境界線
愚人
第1話
1
「ねえ、かんちゃん。今日も一緒に帰ろ?」
教室の窓から差し込む夕陽が愛希の黒髪に絡まり、その肌を淡く染めていた。放課後の静寂に、彼女の声だけが確かな輪郭を持って漂う。
「え、あ、うん…」
完也は目を伏せたまま、教科書をバッグに滑り込ませる。指先が微かに震えている。四月に転校してきた愛希が自分に声をかける理由が、今も理解できないままだった。
愛希は不満そうに唇を噛む。
「もー、いつもそうやってモゴモゴ言わないの。はっきり『うん、行く!』って言ってよ」
水色のワイシャツに赤いリボン、紺色のスカートという標準的な制服姿。だが彼女の動きには、どこか他の生徒とは違う影が宿っていた。笑顔の下に潜む何か。時折、瞳の奥に浮かぶ闇が、言葉にできない深さを持っている。完也にはそれが不思議でならなかった。
「うん、行く…」
少し大きな声で答えると、愛希の顔に光が戻る。その純粋な反応に、完也は居心地の悪さと奇妙な安堵感を同時に覚えた。
校舎を出ると、夏の日差しが容赦なく二人を包み込む。愛希のポニーテールが風に揺れる様子を、完也は半歩後ろから眺めていた。彼女の制服スカートは他の女子よりも少し短く、彼と同じ学校の制服でありながら、まるで異なる世界の存在のように見える。
歩き始めてすぐ、いつものように完也が後方にずれていくのを愛希は感じた。足を止め、振り返る。
「かんちゃんって、いつも私の後ろを歩くよね」
夕陽を背にした愛希の顔が、逆光で輪郭だけが浮かび上がる。その姿は少女と大人の狭間で揺れているように見えた。
「私のこと嫌いなの?」
「えっ?。 あ、あの…嫌いだなんて…」
言葉が喉に引っかかる。愛希は首を傾げた。
「ほら、また目を合わせない。かんちゃんて、私と話す時、いつも視線をそらすよね」
「そ、そう…?」
完也は自分の目の動きを意識したことがなかった。ただ、愛希の瞳を真正面から見ると、胸の奥が目に見えない手で掻き回されるような感覚がある。
「そうだよ」愛希はきっぱりと言い、そして不意に口調を和らげた。
「でも、気にしてないよ。かんちゃんらしいなって思うだけ」
くすりと笑う彼女の表情に、完也は見とれる。同時に、愛希と親しくなることへの不安も感じていた。学校中に広まる噂—彼女の兄が不良グループの一員だという話。彼はそれを信じたくなかったが、耳にする断片的な話は、確かな恐怖を植え付けていた。
立ち止まった愛希が、突然表情を変える。
「ねえ、かんちゃん」
声の調子の変化に、完也は思わず顔を上げた。
「今日、ちょっと兄の部屋に寄りたいんだけど…一緒に来てくれない?」
その言葉には、単なる誘いとは違う、何かを秘めた切実さがあった。
「兄…って、龍太さん?」
愛希は無言で頷く。その仕草に一瞬、隠しきれない恐れが走った。
「私、一人じゃ怖いの…」声が震える。
「あそこに行くと、昔の嫌なことを思い出してしまって…」
彼女の声が小さくなり、目が曇るのを見て、完也は何か深い傷を感じ取った。
「それに…」愛希は言葉を続け、少し照れたように頬を染めた。
「りゅうた兄ちゃんが、私の友達の顔を見たいって言うの…」
「え?」完也は驚いて声を上げた。
「友達…」
その言葉に、完也の心臓が一拍飛んだ。愛希は慌てて両手を振った。
「だって、かんちゃんと私は友達でしょ?」
そう言いながらも、彼女の頬はさらに赤く染まっていく。自分の言葉に自分でも驚いたような表情。どこか戸惑いがちな目が、完也を見つめる。
「お願い、かんちゃん」
愛希は完也の腕を軽く掴む。その指先の震えが、布地越しにも伝わってきた。「私、かんちゃんといると安心するの」
その言葉に、完也は何も言えなくなった。恐れと、彼女を一人にできないという思いの間で揺れる。深く息を吸い、ゆっくりと頷いた。
愛希の表情が明るくなる。だが、その目の奥には、まだ何かが残っていた。完全には消えることのない影。
※
二人が曲がった先の路地は、夕闇がすでに忍び寄っていた。アパートへと続く道で、彼らの影が長く伸びる。赤く染まった空の下、二人の歩みは、これから踏み入れる世界の予感を孕んでいた。
