第四幕:明瞭錯綜カストラート③

 陰気いんき溢れる性根には不釣り合いな夕暮れの赤光しゃっこうが、しなびた野草のように折れ曲がった背中を責め立てている。いや、野草の方が力強く根を張り地面に這いつくばってでも生きようとする意志がある分、しみったれた本能を携えた一人の人間よりはいくらかマシなのだろう。

 ただ一つ訂正をするのであれば、そんな湿気にまみれた胸中を察してくれたであろう広瀬が、ともに帰り道を歩いてくれているということで若干の心強さを感じている。

 しかし、先ほどまで清風せいふうが吹き抜ける土手を歩いていたというのに、穏やかながらも烈火れっかのように働く口車に担ぎ込まれて、いつの間にかファミリーレストランに強制連行されてしまっていたことだけが不可解な点であった。

 「ねね、エミちゃん。エミちゃんは徒歩通学なのかしら? 登校の時はバス使ってたわよね?」

 「え、えーっと。まあそうなんですけど、今日は歩きたい気分だったんで」

 「ふーん。それじゃあアオイくんと一緒に歩いて帰ったりしてるのはなんでなの?」

 「………ネタ合わせしながら帰ったほうが効率がええからですね」

 「うんうん、そっか。たしかに歩きながらでも本読みくらいはできるもんね。あっ! どれくらい仕上がってる? 今度の寄席は自信ありな感じかしら?」

 「あんまり期待はせんといてほしいです…その。なんていうか、アオイと、ちょっと、えーっと………」

 「たしかに最近アオイくんと上手くいってないもんねー」

 「…っ。なんで知ってるんですか⁉」

 思わぬ言葉に驚嘆の声が溢れ出る。

 「見てたら分かるよー。明らかにおかしいじゃん? いや、キミたち二人がおかしいのはいつものことなんだけど、最近は落ち着きすぎてるし、落ち着いているからこそ変だとも思うよ」

 「そん、なに分かりやすかったです…?」

 「めちゃくちゃ分かりやすいよ? だっていつもなら隣同士なのに対面に座ったり、そもそもエミちゃんの口数が少なかったり、分かりやすく溜め息ついたり」

 「もうええです! よく分かったんで!」

 不意に痛点を突かれ、咄嗟とっさに大きな声が出てしまった。いったいいつから態度に出ていたのだろうか。それも周りに気付かれるほど。気分の居所の分かりやすさと、公衆の面前で下品な声を出してしまったことに少しばかり恥じ入るところである。

 しかし、夕刻ごろのファミレスには学校帰りの学生や疲れた顔のサラリーマン、家族連れの客が悲喜ひきこもごもに入り乱れており、それぞれが各々のコミュニティの中での役割を気にすることに精一杯だ。ただの大阪弁が店内に響いただけでは、無関心を装った衆目しゅうもくはぴくりとも眉を動かすことは無かった。

 「うふふ。まあ何かあったなら話ぐらいは聞くわよ。なんたって先輩だからね」

 彼女の芝居じみた視野狭窄しやきょうさくを思わせるような言葉に、動揺して飛び出していった視線が着地場所を求めてひたすらに店内の壁画へと吸い寄せられていく。

 「そういえばさ、エミちゃんと二人で話すのって初めてだよね。せっかくだからちゃんと自己紹介しとく?」

 「え、急になんですか…? ちゅうか、そんな喋り方でしたっけ? さっきからちょいちょい言葉遣いが雑というか」

 「あの喋り方疲れるんだよねー。ただのキャラ付けだから気にしないで」

 そう言って彼女は近くにあるドリンクバーでメロンソーダとオレンジジュースを混ぜた爽やかに濁った飲み物を左手に持ち、針のように細い腰を赤色のソファの上に落ち着かせると、なにも気にしていない風に口を開いた。

 「私は広瀬夏海ひろせなつみ、十六歳。あと二か月で十七歳になるよ。ピンと来たかもしれないけど夏に生まれたから夏海なんだ。安直だよね。名前が気に入ってるかって言われたら、この性格的には合ってるんじゃないかな?」

 破竹はちくの勢いで喋り出した彼女は、趣味は意味のない資格勉強であることや、最近の池尻が浮かれすぎていることや、今年の夏休みは漫研全員でどこに行ったら楽しいのかなど、折々に喉を潤しながらも自身が満足するまで一方的に情報を放り出してきた。しかし、洋々と話し続ける彼女の姿が舞台上でのイメージとはかけ離れたものであったために、半分ほどの話しか脳が理解しようとしていなかった。

 「先輩て、なんちゅうか…」

 「あー、エミちゃんの中の理想が崩れた? 芸風的にね、私はキングの奇行に戸惑う常識人をやらなきゃいけないからさ。これが意外と大変でねー。キングってああ見えて舞台以外だと常識人だから、私はもっと真面目に見えなきゃいけないんだよね」

 「もしかして、あのメガネも」

 「そうだよ。あれは伊達メガネ。今日は裸眼なんだー」

 「ほなステージの時だけ掛けてるんですか?」

 「もちろん。心の中にあるものだからね」

 鋭い眼光が突き刺してくる。

 何も含みなど持ち合わせていないはずだというのに、なにかの意味を持たせてくるような視線がただたまらなく恐ろしいと感じた。

 「…? どういう意味でっか?」

 「舞台にかける情熱なんて秘めてなきゃ意味ないじゃん?」

 「そらそうですけど、メガネとなんの意味があるんです?」

 「ほら、そこは。察してよ」

 「それはちょっと情報不足なんで無理ですね」

 「うん、そういうことだよ。エミちゃんがアオイくんにやってること」

 なんの気なしに飲み込もうとしていたウーロン茶が、不意に飛び込んできた言葉に押し込められ気道きどうふさいでくる。塞がれかけた咽頭いんとうが抵抗の意思を見せてせかえってしまった。

 鋭い眼光に続いて、立ち込めた刺々しい空気が期間を刺激してきて、盛大に吹き出すわけにもいかずに無理やり押し込めた茶のほのかな苦味さえも、胃の中で暴れさせるほかに選択肢はないのだ。

 「ど、どういうことですか…ちゅうか、なんでそこまで知ってるんですか?」

 「詳しくは知らないけどなんとなく仲違なかたがい中で、エミちゃんがアオイくんのことを避けてるなー。でもアオイくんが話しかけてるってことは、エミちゃん側に会話の意思があんまりないのかなー。で、それならだいたいそんな状況かなって思っただけだよ。どう、当たった?」

 「おおむねその通りです…」

 「ひゅ~、やりー。それでどうしたい?」

 パチンと鳴った指がゴキゲンな喧騒に呑まれていく。

 「え、どうしたいっちゅうのは…?」

 「不仲コンビでやってくか、ささっと仲直りしちゃうか。私としてはどっちも面白そうだからいいんだけど、オススメは前者かな」

 「なんでですか…?」

 「そっちの方が面白そうだから」

 「今なんて?」

 「面白そうだから」

 今の気持ちをどう表せばよいものだろうか。

 いや、表すまでもなく暗澹あんたんたる黒雲こくうんが立ち込めている胸中には土砂降りの豪雨ごううが降りしきるばかりである。

 そんな悪天に吹きすさぶ木の葉を掴まえる術も、四分五裂しぶんごれつに木の幹を引き裂く雷を落ち着かせるための避雷針も持ち合わせておらず、匕首あいくちよりも小さくて脆い一身で引き受けるしかないのだ。

 「…不仲コンビて、あんまりおもろないイメージなんですけど」

 「そうかな?」

 「そらそうやないですか。だって芸人て信頼しあってなんぼやのに、今のウチらは信頼の『し』の字すら無いですもん」

 「そんな信頼関係の大事な芸人が不仲だとしたら…?」

 「…それは意外とおもろいかもしれんですね」

 「でっしょー! 不仲になるならとことんやらないと! 中途半端じゃつまらない。ええ、つまらないですとも! そうでしょう⁉」

 彼女は細い身を卓上に乗り出して氷だけになったグラスを揺らす。

 狭窄気味な窪んだ視野では、ちていく結露にさえも気付けずに、無気力なテーブルだけが只々ただただ濡れていくのみだった。

 「いや、ちょ、急にどないしたんですか?」

 「っと、ごめんね。とにかく、仲直りするならさっさと、不仲になるなら永遠に、ね」

 「そうですね…そんなら」

 「まあ、あとは」

 突如として放たれ始めた不吉なオーラは、宙に浮いた言葉を強制的に押し込めるような勢いで、無意識に続けようとしていた呼吸を意識的に肺の中へとじこんでくる。

 「あんまりアオイくんをイジメんなよ? キングの大事な人を傷つけたら許さない。キングが悲しむことを私は望まない。あの子を泣かせたらお前も泣かせる。思いつく限り最も残酷な方法で、最も悪質な手段でお前を泣かせる」

 「さ、さっきと言うてることが」

 「じゃ、帰るわ。お金置いとくね。ばいばーい」

 見てはいけないものを見て、触れてはいけないものに触れてしまったような、喀血かっけつを強いるのもさない咽喉いんこうの感覚がこみあげてくる。

 無意識のうちに自分で広げてきたキズを掘り返され、膿んだ患部が空気に触れたかと思えば、次の瞬間には熱烈たる悪意に傷口をあぶられたのだ。

 一人の人間が秘めている悪意の塊、いや、正気の行きつく先を目の当たりにしたのだ。それは痛みの出所に自覚のない心が悲鳴を上げるには十分な隔靴掻痒かっかそうようの感であり、あまりの異物感に喉を引きちぎりたくなった。

 店を出るとすっかり傾いた陽光が俯きがちな視線を責め立てるように、頂門ちょうもんに一針を突き刺してくる。

 どす黒く沸き立つ胸の奥を刺激したのは、紛れもなく鋭く伸びた自分の影だった。

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