎重に撮影した写真を確認した。画面には制服姿の若い婦人警官の姿が映っている。艶やかなポニーテールに、引き締まった体を強調する制服。女性としての魅力が際立つ姿だった。モモはその写真を長く見つめ、そして短いメッセージを打ち込んだ。


『妹ちゃんと婦警、話してた』


 送信ボタンを押した瞬間、すぐに返信が来た。それは彼女の計画が動き始めたことを告げる合図だった。


『どこ?』


 モモは薄く笑い、エンジンを吹かせた。その微笑みには、日向の世界に対する憎悪と、それを壊すことへの快楽が混じっていた。彼女自身も一度は光の中の住人だった。だが今は、完全に闇に帰依し、光を持つ者を引きずり込むことに快楽を見出していた。


 罪のない二人を見つめる彼女の眼差しは、蝶を捕らえようと待ち構える蜘蛛のそれだった。


 ワンルームマンションのカーテンの隙間は閉じられ、フローリング全体を影が支配していた。窓から漏れる僅かな光が、部屋の中に一筋の境界線を描き出す。黄色い街灯の光は室内で歪み、不気味な影を壁に映し出していた。しかし、その境界線の向こう側は既に闇に飲み込まれていた。


 瀬良は愛希たちがいた場所に座り、大きな体躯を持て余すようにボンヤリと煙草を吸っていた。彼の目には、既に帰れない場所へと足を踏み入れた者特有の虚ろさが宿っていた。炎で赤く照らされる彼の顔には、怒りと悲しみが入り混じった複雑な表情があった。どこか還るべき場所を失った野良犬のような、哀しみと荒々しさ。


 龍太は椅子に座り、スマホを見つめたまま動かない。指先は愛希からの最新メッセージの上で静止していた。


「おばあちゃんと一緒。心配しないで」


 シンプルなメッセージ。その裏に隠された妹の本当の気持ちを、龍太は感じ取っていた。自分が今いる境界線の向こう側から、妹を見つめる複雑な思い。同じ世界にいるのに、もう触れ合えない距離感。


 ソファに寝そべっていた真司が、長い茶髪を指で弄びながら言った。


「龍太。妹、まだ帰ってこねぇの?」


 その声には下卑た色気が混じっていた。少年特有の、未熟な性的欲望の匂いが漂う。


「龍太の妹、アイドル並みに可愛いよな。俺の一押しなんだよ。戻ってくるようにメールしてくんない?」


 その言葉には、愛希を物のように扱う下心が透けて見えた。持ち主のいない物を、自分のものにしたいという所有欲。


「知るかッ」


 龍太は、言葉を吐き捨てるように答えた。その声には表向きの怒りの下に、隠された不安が混じっていた。愛希のことを考えると、龍太の中の何かが揺れ動く。まだ自分の中に残る光の世界の感覚が、彼を苦しめていた。自分がしていることの意味を、彼はまだ完全には理解していなかった。


 部屋の隅では、幹夫が黙々とポテトチップを食べながら缶ビールを飲んでいる。小柄ながら筋肉質の体に、刈り上げた頭。その腕には「誠」の文字が彫られている。幹夫だけは黙って彼らを見ていた。その目には、すでに何かを見切ったような冷静さがあった。四人の中で最も境界線を越えてしまった男。その瞳には既に闇の世界の住人としての冷たさが宿っていた。


 ドアが開く音がした。振り返った瀬良の目に、ピンクのミニワンピースの女が映る。その存在が、部屋の空気をさらに濁らせる。甘い香水の匂いが、閉じられた空間に充満する。それは蜜蜂を誘う花の香りでありながら、何かを覆い隠すための毒々しさも持っていた。


「邪魔するわね、リュウ」


 彼女は龍太をそう呼び、部屋に入ってきた。少年たちの視線が、モモのセクシーなボディーラインに向けられる。その視線には純粋な憧れではなく、歪んだ欲望が混じっていた。モモはその欲望を利用することで、自分の存在価値を確認しているようだった。彼女の支配力は、男たちの欲望という鎖でつながれていた。