西日が窓から斜めに差し込み、部屋に漂う煙を透かして床に鮮やかな一線を描いていた。その光の帯が、フローリングの上に明暗の境界を作る。まるで見えない壁で部屋を二分するように。
胡座をかいているのは、十七、八歳の半袖ティーシャツの少年たち。缶ビールを片手に、タバコの煙を吐き出す仕草には、ぎこちなさと奇妙な誇りが同居していた。
完也は部屋の片隅で、違和感に満ちた空気の中、自分の居場所を見出せないままだった。
「部屋、暑くない?」
光の帯の中、女の子座りをしていた愛希が、小さな声で言った。デニムのミニスカートに手を重ね、身体を小さくしている。隣の完也も、この空間への戸惑いを隠せずにいた。
愛希は時折、煙に反応して小さな咳を手で押さえ込み、龍太の様子を窺う。その目には複雑な感情が交錯していた。
「窓、少し開けて大丈夫かな…」
その囁きには、空気を読もうとする慎重さが滲んでいた。視線の先には、龍の派手なプリントが入った黒いTシャツを着た少年がいる。兄の龍太。ティーシャツの襟元からは、まだ消えていない喧嘩の後の青紫色の痣が覗いていた。愛希の目はその痕に釘付けになる。
「かんちゃん、りゅうた兄ちゃんに聞いてみて」愛希は隣の完也に囁いた。
完也は一瞬だけ龍太を見たが、すぐに目を逸らした。
「じ、自分で聞きなよ…。ありすのお兄さんじゃん…」
声が震えている。「ありすのお兄さん…怖いよ」
愛希は小さく溜息をついた。三ヶ月前から、兄は別人のようになった。かつての穏やかな龍太の面影はない。代わりにそこにいるのは、乱暴者の仮面をかぶった少年だった。だがその変化の裏には、愛希にしか知り得ない理由があった—彼女を守るために龍太が支払った代償。
「お前ら、ここでのことは絶対に誰にもしゃべるな」
龍太の声には、これまでにない鈍い響きがあった。それは彼の中の何かが壊れた証だった。煙草の灰を指で弾き、再び口に含む。新たな煙が愛希に向かって流れる。
「ゴホン、ゴホン」愛希の咳が静かに響く。
「全く、あの婦警……」
瀬良と呼ばれる少年が低い声で言った。その顔には、まだ薄紫色の痣が残っている。
「こんど会ったら教えてやる。警察の制服を着てるからって、俺たちを見下すなって」
瀬良の言葉には、外見だけで不良のレッテルを貼られ、大人社会から抑圧されている若者特有の虚勢が混じっていた。しかし、彼の目に敗北の色はない。むしろ、大人の世界への侵入者としての誇りが見え隠れしていた。
「まだ痛むのか?」
龍太が聞いた。その声には、仲間への心配と共に、同じ痛みを知る者の連帯感があった。
瀬良は唇の端を上げ、不気味な微笑を浮かべた。「痛みなんて大したことねえよ。あの時の婦警の顔の方が最高だった」
その言葉に、愛希の体が固まった。瀬良の声が、あの日の継父の声と重なり始める。過去の記憶が断片的に蘇る。
「あのクソ婦警、『二十歳未満の喫煙は法律で禁止されてるの知ってるわよね?』だとよ」瀬良の声が冷たくなっていく。
「マジで腹立った。生徒手帳見せろだ? 俺たちが犯罪者みたいな扱いだ。だから見せてやったんだ…生徒手帳の代わりにな」
瀬良は缶ビールを飲み干し、空き缶を手で握りつぶした。その音が部屋に響き、愛希の心臓を跳ねさせる。
「最初は腕を掴んだだけのつもりだった。だけど、あいつが抵抗するから面白くなってな。『やめなさい!』って言われるのが腹立って、背中を塀に押しつけて、唇を奪ってやったんだ」
愛希の耳に血の気が引く音が響き始めた。継父の唇が自分の唇に触れてきて、舌を入れられた時の感覚がよみがえる。吐き気と呼吸ができなくなるような感覚。声を出せない恐怖。
「それから制服を引き裂いて、ブラジャーが見えた時は最高だった」瀬良の目が血走る。
「そして、首もとまで上げてやって、おっぱいが見えた時の感覚。上向いた乳首。婦警の悲鳴…どれも最高だった…」
瀬良の言葉が、愛希の中で反響する。それは継父から無理やり受けた性暴力と重なり、彼女の中で渦巻く恐怖と吐き気を誘発した。
