第三幕:過剰点睛エクステンド③

 梅雨の時期に入るにはまだ早いというのに連日の雨が続き、おもに外で活動する運動部の鬱憤が溜まり始めるころだが、それは日陰者にはさほど関係のないことであって、いくら雨が降ったところで特段に情景とは関係のないものであった。

 「じゃあ今日はアオイくんの対策を考えよう。なにか意見のある人はいるかな?」

 大城の不遜な声が、使い古されたホワイトボードに反響して狭い部室を支配する。

 なにを隠そう、先日に発覚した大問題、『客席を見られない』ということについて全員で対策を考えている最中である。なぜ全員で考えているのかと言われれば、『その方が面白そうだから』と、大城が勝手に言い出したせいだ。

 こんな言い方では不満があるように取られてしまうので訂正をしておくと、この状況について特に文句を言いたいわけではないし、むしろ僥倖であるとさえ思っているのだ。

 「出入り口の扉とか見たらいいんじゃないっすか? 視線は客席に投げてる風に見えそうっすよ」

 「いいわね。あとはお客さんをいないものとして考える、とか」

 「ふむ…古典的な方法だが試す価値はありそうだな」

 そして慣例行事の如く、皆口々に解決策を出してくれるのは非常にありがたいことなのだけれど、根本的な問題として『舞台から客席の方を見られない』ので、『客を見るフリ』すらもできないのが現状の課題なのだ。

 「それができるならアオイくんもやってるんじゃないかな~?」

 呑気ながらも核心をついた言葉を池尻が発した。

 「それもそうか。であれば…どうすればいいんだ? 目隠しでもしてみるか」

 「それじゃ『見る』以前の問題じゃないっすか。やっぱ大城さんおもしろいっすね~」

 「じゃあ大河はなにかあるのかよ!」

 「ないっすけど? ていうか芸人なのに客席見られないとか、かなり面白いボケじゃないっすか?」

 「ちょっと、アオイくんはかなり真剣に悩んでるのよ? こういう時に先輩が力になってやらないでどうするのよ」

 眉間を狭めた広瀬が、鋭い視線で大河を睨めつける。

 「セナちゃん厳しいっすよ~! こう見えて僕もちゃんと考えてるっすよ?」

 「それは失礼」

 「セナちゃんこそどうなんすか? なにか提案とかあるんすか?」

 「…アオイくん。客席を見るのがダメなのよね?」

 「え、あ、はい。というか舞台上から前を向けないです」

 その言葉を聞いた瞬間に部室内が静まり返る。

 それほどまでに事態は思っていたよりも深刻なのだ。舞台上から前を向けないということは、わざわざ来てもらったお客さんを無視するということに他ならない。客商売としてそんなことはご法度はっとにするまでもなく、できて当然の気配りであり、なによりも来てくれた観客への感謝でもあるのだ。

 高座たかざにて後ろを向いてそばを食べる落語家がいるだろうか。美麗びれい極まる歌声を舞台裏に向けて放つ歌劇かげきがあるだろうか。コンサート会場でファンサをしないアイドルがいるだろうか。いや、これはいるかもしれない。

 ただ兎にも角にも、舞台人としての常識を意識しながらもできないという現実は、若干じゃっかん十五歳の精神には重くのしかかり過ぎているのだ。

 「というか、なんでダメなんすか? 理由を聞いてなかったっすね」

 「あ、えっと…それは…」

 今その話をするには少々、いや、かなりはばかられる。

 男性陣に話すだけならまだしも、女の子もいる中でこの話をするとなると、機能不全きのうふぜんになるほどの自尊心の損傷を受ける覚悟をしなければいけないのだけれど、当然ながらそんな準備をする精神的余裕は、わずかに紡ぐ吃音の狭間では不十分であると言わなければならない。