「どうした、モモ」


 龍太の声は低く、抑えたものだった。彼だけが、モモに対して一線を引いているように見える。その態度には、まだ踏み越えていない何かがあった。彼の中の光の欠片が、まだ消えていないかのように。


「心配になってね」


 モモは甘ったるい声で言った。その声音には、蜜に隠された毒のような危うさがあった。彼女の目は、獲物を狙う動物のように鋭かった。


「妹ちゃんのこと」


 モモはこの部屋の借主。龍太に自由に使わせている。腰をくねらせながら部屋を歩き回り、やがて龍太の前に膝をついた。太ももが大きく露出してチラッと下着が覗けるが、モモに気にする様子はない。それは彼女にとって武器であり、罠でもあった。彼女の指先が龍太の顎に触れる。その接触に、龍太の体が僅かに緊張するのをモモは感じ取った。


 モモは十代の頃から、夜の世界に、闇の世界に生きていた。彼女の目には、同じ女であっても日向にいる者への憎悪が常に燻っていた。それは自分がもう戻れないと知っている者の、まだ光の中にいる者への複雑な感情だった。嫉妬と憎悪と、どこか切なさの混じった感情。


「リュウの可愛い妹ちゃん、コンビニの前にある交番に新しく来た婦警と仲良くしてたわよ」


 その言葉に、龍太の目が僅かに動いた。部屋の空気が張り詰める。それは彼の中の闇と光の境界線が揺らいだ瞬間だった。


「何だって?」


 瀬良が身を乗り出した。その目には危険な光が宿っていた。それは獲物を見つけた獣の目だった。その眼差しには、何か本能的なものが宿っていた。


「ええ」


 モモはゆっくりと立ち上がり、部屋の中を見回した。その動きは、蛇のようにしなやかでありながら、危険な毒を隠し持っていた。


「あのチビの男の子と一緒にね。あのチビ婦警、親しげに話してたから、なんか関係があるのかもね。……そういえば、休職した婦警の代わりに来たみたいなこと言ってたけど」


 その言葉が、龍太の表情を固まらせた。彼は妹のことを考えていた。愛希はまだ、日向の世界にいた。自分が越えてしまった境界線を、彼女は越えていない。そして彼女をそこにとどめておきたいという思いと、自分の世界に引きずり込みたいという相反する感情が、彼の中で戦っていた。彼は一人の兄として、妹を守りたかった。だが同時に、妹のようになれない自分への嫉妬も感じていた。


「違う婦警か…」


 瀬良は少し肩の力を抜いたが、次の瞬間、目を輝かせた。その目は、新たな獲物を見つけた獣のように鋭く光っていた。そこには単なる欲望だけでなく、何か復讐めいたものが混じっていた。


「どんな感じだった?」


「この子よ」


 モモはスマホを取り出し、写真を見せた。親指で画面をなぞる仕草に、何かを操る快感が見て取れる。彼女の指先は、若い婦警官の姿の上をゆっくりと撫でるように動いた。


「ポニーテールで、可愛い感じなんだけど、女の私から見てもエロチックな感じかな」


 スマホの画面に映る若い婦警の姿に、男たちの視線が釘付けになった。淡いベージュ色のV字襟の半袖制服を着た婦警の姿。黒いタイトスカートは他の婦警たちよりも更に短く見える。その制服の下の体に、彼らの歪んだ欲望が向けられていく。


「うおっ!マジかよっ!」


 真司が跳ね上がるように叫んだ。その声には、思春期特有の性的興奮が剥き出しになっていた。彼の興奮は、ただの少年らしさを超えて、どこか危険な色を帯びていた。


「クソ可愛いじゃねぇか!なあ、瀬良、見ろよ!あのV字の襟元からちらっと見える肌! 制服の盛り上がり。エロチックの権化のような脚。そして可愛いちゃんときてる。もう、たまんねえ。画像観てるだけでチンポが起って来る!」