「捨てられた施設の中で学んだんだよ。相手が女だろうが警官だろうが、弱みを見せたら終わりだってな。あいつら、弱い奴は容赦なく潰すからな」
瀬良の声には、別の場所で受けた傷の痛みが混じっていた。
愛希の視界が狭まり始める。継父の酒臭い息が鼻をつき、あの日の記憶が鮮明に蘇って来る。引きずり込まれた部屋で、購入したばかりの中学校の制服のボタンを飛ばされ、つけたばかりのブラジャーをはぎ取られて乳房を触られた時の恐怖。そしてスカートの中に手を入れられパンティを膝まで下げられた時に感じた絶望。その時、龍太が駆けつけて継父を殴った時の生々しい音。
「ゴク…ゴク…」
愛希は呼吸ができなくなりつつあった。過去の記憶と現在の恐怖が混ざり合い、彼女を窒息させる。
「次会ったら、あの婦警、ただじゃおかないからな」瀬良は手を振り回した。
「俺は威張り腐ってる警察を、絶対に許さない」
部屋の空気が重く、愛希の肺を締め付ける。継父の影が瀬良と重なり、その声が部屋中に響く。もう耐えられない。
窓から差し込む光は角度を変え、部屋の中で移動していく。光と影の境界線が動くにつれ、愛希の小さな影が龍太たちの濃い影に飲み込まれていくように見えた。
「りゅうた兄ちゃん、私、少し外に出てくる」
愛希は言葉を振り絞った。ここから逃げ出さなければ。胸の奥に黒い渦が広がり、全身を飲み込もうとしている。
あの日の記憶。酒臭い息と下品な笑い声。引き裂かれる服の音。そして、龍太が愛希をかばい、殴られる音。
部屋が回り始め、呼吸が浅くなる。このまま倒れる前に、ここから出なければ。
「りゅう…、りゅうた兄ちゃん…、私…おばあちゃんちに帰るね…」
言葉さえ上手く出てこない。愛希は完也の腕を強く掴み、「出よう…」と震える声で囁いた。その目には、言葉にできない恐怖が潜んでいた。
兄は無言で妹を見つめ、小さく頷いた。その目には、かつての優しさの名残が浮かんでいた。それは妹を守るために変わってしまった自分への後悔だった。だが次の瞬間、それは仲間への強がりの表情へと戻った。
ドアが開き、暖かな風が流れ込んでくる。その風は、室内の煙を一瞬だけかき乱し、また新たな境界線を描き始めた。子どもと大人の間。家族と他人の間。過去と現在の間。この部屋には、目に見えない無数の境界線が交錯していた。
冷房の効いた部屋と違い、外は蒸し暑かった。だがそれは愛希にとって、解放のように感じられた。肺の中の煙を、新鮮な空気が洗い流していく。部屋の中の淀んだ世界と外の風が流れる世界。二つが同じ現実とは思えなかった。
煙草も酒も暴力も、彼女にとって継父の象徴だった。幸い、家出していた兄に助けられたが、それ以来、自宅には戻っていない。母とも会っていない。今は兄と祖母の家で暮らしている。罪滅ぼしなのか、母から毎月、決まった金額が祖母のスマホに送られてくる。その事実が愛希に複雑な感情を抱かせていた。
黒いポニーテールが風に揺れる。チティがプリントされたピンクのパーカーとデニムのミニスカート。目のくりっとした可愛らしい少女の姿。通りすがりの男たちは、彼女の姿に目を向け、通り過ぎ際に視線を落とす。その視線は瀬良のものとは違いながらも、どこか同質のものを愛希に感じさせた。
「男たちの隠せない本能」とテレビの評論家が言っていた言葉が蘇る。「良心の境界線を越えた時、彼らは暴力に及ぶ」
自分の経験と重なり、胸が詰まる。継父の手が乳房を包み込む感覚が一瞬よみがえり、愛希は無意識に胸に手を当てた。
そんな愛希と並んで、完也は自分の存在の薄さを感じていた。彼はいつも愛希の半歩後ろを歩く。それは彼の人生そのものを象徴していた—誰かの影にいて、自分が主役になれない感覚。
無地の白いティーシャツに紺色のジャージ。普通の横分けの髪形。地味で目立たない彼は、女子と無縁の十二年を過ごしてきた。入学式から一週間後に転校して来た愛希に声をかけられたのが運命の転機だった。不良の龍太の妹だと知り、怖くて断れなかった当初。だが今は、拒否する気持ちはどこかへ消え、彼女に何かを感じ始めていた。それが何なのか、完也自身にもまだ見えていなかった。
「もーッ。いつもそうやって私の後を歩くんだから」
