第三幕:過剰点睛エクステンド⑤

 薄暗い舞台袖には間接照明とパソコンの明かりだけが、小道具などでせばまった道筋を照らすように煌々と光り輝いている。その灯りに吸い寄せられるかのように誘導され、自らの足は自然と舞台袖の出入り口へと向かっていた。

 「待ちや。どこ行こうとしてんの。まだ半分残とるで」

 拒絶きょぜつを示した体が強引に引き寄せられて、舞台側への方向転換を強いられる。

 「…人前に出られない奴が居たって意味ないだろ」

 「弱気んなってどうすんねん。たった一回試しただけやろ?」

 「一回でもわかるんだよ。また嗤われたらって思うと、あの場から前を向くことはできないし、ましてやお前と漫才するなんて夢のまた夢だってことぐらい………」

 「お客さんの前から逃げてええ理由なんか、それ?」

 「…そうは思わないけど、やっぱり無理なもんは無理なんだよ」

 「アオイくん。やっぱりダメそうか?」

 落ち込み始めた声色をねじ伏せるような傲慢ごうまんな声と長髪が割って入ってきた。

 「部長…すみません」

 謝ったところでどうにかなる話ではないのだが、それでも、おごり高ぶった自尊心が謝罪を申し出ずにはいられず、視線に絡めとられた不自由な心臓は、はち切れそうになりながらも惨憺さんたんの音を奏でていた。

 「謝るな。異変に気付けなかった俺にも責任はある。エミくんがとっさにかばってくれたから助かっただけだ」

 「そ、そうですか…」

 「時にアオイくん。キミはどうして漫研に入ろうと思ったのかな?」

 「あ、いや、それは、その、なんと言いますか…個人的な事情というか」

 大城の突拍子とっぴょうしのない質問に心臓が突き上げられたかのようにねる。

 これは話しても良いものだろうか。「彼女の言葉の意味を知りたいから」というひどく個人的な理由で部活に入ったのであるし、そこに至るまでの説明も池尻との個人的なやり取りが絡んでくるため、彼女の確認も取らずにあけすけに話すには憚られるのだ。

 「もしかして、キングとなにかあったのか?」

 「ぐっ…ま、まあ、詳細は言いませんけど」

 「別に根掘り葉掘り聞こうなんて不躾ぶしつけなことはしないさ。ただ、これだけは覚えておいてくれ」

 大城がそう言って、インクがかすれて黒ずんだ手を両肩に置いてくる。

 「困ったら頼れ。ピンチを笑いに変えられないなら、俺は芸人なんて名乗れない」

 「…すみません………すみません」

 真っ直ぐに向けられた彼の熱意に、どんな言葉を返せばよかったのだろうか。

 考えても答えなど出るはずがないのだ。なんせ考えるよりも先にいつの間にかこれまでの人生で数えるほどしか稼働したことのない涙腺が唸りをあげて、今にも破裂しそうな咽頭いんとうが溜まり切った感情を押しとどめようとしていたのだから。

 「だから謝るなって。さっさと泣き止まないとアップで抜かれた時にバレるぞ」

 「はい………」

 情けない返事を聞いた大城は肩で風を切るように舞台袖へ移動し、珍妙な体操をしながら幕間が開けるのを今かと待ちわびている。

 「アオイ。まあ、なんや。ウチはいつでも話聞くからな」

 「ありがとう。でも大丈夫だよ。自分の問題だし」

 「ほ~ん。ならええねんけど、あんまり無理しすぎんようにな? アオイはなんでも溜め込むタイプやろ? 爆発してもたらどっか行ってまいそうや」

 「どっか行くわけ………とも言えないか」

 「あははッ! さっきもどっか行こうとしてたしな!」

 背負った後ろ暗さをそのまま吹き飛ばしてしまいそうな笑い声に背中を押されて、明暗入り混じる舞台袖へと移動する。

 気付けば激情的な落涙は止まり、いまだに跳ねまわる心臓だけがうるさいほどに幕開けを急かしていた。

 煌びやかな舞台の幕が再び上がり、溌剌としたMCの声が体育館中に響き渡ると、漫研部員たちの再登場を心待ちにしている観客たちが、場内に流れるバックミュージックのリズムに合わせて、熱のこもった手拍子をひたすらに打っている。