 その言葉には、まだ大人になりきれていない少年の欲望と、すでに歪んでしまった性意識が混じっていた。真司もまた、何かの境界線を越えつつあった。


 瀬良は目を見開き、唾を飲み込んだ。その喉仏が大きく上下する様子に、抑えきれない欲望が見て取れた。彼の目には、何か暗い渇きのようなものが浮かんでいた。


「くそっ、何でこんなイイ女がよりによって婦警なんだよ...」


 幹夫も珍しく身を乗り出し、画面を奪い取るようにして見た。普段は無表情な顔に、異様な興奮の色が浮かぶ。その表情には、日常では決して見せない獣性が垣間見えた。無感情の仮面の下に潜む、原始的な欲望の炎。


「この制服…脱がせてぇ...」


 その言葉は、彼らが越えてしまった境界線の向こう側にある欲望の正体を露わにしていた。それは単なる性的欲望ではなく、何かをこじ開け、壊したいという暴力的な衝動だった。支配と破壊への渇望。それは彼らを内側から蝕む闇の本質だった。


「瀬良、これお袋の世代の話だけど知ってるか?」


 真司が興奮気味に言った。彼の声は高ぶりで震えていた。瞳孔は開ききり、頬は紅潮し、全身から獣のような熱が放たれていた。


「昔、暴走族とかのツッパリが『婦警狩り』ってのをやってたらしいぜ。婦警を犯ると位が上がるとか言って、力のある奴はレイプしてたらしんだ」


「ああ、聞いたことある」


 瀬良は煙草を捻り消し、新たに一本取り出した。吸い殻を床に落とす仕草には、ルールを無視する快感が見て取れる。その動きには、秩序を踏みにじる者の倨傲さがあった。


「あの頃はまだ婦警なんて珍しかったから、目立ったんだろうな。今はどこにでもいるけど」


「でも今でも変わんねぇよな」


 真司は身を乗り出した。その目は欲望で曇り、知性の光を失っていた。彼の言葉には、健全な性意識を知らない少年の歪みが含まれていた。それは、誰かに教えられたものではなく、彼自身の内側から湧き上がる暗い欲求だった。


「あのV字襟の制服にミニスカート。スカイブルーから薄いベージュに変わっただけで、エロッチいのは何ら変わんね。…あの制服姿見てると、なんかムラムラしてくるよな」


 瀬良は大きく頷いた。その表情には、自分が抑圧されてきたことへの復讐心が混じっていた。彼の目には、社会への憎しみが深く刻まれていた。それは彼を形作った過去の傷跡であり、彼の行動を駆り立てる原動力でもあった。


「ああ、弱い癖して俺たちに説教垂れてくる婦警。奴ら見ると、制服を脱がして、所詮、唯の女だってことを教えてやりたくなるぜ。『警察です』『法律で禁止されています』って、偉そうにしてるからよぉ」


 真司が加わった。彼の言葉には、家庭の闇が染み込んでいた。それは彼が抱える、家族への複雑な感情の表れだった。表面上は憎悪でありながら、その根底には救いを求める叫びがあった。


「親父が酒に酔って暴れた時、母ちゃんが警察呼んだことあんだよ。そん時、婦警も来ててよ。お袋に『大丈夫ですか』とか言うだけで、結局何もしてくれなかったんだ。男のお巡りが親父を必死に抑えようとしてんのに、婦警はただ見てるだけで、警察署に『応援お願いします』だもんな。婦警なんて、見世物でしかねぇよ。てか、ありゃあ、警察のマスコットだな」


 その言葉には、救われなかった過去への怒りが込められていた。真司もまた、自分なりの方法で闇と戦っていたのかもしれない。だが、その戦い方は、新たな闇を生み出すことでしかなかった。傷ついた者が、また別の誰かを傷つける。終わりなき連鎖の一部として。


 モモが美しい顔に歪んだ笑みを浮かべた。その笑みは、内面の醜さを一瞬だけ露わにするものだった。完璧な仮面の隙間から覗く、本当の顔。彼女の目には、何かを壊すことへの期待が宿っていた。