振り向いた愛希が、焦れたように言う。だが、その声には隠しきれない喜びの音色があった。胸の内側がほんのりと暖かくなる。なぜ完也といると落ち着くのか、彼の存在が安心感をもたらすのか、愛希にはわからなかった。ただ、兄が変わってしまった今、完也は数少ない「安全な場所」になっていた。彼の持つ純粋さが、彼女の失ったものを静かに思い出させるのかもしれない。
愛希は完也の腕を引っ張り、腕を組む。心臓が高鳴り、頬が熱くなる。チラリと完也を見る。彼は表情を変えないまま、ただ緊張している様子が手のひらの汗で伝わってきた。その感触が愛希には妙に愛おしく感じられた。これまで感じたことのない感情。未知の領域が、彼女の心に小さな灯りを灯し始めていた。
完也はふと、通り過ぎるパトカーを見て言った。
「瀬良っていう人、噂と違ったんだね。廃屋で婦警さんをレイプしたって学校で言われてるけど」
その言葉に、愛希は目を見開いた。完也が自分から話すことは珍しかった。
「ど、どうしたの? 。いつもは私の話に答えるだけなのに」
「え?。 そう?。 そんなことないと思うけど…」完也は戸惑った。
「話しかけるのはいつも私からだよ。かんちゃんから話題を振ってくるなんて初めてだもん」愛希の表情に、小さな喜びが浮かぶ。
「ありすは知ってたの? レイプしてなかったってこと…」完也は慎重に尋ねた。
愛希は言葉に詰まり、俯いた。
「うん、知ってた。でも、りゅうた兄ちゃんが、誰にも話すなっていわれてたから…」
申し訳なさそうに言う愛希。声には兄への複雑な感情と、完也への罪悪感が入り混じっていた。
「そうだったんだ…」完也は静かに言った。その声には、自分の無力さへの失望が滲んでいた。
沈黙が二人の間に流れる。そこには言葉にない感情が交差していた。愛希は完也の表情を見て、胸が詰まる。
「ごめんね。あんなところに連れて行って…」愛希は真剣な顔で言う。
「でも、かんちゃんがいてくれて、本当に安心した…」
声が小さくなり、風に溶けるような囁きになる。
「私…かんちゃんのこと好きなのかな…」
その言葉は自問だった。愛希は頬を赤らめる。心臓が早く打ち、頭が熱くなる。この言葉が口をついて出た理由も、頬の熱さの正体も、彼女にはまだわからなかった。
慌てて言葉を重ねる。
「違う、違う、違うから。わ、私、かんちゃんのこと好きじゃないから」
否定することで却って本心が透けて見える。
「勘違いしないでね…友達としては好きだよ。ただの言い間違い」
言葉と裏腹に、愛希の頬は赤みを増し、手のひらに汗が滲む。混乱する自分の気持ちに、彼女自身が戸惑っていた。
愛希は腕組みに気づき、慌てて手を離した。その仕草には、芽生えた感情への戸惑いがあった。
「ば~か。べ~だ」
舌を出して、一人で早足になる。少し先に行くと振り返り、薄く笑みを浮かべる。
「なに付いてくるのよ。もう用はないんだから、一人で帰りなさいよ。かんちゃんの家は向こうでしょ」
その言葉の奥に隠された本心を、完也は感じ取れなかった。彼はただ素直に頷いた。
「うん…そうするよ。じゃあ、また明日」
その素直な返事に、愛希は胸が痛むような寂しさを感じた。もう少し一緒にいて欲しい本音が、素直に出せない自分がいた。
「相変わらず仲が良いのね」
柔らかな声が、二人の間の空気を変えた。振り向くと、淡いベージュ色の半袖制服の若い婦警が微笑んでいた。その穏やかな表情は、先ほどの部屋の重苦しさとは対照的だった。
「ほんと、羨ましいな」婦警は優しい目で二人を見る。
「ともこ婦警さん」
二人の声が重なった。あまりに同時の反応に、互いを見つめ、すぐに目をそらす。愛希の中に小さな疑問が芽生えた—完也と婦警の間にある親しさの正体は。
「ふふふ。もう、二人は恋人同士みたいね」
婦警の茶目っ気ある言葉に、愛希は顔を赤らめた。
「ち、違います!」
愛希は反論し、そっぽを向く。一方で、完也は柔らかな表情で婦警の顔を見ていた。その目には、何か特別な感情が宿っていた。愛希はその様子をちらりと見て、胸に引っかかるような感覚を覚えた。今まで感じたことのない感情。
