第四幕:明瞭錯綜カストラート③
ただ一つ訂正をするのであれば、そんな湿気にまみれた胸中を察してくれたであろう広瀬が、ともに帰り道を歩いてくれているということで若干の心強さを感じている。
しかし、先ほどまで
「ねね、エミちゃん。エミちゃんは徒歩通学なのかしら? 登校の時はバス使ってたわよね?」
「え、えーっと。まあそうなんですけど、今日は歩きたい気分だったんで」
「ふーん。それじゃあアオイくんと一緒に歩いて帰ったりしてるのはなんでなの?」
「………ネタ合わせしながら帰ったほうが効率がええからですね」
「うんうん、そっか。たしかに歩きながらでも本読みくらいはできるもんね。あっ! どれくらい仕上がってる? 今度の寄席は自信ありな感じかしら?」
「あんまり期待はせんといてほしいです…その。なんていうか、アオイと、ちょっと、えーっと………」
「たしかに最近アオイくんと上手くいってないもんねー」
「…っ。なんで知ってるんですか⁉」
思わぬ言葉に驚嘆の声が溢れ出る。
「見てたら分かるよー。明らかにおかしいじゃん? いや、キミたち二人がおかしいのはいつものことなんだけど、最近は落ち着きすぎてるし、落ち着いているからこそ変だとも思うよ」
「そん、なに分かりやすかったです…?」
「めちゃくちゃ分かりやすいよ? だっていつもなら隣同士なのに対面に座ったり、そもそもエミちゃんの口数が少なかったり、分かりやすく溜め息ついたり」
「もうええです! よく分かったんで!」
不意に痛点を突かれ、
しかし、夕刻ごろのファミレスには学校帰りの学生や疲れた顔のサラリーマン、家族連れの客が
「うふふ。まあ何かあったなら話ぐらいは聞くわよ。なんたって先輩だからね」
彼女の芝居じみた
「そういえばさ、エミちゃんと二人で話すのって初めてだよね。せっかくだからちゃんと自己紹介しとく?」
「え、急になんですか…? ちゅうか、そんな喋り方でしたっけ? さっきからちょいちょい言葉遣いが雑というか」
「あの喋り方疲れるんだよねー。ただのキャラ付けだから気にしないで」
そう言って彼女は近くにあるドリンクバーでメロンソーダとオレンジジュースを混ぜた爽やかに濁った飲み物を左手に持ち、針のように細い腰を赤色のソファの上に落ち着かせると、なにも気にしていない風に口を開いた。
「私は
「先輩て、なんちゅうか…」
「あー、エミちゃんの中の理想が崩れた? 芸風的にね、私はキングの奇行に戸惑う常識人をやらなきゃいけないからさ。これが意外と大変でねー。キングってああ見えて舞台以外だと常識人だから、私はもっと真面目に見えなきゃいけないんだよね」
「もしかして、あのメガネも」
「そうだよ。あれは伊達メガネ。今日は裸眼なんだー」
「ほなステージの時だけ掛けてるんですか?」
「もちろん。心の中にあるものだからね」
鋭い眼光が突き刺してくる。
何も含みなど持ち合わせていないはずだというのに、なにかの意味を持たせてくるような視線がただたまらなく恐ろしいと感じた。
「…? どういう意味でっか?」
「舞台にかける情熱なんて秘めてなきゃ意味ないじゃん?」
「そらそうですけど、メガネとなんの意味があるんです?」
「ほら、そこは。察してよ」
「それはちょっと情報不足なんで無理ですね」
「うん、そういうことだよ。エミちゃんがアオイくんにやってること」
なんの気なしに飲み込もうとしていたウーロン茶が、不意に飛び込んできた言葉に押し込められ
鋭い眼光に続いて、立ち込めた刺々しい空気が期間を刺激してきて、盛大に吹き出すわけにもいかずに無理やり押し込めた茶のほのかな苦味さえも、胃の中で暴れさせるほかに選択肢はないのだ。
「ど、どういうことですか…ちゅうか、なんでそこまで知ってるんですか?」
「詳しくは知らないけどなんとなく
「おおむねその通りです…」
「ひゅ~、やりー。それでどうしたい?」
パチンと鳴った指がゴキゲンな喧騒に呑まれていく。
「え、どうしたいっちゅうのは…?」
「不仲コンビでやってくか、ささっと仲直りしちゃうか。私としてはどっちも面白そうだからいいんだけど、オススメは前者かな」
「なんでですか…?」
「そっちの方が面白そうだから」
「今なんて?」
「面白そうだから」
今の気持ちをどう表せばよいものだろうか。
いや、表すまでもなく
そんな悪天に吹き
「…不仲コンビて、あんまりおもろないイメージなんですけど」
「そうかな?」
「そらそうやないですか。だって芸人て信頼しあってなんぼやのに、今のウチらは信頼の『し』の字すら無いですもん」
「そんな信頼関係の大事な芸人が不仲だとしたら…?」
「…それは意外とおもろいかもしれんですね」
「でっしょー! 不仲になるならとことんやらないと! 中途半端じゃつまらない。ええ、つまらないですとも! そうでしょう⁉」
彼女は細い身を卓上に乗り出して氷だけになったグラスを揺らす。
狭窄気味な窪んだ視野では、
「いや、ちょ、急にどないしたんですか?」
「っと、ごめんね。とにかく、仲直りするならさっさと、不仲になるなら永遠に、ね」
「そうですね…そんなら」
「まあ、あとは」
突如として放たれ始めた不吉なオーラは、宙に浮いた言葉を強制的に押し込めるような勢いで、無意識に続けようとしていた呼吸を意識的に肺の中へと
「あんまりアオイくんをイジメんなよ? キングの大事な人を傷つけたら許さない。キングが悲しむことを私は望まない。あの子を泣かせたらお前も泣かせる。思いつく限り最も残酷な方法で、最も悪質な手段でお前を泣かせる」
「さ、さっきと言うてることが」
「じゃ、帰るわ。お金置いとくね。ばいばーい」
見てはいけないものを見て、触れてはいけないものに触れてしまったような、
無意識のうちに自分で広げてきたキズを掘り返され、膿んだ患部が空気に触れたかと思えば、次の瞬間には熱烈たる悪意に傷口を
一人の人間が秘めている悪意の塊、いや、正気の行きつく先を目の当たりにしたのだ。それは痛みの出所に自覚のない心が悲鳴を上げるには十分な
店を出るとすっかり傾いた陽光が俯きがちな視線を責め立てるように、
どす黒く沸き立つ胸の奥を刺激したのは、紛れもなく鋭く伸びた自分の影だった。
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