「そうよね。私とおんなじ女のくせに、あんな偉そうな顔して。あの制服に守られてると思ってるのよ」


 モモの言葉には、自分と同じ女性でありながら、まだ光の世界に生きることができる婦警への恨みが滲んでいた。彼女の中で燻る闇は、同性への嫉妬という形で表れていた。嫉妬は彼女の魂を蝕む酸のように、内側から彼女を溶かしていた。


「こいつ、セラが襲った婦警よりずっといいじゃん」


 モモは写真をスワイプして、別アングルを見せた。彼女の指先が画面をなぞる様子には、何か危険な計画が進行していることを感じさせるものがあった。その指の動きは、未来の犠牲者を愛撫するかのようだった。冒涜的な親愛の表現として。


 瀬良の顔に獣のような笑みが浮かんだ。その表情には、境界線を越えた者の歪んだ欲望が露わになっていた。彼の目には人間らしさが薄れ、代わりに何か動物的なものが宿っていた。瞳の奥に潜む何かが、表面に浮かび上がってきたようだった。


「ああ、前のとは全然違う。こいつはベターではなくベストだ」


「おい、やめとけよ」


 龍太が低い声で言った。だが、その声には以前のような強さがなかった。彼の声には、まだ光の世界の残滓が感じられた。あるいは、愛希を守りたいという兄としての本能が、彼をブレーキとして機能させていたのかもしれない。彼の体は闇に突き進もうとしているのに、心のどこかが必死にそれを止めようとしていた。二つの自分の間で引き裂かれる男。


「前もあれだけ言ったのに、またやる気かよ」


「前は失敗しただけだろ」


 瀬良は嘲るように言った。その言葉には、自分の行動を正当化しようとする欲望が透けて見えた。彼の中には後悔や恐れよりも、満たされなかった欲望が渦巻いていた。それは夜空の底のように果てしない、深く暗い渇き。


「今度は完璧にやる。あいつらに証拠は残さない」


「あの時は、お前が甘かったんだよ」


 真司が続けた。彼の目には、過去の失敗を乗り越えようとする執念が燃えていた。その執念は、少年らしい未熟さと、大人の悪意が混ざり合った危険なものだった。


「男のお巡りがいるのにあんなことするなんて。…セラがアホなだけだ。少しは考えろよ。人気のない場所に誘い込みゃいいんだよ」


 真司の声には、驚くほど冷静な計算があった。それは彼の中に潜む闇の深さを物語っていた。その目には知性の光があり、それがむしろ彼の危険さを際立たせていた。


 モモが突然言った。その声は、蜜の中に隠された刃のようだった。


「うちの店のオーナーに、あのショート動画見せたら、フルで欲しいって言うんだけど、どう?」


「何だって?」


 瀬良が振り向いた。その目には、金への欲望が浮かび上がっていた。彼の内面における優先順位が露わになる瞬間だった。彼の中での欲望の序列が明確になる瞬間。暴力と性、そして金。永遠に満たされない三つの渇き。


「大金出すから、頼んでくれって言われたんだよ。なんでも昔、婦警を襲って撮ったビデオをヤクザに売ったら、大金を手にしたことがあるらしいんだよ。何でも裏ビデオにして販売したら、バカ売れしたらしいんだけどさ、ほら、これ」


 そう言って、モモは茶封筒を放り投げた。その仕草には、人の心を操ることへの慣れが感じられた。彼女にとって、封筒の中身は単なる罠。少年たちを自分の計画に引きずり込むための餌に過ぎなかった。彼女は人の欲望という弱点を巧みに利用する術を心得ていた。


「中に十万入ってる。もし、オーケーなら二百万出すってさ」


 その金額に、部屋の空気が変わった。少年たちの目が輝き始める。彼らにとって、その金額は想像を超えた大金だった。その金が持つ魅力は、彼らの中に残るわずかな良心を容易く溶かしていった。どんな罪でも許されるような錯覚。道徳と金が天秤にかけられ、そして天秤は容易く金の方へと傾いた。


 龍太の目が疑わしげに封筒を見た。その目には、欲望と良心の間で揺れ動く複雑な感情が映っていた。彼はまだ完全には闇に堕ちていなかった。光と闇の境界線上にいる男だった。その表情には、無意識の葛藤が浮かんでいた。