伊藤智子巡査。二十四歳だが、制服姿が女子高生のようにも見える若々しさ。完也が小学校低学年まで隣に住んでいて、姉の幼馴染だった。兄弟のいない智子に実の弟のように可愛がられていた完也。
愛希は智子を見る。穏やかな表情と優しい目には、瀬良の描いた婦警の姿と全く異なる雰囲気があった。同じ制服でも、人によってこれほど違う。そして、完也が智子に見せる笑顔が、自分には向けられないことへの痛みを感じた。
「もしかして…かんちゃん、ともこ婦警さんのことが好きだから…?」心の中でつぶやく。
「でも…かんちゃんより十二も上だし…そんなこと、ないよね…」
その思いを押し殺し、愛希は自分を納得させようとした。それが嫉妬という感情だとは気づかないまま。その感情は、彼女の中で静かに揺れ始めていた。
「ともこ婦警さん、ミニパトで取締りしてたのに、なんで急に交番勤務になったんですか?」
愛希の問いには、確かめたい何かが隠されていた。瀬良の言葉が浮かび、もしかしたら交番勤務になったことと関係があるのではという疑念。
「うん…」
智子は言葉を切った。その表情に一瞬の影が過ぎるのを、愛希は見逃さなかった。何かを隠す、傷を抱えた表情。
「コンビニ前の交番の婦警が体調崩して休んでるの。それで代わりに私が入ることになって」
智子は二人の顔を交互に見た。明るい声だが、目の奥に緊張があった。
愛希は、完也の嬉しそうな表情を見て、胸がきりきりと痛んだ。自分にはない表情を他人に向ける彼の姿が、妙に遠く感じられた。
「婦警さんがレイプされたって噂がありますけど、本当ですか?」
その言葉は、愛希自身も意図せず口から零れた。単なる意地悪ではなく、自分の恐怖と重なる何かを確かめたいという無意識の欲求から出た問いだった。
「………」
智子は沈黙した。その表情に恐怖が過ぎるのを見て、愛希は自分の言葉が開いてはならない傷口に触れたことを悟った。
「やめろよ!」完也が思いがけない強さで言った。
「知ってるくせに、ともこ婦警さんにそんなこと聞くな」
その声には、愛希が聞いたことのない強さがあった。完也にとって智子は憧れであり、守りたい存在だった。そんな智子を愛希が傷つけていると感じたのだ。
「ともこ婦警さんをイジメるな!」
その言葉は、愛希の胸を刺した。完也が自分ではなく智子の味方をしたことが、言いようのない痛みになる。
「なによ…そんなにムキにならなくても良いじゃない…」愛希の声は震えていた。
「かんちゃん、ともこ婦警さんのこと好きなんでしょ…バカッ…かんちゃんなんか、大嫌い…」
その言葉と同時に、愛希の目に涙が溢れた。それを見せまいと、彼女は踵を返して走り出した。
視界が涙で滲む中、ただ前へと走る。なぜ完也があの婦警をそこまで守るのか、なぜ自分に向いてくれないのか、理解できない感情が胸の中で暴れていた。嫉妬なのか、孤独なのか、見捨てられる恐怖なのか—名付けられない痛みだけが確かだった。
泣きながら遠ざかる愛希の背中。それを見て、智子は完也に囁いた。
「かんちゃん、追いかけて」
「え?。 なんで?」完也は戸惑っていた。愛希の反応の意味が理解できない。
「いいから早く。寄り添ってあげて」
智子の声には切迫感があった。彼女は愛希の感情を見抜いていた。自分に対する嫉妬を。そしてそれ以上に、愛希の瞳に浮かんでいた傷の深さを。同じ女性として、彼女の闇を感じ取っていた。
「彼女はかんちゃんを必要としてるの。さあ、早く」智子は完也の背を優しく押した。
完也は戸惑いながらも、愛希の後を追って走り出した。胸の中に混乱があった—なぜ愛希があんな反応をしたのか、自分が何か間違ったのか。そして何故、愛希が自分を必要としているのか。
そんな二人の姿を、ピンクのミニワンピース姿の女性が停めた軽自動車の中から冷ややかに見つめていた。女性の瞳に宿る光は、計算され尽くした何かを秘めていた。まるで、これから起きる出来事の全てを予見しているかのように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます