第五幕:氾愛敬天リビングデッド①

 議論を交わす部員たちの賑やかな声をそばだてた耳で聞きながら、退屈の色に染まりきった街を窓からうつろな目で眺めていた。

 断続的に降り続いていたそぞろ雨は曇天に溜め込まれ、今にも破裂しそうなほどの積乱雲は四次元方向のベクトルを無限に伸ばしているような錯覚さえ覚えさせてきて、密雲みつうんさえぎられた陽光ようこうは日中であることを忘れさせるほどに弱らされている。わずかに差し込むことに成功した奇跡のような灯りでさえも、地上の暗澹あんたんとした雰囲気にたやすく握りつぶされていくばかりだ。

 「アオイくん。聞いているかな? 体調が悪いなら今日は先に帰っちゃっても大丈夫だよ」

 「あ、いえ。大丈夫です。すみません」

 「そうか、なら続けよう」

 「はいは~い。思ったんですけど、新しい企画やるってなったら他の部と打ち合わせしなきゃいけないじゃん? あと一週間だと準備が厳しいんじゃない? そもそも、まだ企画自体がフワフワしてるから、来月に回した方がいいんじゃないかな~って」

 「それもそうっすけど、やっぱ受けもしない大学受験のために大城さんが来月にはやめなきゃいけないから早めに決めたいっすよね」

 「ふふ。進路なんて養成所ようせいじょ一択だからな。土下座の一発や二発でもすれば最後まで残れそうな気はしている」

 「じゃあ追いコンはやらなくていいっすか?」

 「それは寂しいからやってくれ」

 和やかな雰囲気を圧しこめるような隠遁いんとんたる空気を放つエミには触れもせず、というよりも、居ないものとして扱って会議を進めていくのだが、話が違う展開を見せるほどに彼女の表情も険しいものとなってしまい、明暗の間へと勝手に板挟みにされたような気まずさを背負いこまざるを得なかった。

 それならそれで周りに乗じて無視してしまえば良いのだろうが、彼女が不機嫌な理由は自分にあることが確定しているとあっては、非人道的で反倫理的で非道徳的な蛮行ばんこうに走ろうとは考えにも至らなかった。

 それゆえに、ずっとこのままにしておくというわけにも行かないのだ。

 『これ以上部内の雰囲気を悪くするなら、彼女は退部させた方が良いのではないか』と、広瀬がほのかないきどおりをあらわにしながらもうやうやしい口調で議題に取り上げたからだ。

 個人的には同意を示す考え方ではある。調和を乱す異分子は排除するに限る。しかし、議題の対象になっている人物は相方でもあり、アオイを原因として、あらぬ誤解を周囲にさせてしまっているだけなのだ。おそらくそうなのだ。かと言って、今の彼女にそんな話をするのは火に油を注ぐのと同じことであるし、やはり自身の卑屈ひくつさが原因であるのだから、彼女の退部は芽生え始めた甘美な感情を引き換えにしてでも阻止しなければいけない。むしろそうするべきなのだ。

 無意識ながらも傷つけてしまったらしい相方を『守る』という表現は全く正しくはないのだけれど、それでも不当な扱いを受けそうになってしまっている彼女を放っておくことはできないし、無自覚ながらもいてしまった種なのだから、己の手で回収するのが普通のことであろう。

 だから、だからこそ、今日中に話をつけなければいけない。たとえ、真正面から向き合うことを拒否されたとしても、本音だけは彼女の耳に放り込まなければいけないのだ。本番まで残された時間はわずかしかないのだから。

 「じゃあ、今日は解散。次のミーティングは金曜日ってことで。お疲れさま」

 大城の平坦な声で陰陽の入り混じった会議は終息を迎えた。

 それとほとんど同時に部室を飛び出していったエミは、折れ曲がった背中を追わせまいと、追いかけるアオイに対して必死の逃走劇を繰り広げてきた。

 まず、逃げ込み場所としては定番の路地裏を巧みに走り抜けていき、さびれた空き地に出ると、意味のない土管くぐりをしていたので紳士的判断から見守ることにし、それでもなお逃げようとしたので、さらに後を追うと商店街の大通りに差し掛かってしまった。