「オーナー、言ってたけどさぁ」


 モモは続けた。彼女の声は、悪魔の誘惑のように甘く響く。それはまるで、少年たちの魂を買い取るための契約書を読み上げるような声だった。子どもだましの甘さの奥に、計算された冷たさが潜んでいた。


「高級な撮影機材も貸すから、今度は、もっと画質のいいの撮れって。それなりの顔の婦警でもいいけど、顔もスタイルもバツグンなら五百万だすってさ」


「マジかよ…」


 瀬良の目が獣のように輝いた。その瞳には、金と欲望が混じり合っていた。あらゆる理性が、その光に押し流されていくようだった。彼の中の人間性が、どんどん薄れていく。


「龍太、やらねえか? 妹が話してた婦警で。あの婦警なら、五百万は確実だぜぇ」


「………」


 龍太は返事をしなかった。彼の沈黙は、内なる葛藤の表れだった。愛希が話していた婦警を襲うことは、間接的に愛希も傷つけることになる。しかし、彼の中の闇の部分は、その行為に魅了されていた。龍太の両手が震えていた。それは欲望と恐怖の境界線で揺れる心を表していた。


「五百万だぞ! 五百万」


 瀬良が興奮気味に叫んだ。金の誘惑が、彼の理性を完全に曇らせている。その声は、魔物の誘いのように龍太の耳に響いた。


「俺たちで山分けしても、一人百二十二万だぞ!」


「金の話になると、頭がよくなるんだな」


 龍太は呆れたような顔をして瀬良を見た。その言葉には皮肉が含まれていたが、同時に彼自身も金の誘惑と闘っていることが伺えた。彼の心は、愛希への愛情と、自分自身の欲望の間で引き裂かれていた。二つの相反する感情が、彼の中で戦い続けている。そしてどちらが勝つのか、彼自身にもわからなかった。


「リュウ。封筒の中、開けてみなよ」


 モモは、そう言って、煙草を一息吸った。その煙が、部屋の中に新たな境界線を描き出す。暗い部屋の中で、その煙は青白く輝いて見えた。龍太の決断を促すかのように、モモの目が細められた。彼女の目からは、一瞬だけ不安の色が浮かんだ。それは彼女自身も気づかぬうちに、龍太への感情が生まれていることを示していた。


 龍太は封筒を掴み、強引に先端を引き千切り中の札束を引っ張りだす。その手の震えは、彼の内面の揺れを表していた。札を見た瞬間、龍太の瞳孔が開いた。それは欲望に屈する瞬間の表情だった。これほどの金を目の当たりにして、彼の理性は砕け散りかけていた。


 瀬良と真司の目の色が変わる。欲望と金への執着が、彼らの目に野性的な光を灯す。彼らの目は、すでに人間のものではなく、獣のそれに近づいていた。皮膚の下で人間性が溶けていくような、そんな恐ろしい変容。


「龍太。数えてみろよ」


 一枚一枚、札をフローリングに置いて数える龍太。その指先が札に触れるたびに、彼の中の境界線がさらに曖昧になっていくようだった。その動きは、儀式的な何かを感じさせた。お金を数えることで、彼は自分の良心を一枚一枚売り渡していくかのように。その札は、彼の魂の代価だった。


「十万ある」


 その声は、何かを諦めたような虚ろさを含んでいた。境界線を越えた瞬間の声。自分が変わり始めたことを自覚する瞬間の、空虚な響き。


「よし、山分けだ」


 瀬良は自分だけ四万取り、残りは二万ずつそれぞれの前に置いた。その分配の仕方には、彼のヒエラルキーにおける自分の位置づけが反映されていた。それは闇の世界の掟だった。強いものが多くを得る。そこに正義や平等はなく、ただ力による支配があるだけ。