 幕間明けは後から合流した観客への配慮も含めて、再び各人の紹介から始まるため、漫研部員全員で一斉に入場しなければならない。

 隊列を組んでの再登場になるのだが、先の一件もかんがみた部長が「アオイ、俺の後ろ」と傲慢な声とともに指示をしてくれたため、彼の後ろに引っ付いている状態だ。これはこれで目立ってしまうかもしれないが、「二番目なら目立たないのではないか」という浅はかな考えが思考回路全体を擁護ようごしてくるので、自らの葛藤かっとうもあまり役には立たなかった。

 それにくわえて、烏滸おこがましくも自尊心なんていうものが生息している胸中では、さらなるプレッシャーと期待の眼差しが痛く突き刺さって、苦渋の過去を刺激してきていたため、頼りない手の震えは増すばかりで、部長の肩に手を置いてもそれが収まることはなかった。

 「よし、そろそろ行こうか」

 ワントーンほど上がった部長の声が、前へと踏み出すことを強要してくる。

 恐る恐る一歩ずつ踏み出していくのだが、足に五寸釘を打ち込まれたような錯覚が芽生えるほどに、脳内が前進を拒んで、すり足で歩行するのさえやっとのことだった。

 大城の姿が舞台袖から見えた瞬間に拍手と笑いが湧き起こるのだが、当然のことながら彼の真後ろについてまわる形の自分には関係のない話だ。


 そのはずだった。


 引きずるように舞台を削っていた足が、袖に設置してあったパイプ椅子に引っ掛かったのも束の間、自分の身体が急降下していくのがわかる。

 転んだのだ。それも、大城の下半身を鷲掴みにしながら。

 当然のようにずりおろされる黒色のズボン。それだけで済めば幾分かマシだったのだろうけれど、現実というのは得てして上手くはいかないもので、彼のパンツごと下ろしてしまい、神より与えられし賜物たまものを露出させていた。

 つまるところ、チ〇コ丸出し状態にしてしまったのだ。

 つい先日に聞いた話が頭の中に蘇ってくる。大城が中学生の時に舞台上でフル〇ンを晒した事件。彼は気丈に語っていたものの、数多の目が集まる壇上で恥ずかしい思いをするという体験は、全員が想像する以上に筆舌ひつぜつに尽くしがたいものなのだ。

 なんていうことをしてしまったのか。これでは彼にまた同じような精神的苦痛を与えてしまう。自分が身に染みて知っている『笑い者にされる』痛みを。

 静まり返った体育館の雰囲気が、予定された悲鳴へと変貌へんぼうを遂げようとしていた時。それは勇猛に響き渡った。

 「…せっかくだし走り回るか!」

 「ダメに決まってるっすよ! なにやってんすか!」

 いまだに下半身を露出したままの大城がボケ、トラブルを咄嗟とっさに察知した大河が首根っこを掴んで舞台袖へと引っ張っていった。

 客席の女子生徒たちから若干の悲鳴は上がっていたものの、そんな甲高かんだかい声よりも重厚な笑い声が体育館中を塗りつぶしていく。

 突然のハプニングほど対処しにくいものはない。本来であれば笑いものにされるのが決まりであるのだし、そうした方が安易な笑いは獲れる。しかし、彼らは一瞬に芽生えたわずかな笑いのタネに対して手抜きなどしなかった。

 笑われるのがイヤで仕方ない。これは人類の共通認識だろう。ただ、それを嫌って、憎んで、糧にし、笑わせる側に立てる者がいったいいくら居るだろう。

 一瞬のできごとだったというのに、執念にも近い「笑わせる」ことへのこだわりを全身で感じ、身震いが止まらない。

 この笑い声も拍手も決して自分に向けられたものではないというのは、言われずとも承知しているところだけど、それでも恥ずかしさを武器にして笑いへと変えた彼らと自分の過去を重ねずにはいられなかった。

 己がみじめに思えてくるどころか、壇上であれば短所も悪癖も醜悪しゅうあくさえも、長所に転換できるのだと思い知ってしまった。

 月並みな言葉だけれど、とてもカッコよく見えたし、自分の過去も丸ごと背負いこんで、澄明ちょうめいな笑いに変えてくれたような気がして、ひどく、ひどく安心したのだ。

 もう大丈夫だ。と、速足で舞台袖に掃けていく先輩たちが背中で語っている。

 そんな気がしただけかもしれないけれど、今はそれで十分だった。

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