 楽し気な声に紛れて姿を眩ませようとする彼女の姿を見逃すまいと、必死に黒色のウルフカットを追いかけていたら、なぜか一緒にラーメンを食べ、会計は自分が持つことになってしまった。

 腹ごしらえが済んだことでエネルギーが充填じゅうてんされたらしい彼女は、店を出た瞬間から脚の回転速度を上げて疾風しっぷうぎ払うかのような逃走を再開していた。

 彼女の逸足いっそくは意外なことに長距離にも対応しているようで、商店街から遠く離れた河川敷にたどり着くまで筋繊維きんせんいが悲鳴を上げることはなく、柔らかな芝生の上に突っ伏すまで止まることなく回転し続けた。

 無理して走り続けていたアオイも時と場所を同じくして地面に倒れ伏すと、いまだ全身で呼吸を試みている彼女が嫌味たらしい調子で掠れた声を上げる。

 「しつこいねん…どこまでついてくる気や…」

 「お前が逃げる、から、追いかけてた、だけだろ…」

 「別に追わんでもええやろ…」

 「そう、いう訳にもいかない…お前、いま、先輩たちからの印象、最悪だぞ」

 「そんなん、言われんでも分かっとるわ…」

 「じゃあなんで、あんな態度なんだよ」

 痛む横腹に急かされた言葉たちが押し出されていく。

 「そんなん言わんでも分かってや」

 「また、それかよ…いい加減、意地を張るの、やめたらどうだ」

 「そらあんたもやろ。なんぼ言えばわかんねん」

 このままでは今までの平行的な言い合いとなんら変わりのないものになってしまう。彼女の言い分こそ理解に足るものでは無かったのだが、不満も不平も丸ごと含んだ曇天を呑み込むように仰向けに直って息を吸い込んでから、いつの間にか重たくふさがっていたふたを開いた。

 「ごめん。まだ、なにもわからないけど謝らない選択肢が無いことくらいはわかる。だから、俺がなにをしたかだけは教えてほしい」

 意を決して放った一言は、夕陽と見紛うほどの赤面に至らせるには十分な羞恥の感情を含んでいたことは言うまでもないことだが、それとは別に、土手に吹き抜ける夏風のような清涼感が溢れていたことは確かだった。

 「…なんでウチとコンビ組んでくれたん」

 「それは…」

 最初から誤魔化すつもりなど無かった。今この場で誤魔化してしまったら、もうなにも残らず、後にも先にも咬牙切歯こうがせっしの念だけが居座ると思ったのだから。

 「池尻先輩のことを知りたいと思ったんだ。お前と初めて漫才した日に先輩に『好き』って言われて、結局まだ付き合ってはいないんだけど、そう言われた理由が知りたかったんだ」

 「そうか。それで急にやる気んなったちゅうことやな」

 「そうだけど。わざわざ強調するなよ」

 「ほな、あれは? 舞台から前を見られへんやつは?」

 「いやあれは事故って言うか、なかば奇跡みたいな克服だったから」

 掴みどころのない問答たちに、困惑の返答が宙に舞っていく。

 「部長がチ〇コ出してしもたやつか?」

 「おい、女子なんだから気軽にチ〇コとか言うなよな。あってるけど」

 「それで吹っ切れたんやな」

 「ていうか、なんだこの話。あんまり関係ないんじゃないか」

 「あるで」

 彼女はそう言って、青草の香りを目いっぱい吸い込むと、咽るような青臭さを吐き出すように口を開いた。

 「ぜんぶ、アオイの助けになりたかったことや」

 「いや、全部ってお前…」

 「ほんで、アオイがウチの手を取らんかったことでもある」

 なぜ気付かなかったのだろうか。本当に、本当に小さく、些細ささいな気遣い。

 彼女の言動には大胆ながらも、いつも細やかな思いやりがあったというのに、繊細せんさいすぎるがゆえに、彼女の優しさに慣れてしまったばかりに、浅はかな思考を宿した自分には気付けなかった。

 いまにして思えば『どしたん?』や『なんかあったん?』などの過剰かじょうなまでの問いかけは、こちらに気を遣わせないように気丈に振る舞いながらも、彼女なりに本気で心配してくれていたのだ。

