第五幕:氾愛敬天リビングデッド④

 湿った土の香りが蔓延はびこる体育館裏。せっかくの快晴だというのに、体育館という人工物のせいで、意図的では無いにしろ、日当たりが悪くなってしまったこの場所には、苔と蒲公英たんぽぽがまばらながらもたくましく生えそろっている。

 「ほんで、なんの用ですか?」

 「あー、別に大したことじゃないんだけどさ」

 「アオイとのことならもう心配してくれんでも大丈夫です」

 広瀬の挑発的な言葉遣いをさえぎるかのように、食い気味に大阪訛りの敬語がうやうやしくもあっけらかんと放たれた。

 「心配とか…そういうんじゃなくて。ていうか心配してたのは、アオイくんの方だけだから。そこらへん勘違いしないでおいて」

 「そうですか。で、話がこれだけならネタ合わせ行くんで、ぼちぼち…」

 「これだけのわけないでしょ⁉ あんた、部内の雰囲気をあれだけ悪くしといて、なにも思わないの? アオイくんだけじゃなくて、全員に迷惑かけたんだよ?」

 「それがなにか問題でも?」

 「あんたねえ…先輩を舐めるのも」

 「だって先輩、言うたやないですか。『中途半端じゃつまらない』て」

 「それはそういう意味じゃないでしょ⁉」

 驚嘆きょうたんとともに駆け抜ける一陣いちじんの風が、湿気た地面に這いつくばっている蒲公英を勇敢ゆうかんに揺らし、砂利じゃりをいたずらに蹴飛ばしていく。

 「ほなどういう意味なんでっか? ウチにはよう分らんかったですわ」

 「ほんっと、煽りの技術は一流みたいね…」

 「そんな褒めんでも~」

 「褒めてないんだけど⁉」

 陽気な語気に当てられ、刺々とげとげしかった言葉たちの角が順調に削られていたのだが、そんな不利を追い払おうと、見開いたまぶたから眼球が飛び出しそうになるほど、首を回すように振り、角度の険しいまゆ眉間みけんに食い込ませながら、スラリと細長い人差し指を突き立ててきた。

 「もういい! 勝負するよ!」

 「ええですけど。なにするんです?」

 「勝負なら、もうすぐ始まるでしょ? そこで私らが一位だったら、あんたたちは解散して。その方がアオイくんのためだし、キングのためにもなる」

 「それはアオイが決めることと違います?」

 「それはそうだけど、アオイくんとあんたは一緒に居ない方がいいわよ」

 「あっはは! そんなん当り前ですやんか! なにを今さら!」

 一しきり笑ったエミは、ふう、と息を吐きだすと、僅かな微笑みを携え、情熱的な眼差しを突き刺しながら口を開いた。

 「ほな、こっちからもお願いですわ。ウチらが一位やったら、アオイの邪魔をせんといてください。あいつは―――」

 ―――たしかに、アオイの将来の事を考えるのであれば、一緒に漫才をするべきではないことくらい、明明白白めいめいはくはくたる事実なのだ。いや、そもそも漫才というもの自体に触れるべくもなく、平穏無事な学生生活を過ごしていた方が、彼にとっては幾分か有意義であるとさえも言えるかもしれない。

 けれど、見え始めてしまった夢の先を中断されるわけにはいかないのだ。そこへ至るには、アオイという存在が必要不可欠であるのだから。

 「ほんっと生意気! せいぜい今後の身の振り方でも考えておきな!」

 「おおきに。ええ勝負しましょや」

 地面が干上がるような怒気を振り撒きながら、体育館内へと戻っていく広瀬の背中は、糸で吊られたように張りながらも、その内に秘めた揺らぎまでは隠せていないようで、独り歩きした言葉たちに操られているようでもあった。


 司会進行役の放送部がひょうきんな声で体育館中の喧騒けんそうを制するように、軽快な煽り文句とともに舞台袖から現れ、今日の寄席への期待と関心を、骨頂こっちょうずいまで高めようと邁進まいしんしている。

 ただ、そんなことをしなくとも、すでに会場のボルテージは最大限まで溢れかえっており、体育館から漏れ出した七色の歓声は、静まり返った校舎までも揺らしているかのようであった。

 「だから、そこはイントネーションをワントーン明るくせえって、なんべんも言うとるやろがい! この土日で治りきってへんやんけ!」

 「俺だってやってんだよ! てか『おはようございます』のイントネーションに、正解もクソもあるわけねえだろうが!」

 「そんなん言い出したらキリないねん! 細かいところは放っておけや!」

 もはやなんの問題もなく、会場は温まりきっていると言えるのだが、ただ一つ、懸念するべき点があるのだとすれば、本番直前だというのに、トップバッターに選出されたエミとアオイの喧嘩が、降りしきる歓声をよそに、舞台裏にて垂れ流され続けているということだけだ。