「なんでだよう、なんで瀬良だけ四万なんだ。俺たちの倍じゃねえか」


 憤る真司。その目には、金への執着と嫉妬が混じっていた。彼の顔に、少年らしい感情が一瞬だけ浮かんだ。それは彼の中にまだ残る、子どもの部分だった。


「何だよっ。文句あんのかよっ」


 瀬良は真司を睨みつける。その目は、闇の世界の掟を知らない者への軽蔑に満ちていた。彼の目は、本気で暴力を振るう意思を表していた。その眼差しの鋭さに、真司は身を竦めた。


「あの婦警をヤッたのは俺だぞう。おまけにこっちは少年院送りにされてんだ。倍もらって当然だろ」


「それはそうだ」


 今まで黙っていた幹夫がポツリと言う。彼の沈黙が破られた瞬間、部屋の空気が一瞬凍りついたように感じられた。幹夫の言葉には、重みがあった。みなが彼の意見を尊重するのは、彼がすでに取り返しのつかない境界線を越えているからだった。闇の中で一番深い場所にいる者。その一言には、絶対的な説得力があった。


 それを聞いたモモが顔をにこりとさせる。その笑顔の裏には、確かな計算があった。彼女は少年たちの力関係を見極め、それを利用する術を心得ていた。集団の力学を読み、その流れを自分の思い通りに操る技術。それが彼女の武器だった。


「ミキの言う通りだよ。ここはセラの顔を立ててやんな」


「モモさんが、そう言うなら…」


 渋々納得した真司。彼はモモの力を認めているようだった。モモという存在が、彼らにとって特別であることがうかがえた。彼女は単なる仲間ではなく、どこか崇拝の対象でもあった。


 モモは二万を掴むと、幹夫の着ているワイシャツの胸ポケットに札を押し込む。その仕草には、微妙な誘惑が含まれていた。モモの指先が幹夫の胸に触れた瞬間、幹夫の目が僅かに揺れた。それは彼の中に残るわずかな人間性の証だった。完全に闇に帰依したように見える彼の中にも、まだ触れられることで動揺する何かが残っていた。


「取っときなよ。ミキ」


 幹夫は胸ポケットの札を財布に入れなおし、スマホで漫画を読み始めた。その無表情さの裏には、野獣のような危険が潜んでいるようだった。彼の静けさは、嵐の前の静けさに似ていた。外側の平穏と、内側の激しさ。その二面性こそが、幹夫という存在の恐ろしさだった。


 モモは残りの二万を掴むと、龍太の肩に腕を回し引き寄せる。二人の体が接近した瞬間、龍太の体が微かに固まったように見えた。彼の内面ではまだ、何かが抵抗していた。光の世界への未練か、それとも単なる恐れか。


「良いだろう? 新しい婦警さん、襲ってくれるよねえ…」


 モモはおねだりするように言う。その声には、龍太を操ることへの自信が感じられた。彼女は男たちの弱点を熟知していた。お金と性。その二つで彼らを思いのままに動かせることを。それは万人に効く毒だった。


「お願いだよう…ここは私の顔を立てて…ねっ」


「マージンいくらもらってんの?」


龍太の声には、モモへの不信感が含まれていた。彼はまだ完全には闇に飲み込まれていない。そこに、わずかな救いの可能性があった。彼の瞳の奥に、かつての龍太の姿が見え隠れしている。光の中にいた頃の彼が、まだ完全には消えていなかった。


「ふふふ。内緒…」


 モモの笑い声は、闇の中で誘う妖艶な夜の花のようだった。その声には、すでに勝利を確信した響きがあった。彼女の声が龍太の耳を満たし、彼の理性を溶かしていく。甘い毒が、徐々に彼の血管に浸透していく。


「わかったよ、モモさんに言われたんじゃぁ、断るわけにもいかないから…」


 龍太の言葉には、諦めと決意が混じっていた。彼は境界線を越えることを選んだのかもしれない。その選択が、彼自身とすべての関係者の運命を変えることになるとは、まだ知る由もなかった。運命の糸が絡み合う音が、静かに鳴り始めていた。


「それとさぁ…。今夜…私、休みだからいいだろう…ねっ? 。私の部屋で…」


 モモは万札二枚を龍太の股間に押しつけ、指で何度も揉み始める。その行為には、魂の取引のような不気味さがあった。金と肉体の交換。それは彼らが生きる闇の世界の掟だった。価値あるものすべてが、どこかで等価交換される冷酷な世界。そこに感情の入る余地はなかった。


 龍太の目が、一瞬だけ愛希のメッセージを表示するスマホの画面に向けられた。その目には、自分の選択への後悔と、戻れなくなることへの恐怖が映っていた。しかし、彼の体はすでにモモの誘いに反応していた。肉体が魂を裏切る瞬間だった。脳が拒絶しても、体は素直に反応してしまう。その乖離が、彼の苦悩をさらに深めていた。


 一方、数キロ離れた場所で、愛希は祖母の家の玄関に立っていた。街灯の明かりに照らされた彼女の顔は、まだ純真さを失っていなかった。かすかに残る涙の跡。完也との会話で流れた涙。だが、その涙の向こうには、確かな希望の輝きがあった。


「かんちゃん、ありがとう。明日、学校で会おうね」


 愛希の声には、無邪気さと期待が混じっていた。完也との今日の出来事が、彼女の心に小さな希望の種を植えたようだった。それは彼女の傷ついた心を、少しずつ癒していくものになるかもしれない。


 完也は少し照れたように頷いた。その仕草には、まだ少年らしい純粋さが残っていた。彼の目には、愛希への特別な思いが宿っていた。それはまだ恋とは名付けられていないが、確かに存在するものだった。二人の間に流れ始めた、言葉にならない感情の川。


「う、うん…おやすみ」


 二人の間に流れる空気は、澄んでいた。穢れを知らない、まっすぐな気持ち。まだ彼らは光の世界に生きていた。だが、その世界と闇の世界を隔てる境界線は、時に残酷なほど曖昧で、一度踏み越えたら二度と戻れないものだった。二人はまだ知らなかった。自分たちのすぐ近くに、その境界線が横たわっていることを。そして、その線の向こう側では、愛する人が既に闇に飲まれつつあることを。


 愛希は完也に両手でバイバイすると、白い壁が所々黒ずんでいる二階建ての一軒家のドアを開けた。古びた家だが、そこには確かな温もりがあった。時間が織りなす生活の痕跡と、愛情の蓄積。それは彼女にとって、世界で唯一の安全地帯だった。


「ただいまーッ」


 元気な声。その声には、まだ少女の明るさが残っていた。しかし、その明るさの裏には、既に知ってしまった闇の記憶が隠れていた。継父の暴力。兄の変貌。そして自分自身の傷ついた部分。それらは彼女の無垢な心に刻まれた、消すことのできない傷痕だった。


「おかえり」


 奥から祖母の声が聞こえた。その声には、愛希に対する無条件の愛情が感じられた。それは愛希にとって、この世界で最も確かな安全の証だった。断言なき愛。それだけが、彼女の心を守る砦だった。


 居間に行くと、祖母は男性アイドルグループのコンサートビデオを見ていた。その姿には、年齢を超えた純粋な喜びがあった。七十代とは思えないほど若々しく、生き生きとしていた。その姿に、愛希は心から微笑んだ。


「おばあちゃん、ホントに若いね。来週行くんでしょ? ジョニーズの握手会」


「もちろんさ。それが楽しみで生きてるようなモンだからな」


 優しく微笑む祖母の姿に、愛希は心が温かくなるのを感じた。この家は、愛希にとって光の世界の中心だった。唯一、安心して眠れる場所。自分を守ってくれる最後の砦。


「長生きしてよね、おばあちゃん…」


 独り言のように言った愛希。その言葉には、失いたくないものへの切実な思いが込められていた。祖母だけは失いたくない。この家だけは失いたくない。そんな願いが、彼女の胸を締め付けていた。失うことへの漠とした恐れ。それは、既に多くのものを失った者だけが知る感覚だった。


