幕間:乱痴気エンプレス②

 白昼の沸き立つような騒がしさは沈みかけた赤光とともに地平線へと吸収され、人々は忘れかけていた日常を思い出すかのように帰巣本能きそうほんのうを忙しなく働かせているのだが、浮いたままの鼻歌とは別に未だ残る理性が名残惜しさに後ろ髪を引かれて、気丈な足取りを急かしつつも鈍い足音を響かせていた。

 とある画家いわく、最も美しい絵画は夢の中にあるらしいけれども、なんの変哲へんてつもない帰り道に踏みしめる地面にこそ名画が隠れているような気がする。

 その名画は五感を使わないと感じ取れないため欠陥品けっかんひんと呼んでも差し支えないし、脳内だけの描写では筆足らずな部分が多いのだけれど、欠落したイメージを肌で感じ取り、爽快な音で揺らし、吹き抜ける暮れの香りを嗅ぎ取れば、ゴッホにも負けない向日葵ひまわりを咲き誇らせることができるのである。

 ただし、いつかの公園のベンチから見える世界でさえ、甘く咲いたライラックが花壇から手を振ってくるように見えるのだから、正当な比較など出来るはずもないのは言うまでもないことだろう。

 「…もうすぐ夏ですね」

 「夏って単語を言わないで。私アツいの苦手なんだよね」

 「…あぶらげ」

 「いやいや、その厚さは別に大丈夫だから」

 「今までいがみ合ってたライバルがラスボス戦で共闘するのはどうですか?」

 「それはむしろ大好物だから。ていうか、話の広げ方が無理やりすぎ」

 「すみません。楽しかったもので」

  少しばかりの照れくささを隠すように後頭部を掻きながら言う。

 「私のこと、ちょっとは分かったかな?」

 「いえ、それはさっぱりです。あの日の先輩とは全く違って見えてる気がするので、本質を見られた気はしません」

 「…? つまり、どゆこと?」

 「先輩のことが他の女子より素敵に見えてるってことです」

 「………好きってこと?」

 「それが自分自身でもよくわからないです。あの日以来、先輩との間に距離ができてしまった気がしているので」

 「やっぱり私のことをもっと知りたい?」

 「はい」

 短く答えた彼の瞳は直線的で、臆すことを知らないような無光むこうの輝きを含みながら、矮小わいしょう煩雑はんざつに絡まり合った胸中に侵入してきた。

 先日のステージから、なにか胸のつかえが取れたらしい彼はほんの僅かながら積極性が増しているのだけど、それよりも問題なのが彼のコミュニケーションは日陰者の自分には少々ばかり眩しすぎるのだ。

 ぐように演技染みたセリフが出てくることには眉をひそめざるを得ないのだが、彼の言葉に嘘が感じられなかったことが、今はなによりも嬉しかった。

 そんな真摯な精神性には正面から向き合わなければ、心をもてあそんだだけのカマキリになってしまう。それだけは彼に対してはしたくないのだ。

 「私ね…」

 幸か不幸か、生まれながらに天性の才を持っていた。何に特化しているという話ではなく、なんにでも特化しているという点において一傑いっけつたる存在であったのだ。出る大会では軒並のきなみ上位入賞、学業では全国模試上位で安定。当然、周囲の大人たちからは甘やかされ、もてはやされ、鼻が天狗より長くなるまで時間はあまり必要としなかった。

 そんな不釣り合いな鼻をへし折られたのは、高校に入り、お笑いというものに出会ってからのことであった。『人を笑わせる』。たったそれだけだというのに、そんな単純なことが漫研に入ってからとても難解なものであると知った。

 ただ同時に、それがとても楽しく、やりがいのあることであると感じた。昔から少しやればなんでも出来てしまう自分にとっては、初めての熱中できるものであったのだ。

 けれど、事件は起こった。高校一年生最後の部内対抗戦、『ゆっけいじり』が圧勝してしまったのだ。これはまずい。また今までと同じだ。才能と小手先の技術だけでどうにでもなってしまう。そんな事態は避けなければならない。

 だけれどスクリーンに映し出されたダブルスコア近く離れた票数と、真正面から受ける歓声や拍手が高揚感を煽り、後退先を頑強に塞いでしまった。

 お笑い芸人の養成所を進路先としていた先輩たちの、観客たちには悟られまいと取りつくろった壇上での笑顔が今でも忘れられない。

 この世界は結局のところ才能だけでなんとでもなってしまうような、単調で単純で簡素な環境しかないのかもしれない。この先、自分に挑戦してくるような人物は現れないのだろうか。私に負けた先輩は浪人して大学を目指しているらしい。なんだかつまらなくなってきてしまった。

 自分の才能が誰かのやる気を削いでしまうのなら、いっそのことやめてしまおうか。

 そう思っていたタイミングだった。

 「キミが、キミだけが初めて『負けない』って目を向けてくれたんだよ。それは私にとって凄く特別なことだったの」

 「………」

 「ご、ごめん。なんか自慢話みたいで」

 「え、自慢話じゃなかったんですか?」

 彼が呆気にとられたような表情を返してくる。

 「あ、うん、え? いや一種の謙遜けんそんのつもりだったんだけど」

 「逆にそれだけ凄いのに、なんでそんなに卑屈ひくつに考えてるんですか? 先輩は使える才能が人より多くて、それをちゃんと磨いて光らせたら他人よりも輝けた。それだけなんじゃないですか?」

 「………うん」

 なぜこれほどまでに欲しい言葉を、欲しい時に、欲しい間隔でくれるのだろうか。それもこれだけ真っ直ぐな視線を注いでくれる人なんて、両親以外にはいなかったというのに、これでは気持ちが溢れて止まらなくなってしまうではないか。

 「あの時、先輩が言ったことの意味はよく分かりました」

 「うん、それなら良かったよ」

 「そのうえで言わせてもらいます。―――」

 夕暮れがビルの谷間に沈みゆく中、彼の言葉は一線の風に流されながら、あるいはカラスの鳴き声にかき消されながらも、やはり直線的に耳介じかいを揺らしてくる。

 待ってるね。と、それだけ言って、私たちの関係にはようやく幕が上がった。

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