 「お、やってるね~。仲直りしたみたいで良かったよ~」

 「「仲良くないです! おい、真似すんなよ!」や!」

 「あっはは! まあ、ほどほどにね~。ブンちゃんのMCが終わったら、出囃子でばやしが流れるから準備しておきなよ~」

 「「はい! ありがとうございます! だから真似すんなよ!」や!」

 「それじゃ私は行くね~。コンビ名の発表も楽しみにしてるよ~」

 歩き去る深緑色の背広を硬直した視線で見送った二人は、錆びた螺子ねじを無理やりに回すように、凝り固まった頸椎けいついを互いの方向に向ける。

 「…おい、聞いたかよ」

 「ああ、聞いたで。まさか、ウチとしたことが一番大事なことを忘れとるとはな」

 「いや、これに関してはお前だけの責任じゃない」

 「コンビ名、決めんとな………」

 コンビ名。それはお笑い芸人として活動するのであれば、絶対的に決めなければならないものであり、自分たちの芸風をやんわりと伝えるための手段でもある。

 アオイとて、もちろんエミも、忘れていたわけではない。忘れていたわけではないのだが、練習をするたびに良くなっていく自分たちの漫才に、万感ばんかんの風を覚え、吹きすさ順風じゅんぷうを張られているうちに後回しにしていたのだ。

 「どうしよう! なにも決まってないじゃん! え、あ、いや、え⁉ どうしよう!」

 「おおお、おおち、落ち着け! なんとか、なんとか誤魔化せる…」

 慌てる自分自身にも言い聞かせるために、吃音きつおんまみれの関東弁をまき散らしている相方へと声をかけようとしたところで、放送部の圧倒的アイドル(自称)こと、ブンちゃんの明朗快活めいろうかいかつなMCが聞こえてくる。

 『今日は注目の一年生コンビが、やっとコンビ名を決めたらしいので、期待が高まりますねー!』

 「あかーん! 退路を塞がれてもうた!」

 「だだだだだ、大丈夫だ! まだ、まだ、考える時間はあるはずだから。少し落ち着いて冷静に考えれば大丈夫だ」

 「そ、そやな…よし。ほな考えよか」

 「切り替え早すぎんだろ」

 「文句あるならアイディアの一つでも出しや」

 『さあて、皆さんお待ちかね! そろそろ本番にいっちゃいましょうか!』

 文句の一つしか出ていない状態だというのに、放送部が更なる煽りを会場へと放出すると、会場内の熱気はさらなる増幅を見せ、これから出てくる新人二人を待ちわびるような期待を含んだざわめきが、一直線にギラついているスポットライトを、脈打つ拍動に合わせて揺らしているようである。

 「…終わった」

 「ちょっと⁉ 勝手に諦めんといて⁉ って、ほんまにヤバいやん! 出囃子が流れてもうてるし!」

 「あははは…はあ。えっへへへへ。どうしろってんだよ…」

 「喜怒哀楽をいっぺんにすなや⁉ おい、しっかりせえや! コンビ名を決めてへんだけやないかい! あんたがその調子やと漫才できひんのやけど!」

 「いや、ああ、うん。任せとけー」

 「任せられるか! しっかりせえ!」

 これほどまでに淡泊で頼りのない啖呵たんかが今までにあっただろうか。いや、言うまでもなく、人類史上初の項垂うなだれたガッツポーズが掲げられたのだから、わざわざ確認するまでもないだろう。

 それに加えて、軽快なリズムの出囃子が煽られた焦燥感をさらに急かすように、珍妙な音程で鳴り響いてしまっているのだから、急いて事を進める他に画期的な解はないのだ。

 「ど、どうしよう。なにも思いつかない。えーっと、コンビ名コンビ名…」

 「…ウチに任せや。コンビ名、ええのん思いついたわ」

 「ホントかッ⁉ ありがとう! それなら…」

 「おーい。なにやってるっすか。出囃子が流れてるっすよー」

 「あ! すんません! いま出ます!」

 上がり調子な機械音の旋律せんりつに道を示され、スポットライトが陽明ようめいに照らす舞台の中心へと軽やかに足を運ばせる。

 狼狽の極致きょくちにて騒いでいたせいか、おかげか、不思議と調子の良い喉をかっ開いて、相方の後に続いて、サンパチマイクを挟んで唾を飛ばし合い始める。

 かくして、なんとか、やっとのことで、俺の人生が―――。

 いや、俺たち『あかんたれ』の漫才がまぶしく輝き始めたのであった。

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