 気を遣われていたというのに、無自覚に突き放してしまっていた自我が存在しているという事実がにわかに信じがたい。

 しかし、もはや疑う余地もなく無意識下の不躾ぶしつけな気遣いは彼女にとっての痛みだったのだ。そんな心配に対して礼もせずにのうのうと生きてしまっていた。恥ずかしくてたまらない。今すぐにでも自分自身を殴り倒したい。

 「まあ、よくよく考えてみれば、ウチの一方的なお節介やったわけやしな。面倒かけてすまんかったな」

 「………ごめん」

 「あんたが泣いてどうすんねん」

 快活な鼻声が空気の読めない風にさらわれて、曇り空の隙間に映える青みがかりの空へと消えていく。

 「は~あ。なんか走ったらスッキリしたわ。ちゅうか、どこやねんココ。知らんとこまで来てしもたけど」

 「気なんか遣うなよ。いいから」

 この期に及んでぶっきら棒な言い方しかできない自分がもどかしい。しかし、酸素不足な脳内では不器用な言葉をひねりだすので精いっぱいだ。許してほしい。

 エミは相も変わらず大阪なまりで話しかけてくるのだけれど、この時にして初めて、彼女と会話していて訛り特有の生臭さが鼻につくことがなかった。

 いや、もともと違和感を覚える余地などなかったのかもしれない。なんせ彼女は常に本音をさらし続けているのだから。

 それからは青草のマットレスに寝転がりながら、たまに差し込む夕陽から目をそばめたり、爽やかに吹き抜ける土の匂いに鼻を曲げたりしながら、下らないと評するには橙色とうしょくに輝きすぎている話をしていた。

 そして話題は移り変わり、池尻先輩と交わした約束について、話さざるを得なくなっており、これ以上隠しきれない本心をつまびらかに口から放出したのだった。

 「ほんで、ウチにできることはあるんか?」

 「ないかな。あくまで俺の…」

 「一人でやるよりマシやろがい。あんた、この期に及んで、まだ意地張るつもりちゃうやろな~」

 「痛ででででで! ごめんって! 今のは無意識だから! 頭割れるって!」

 「その無意識を治せ言うとんねや! なんぼ言えばわかんねん!」

 「けっこうな無理難題を押し付けてんの分かってる⁉」

 「分かっとるわ! でも漫才するんやったら邪魔やろ!」

 風情や情景とは無関係を主張してくる胸の内が張り裂けそうになったのも束の間、堪えていたはずの秘めたる激情たちがあふれ出してくる。

 「お前みたいに漫才に全部を賭けてる訳じゃねえんだよ! 俺は一般人なんだ!」

 「あんたのどこが一般人やねん!」

 「どっからどう見ても普通の人間だろうが! 俺は普通に生きてきたし、これからもそうするつもりなんだよ!」

 「そんなもん無理に決まっとるやろ!」

 「なんでお前が無理とか決めるんだよ! そんなの俺の勝手だろ!」

 「あんだけ楽しそうに漫才する奴が普通とか語んなや!」

 この時、初めて自分でも気付いたのだ。自然と芽生えてしまった他人に笑われることに対しての忌避感きひかんが完全に消え失せていることに。舞台に立っている時の得も言われぬ、浮足立うきあしだつような高揚感こうようかんの正体に。

 なんとなく、そのたぐいの話題を避けてきた。もしかしたら触れられたくなかったのかもしれない。いや、自分の存在意義や確立性に深く関わることだから、それを安易に揺らがせたくないから、あえて触れさせないようにしていただけなのかもしれない。やっぱり俺は安易な人間なのだ。そう気付かせてくれた彼女には感謝をするべきだ。しかし、脳裏にそれが浮かび上がると同時に、ある一つの意識が心に根を張った。

 「やっぱ、お前のこと嫌いだわ」

 たぶん、この時、俺は笑っていた。

 「そんなん、お互いさまやろ」

 予想通りの返答に、俺はやっぱり笑っていた。土手を駆け抜ける風に急かされたような彼女の声が、青く実った穂につられて揺れていたのだから間違いない。

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