聞こえてなかった祖母が尋ねる。


「龍太は?」


 その質問に、愛希の表情が微かに曇った。空が急に暗くなったように、彼女の顔から光が消える。


「龍太兄ちゃん?」


「一緒じゃなかったのか」


「龍太兄ちゃんからRAINEが来てて、今日、友達の家に泊まるって」


 愛希は嘘をついた。そのとき、彼女の心に小さな闇が生まれる。それは、自分の中に芽生えた境界線だった。兄を守るための嘘。しかし、その嘘は同時に、彼女自身が光と闇の境界線に一歩近づいたことを意味していた。


 本当は《モモの家に泊まる》とあった。そこで何をするのか、中一になれば理解できる。本当のことを愛希は言えなかった。祖母を心配させたくなかった。そして、兄が越えつつある境界線を、自分は認めたくなかった。その事実を言葉にした瞬間、それが取り返しのつかない現実になってしまうことを、どこかで恐れていた。


 彼女の心の中に、わずかな影が落ちた。それは龍太が既に越えてしまった境界線の予感だったのかもしれない。そして、彼女自身もまた、その境界線に近づいていることに、まだ気づいていなかった。自分の中の闇と光の均衡が、少しずつ崩れ始めていることに。


 愛希は部屋に戻り、ベッドに横たわった。今日の出来事が、彼女の脳裏に浮かぶ。完也との会話。智子婦警の姿。兄の変わりつつある姿。そして、自分の中に芽生えた新しい感情。それらすべてが混ざり合い、彼女の心に複雑な模様を描いていた。百花繚乱の感情が、彼女の中で咲き乱れ、やがてどれか一つが支配的になるのを待っていた。


 窓の外から差し込む淡い明かりが、部屋の中に伸びる影を作り出していた。光と闇の境界。その間で揺れ動く少女の心は、明日という未知の日に向けて、静かに息づいていた。明日は新しい一日。そこで彼女は再び完也と会う。あの温かさを、もう一度感じることができる。その期待が、彼女の胸に小さな灯火を灯していた。


 外では、雲間から月が姿を現した。その光が部屋を銀色に染め上げ、愛希の顔に繊細な陰影を落とす。夢の入り口に立ちながら、彼女はぼんやりと月を見つめていた。その月は、この街のどこかで、他の誰かにも同じ光を投げかけているのだろうか。完也は今、何を考えているのだろうか。兄は、どんな闇の中にいるのだろうか。


 やがて愛希の瞼が重くなり、彼女は眠りの世界へと落ちていった。その夢の中では、境界線など存在しないかのように、すべての人が同じ光の中にいた。


 だが現実の世界では、境界線は確実に存在していた。そして、一度その線を越えてしまった者は、二度と同じ場所には戻れないのだ。龍太が今いる闇の世界から、光の世界へ。そこは遠く、遥か彼方に見える彼岸のようだった。


 街の一角で、モモの車が停まり、エンジン音が静まる。彼女は月を見上げ、唇を歪めた。その輪郭が、獣のようにも、天使のようにも見える。光と闇の狭間で、彼女もまた自分の過去と向き合っていた。かつて自分も光の中にいた頃の記憶。それが今や、彼女を苦しめる鎖となっていた。


「あの女の子…」モモは小さく呟いた。


「私に似てる」


 その一言には、彼女自身も気づいていない感情が混じっていた。自分が失ったものを見つめる時の、言葉にならない痛み。そして、それを壊したいという衝動。自分の失ったものを持つ者への、妬みと憎しみ。


 モモは再びエンジンをかけた。車のライトが闇を切り裂き、彼女は未来へと走り出す。その行き先には、明日への確信が控えていた。そして、愛希と完也が築き始めた小さな光の世界を壊す計画が進行していることを、二人はまだ知らなかった。


 境界線は常に移り変わり、光と闇の均衡は絶えず揺れ動く。誰もが自分の中に、越えてはならない境界線を持っている。そして一度越えてしまえば、もう後戻りはできない。それが、この世界の残酷な真実だった。


 夜が更けていく。静かな街に、月の光だけが冷たく降り注ぐ。明日もまた、境界線の物語は続いていく。光を求める者と、闇に引きずり込む者の、終わりなき綱引き。


 そして、その狭間で揺れ動く少年少女の心は、やがてどちらの側を選ぶのだろうか。


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