 「大河。他人の心に土足で踏み込むのは面白いことじゃないぞ」

 「…すんません。気を付けます」

 「アオイくん、申し訳ないね。彼に悪気はないんだ」

 「いえ、こちらこそすみません」

 「あっ! ほな正面向かない漫才作ってみますわ!」

 エミの闊達かったつな声が沈み始めた空気を押し上げて明るくしていく。

 「お~、いいじゃんいいじゃ~ん」

 根本的な解決にはなっていないのかもしれない。けれど、これはこれで一つ面白そうなネタができそうであるし、それであれば彼女の思い通りに動けるはず。現段階では妄想もいいところだが、不可能ではないはずだ。

 「でも月曜日の大喜利おおぎりライブはどうするんだ? 舞台から前を向けないならかなり厳しいんじゃないか?」

 大城の慎重な声が、明るくなり始めていた場に再び影を落とす。

 週明けにひかえた大喜利ライブは、生徒から寄せられたお題に対して大喜利をするというシンプルな場であるのだが、回答する際に必ず舞台の中央に移動して回答しなければならない。

当然、衆目しゅうもくはそこに集まるわけで、そんな場に立つことを想像するだけでも全身の筋肉がこわばり、身震いが止まらないのが、ままならない現実そのものであるのだ。

 「ん~、じゃあどうしよっか~。アオイくんはなにか思いついた?」

 「うぇ、い、いやそれは、なんとも…」

 池尻の垂れたまぶたに隠されたその眼球が脅迫きょうはくしてくるようでもあるのだが、内に宿したわずかな希望を切に訴えてくるようでもあって、思わず身がすくんでしまう。

 しかし、たしかに全員で話をしてくれているとは言っても、これは自分自身の問題であるので自分で考えた方が良いに決まっているのだ。けれども、あいにく自分の過去に対して一人で向き合う勇気を持ち合わせていない。なんとも情けない醜態だ。これでは彼女の真意をくみ取るどころか、一方的で恣意的しいてきな理由からコンビを組んだエミにまで迷惑をかけ続けてしまう。彼女の将来にまで自分の仄暗ほのぐらい影を落とすわけにはいかない。

 晦渋かいじゅう蔓延はびこる脳内を揺らすように、下校を告げるチャイムが響き渡る。

 「俺は残るけど、みんなはどうする?」

 「大城さんが残るなら僕も残るっす」

 「私は帰る~」

 呑気な語尾に同調するように、女子たちは全員帰るようであった。

 このチャンスを活かさないわけにはいかない。

 「お、俺も残ります」

 「了解。それじゃあ今日の部活終わり! お疲れ!」

 全員で話し合ったというのになんの解決策も見いだせないまま、大城の声を仕切りにライブ前最後の部活は、あっけなく終わりを告げてしまった。


 今週最後の部室内は活動終わりということもあってか、もしくは華が散っていってしまったからだろうか、閑散として雨音がよく響いていた。

 「さて、アオイくん。なぜ残った?」

 わずらわしいまでにたたきつける雨音を切り裂くように大城が言う。

 「それは…さっきの話をしようかと」

 「話しても大丈夫なのかな? キミにとって辛くないのならいいんだけど」

 「はい。その、なんていうか、女子がいると恥ずかしい話と言いますか。言葉にすると下らないと言いますか」

 「キミが悩んでいるんだから下らないわけがない。キミだけの悩みをぞんざいに扱ってはダメだ」

 大城部長はきっと誰に対してもこういった接し方をする人なのだろう。

 他人を尊重し、尊重しているからこそ個人の気持ちも大切にし、だからこそ誰よりも心の扱い方に厳しいのだ。

 ほんの少しだけ言葉が足りなかったり、全体から放たれる雰囲気が威圧的であったりと、印象で損をしていることは否めないのだけれど、その奥に潜むたしかな優しさが、不器用な態度と憎めない声質から暖かく伝わってくる。

 「大城さん、圧が強いっすよ」

 「おっと、すまない。それでどんな話なんだ?」

 「あれは小学校の卒業式でのことでした。…」


 あれは小学校の卒業式でのできごと。

 めでたいともわびしいともつかない平凡な日に少しばかり寝坊してしまったのだが、いつも通り朝ごはんに白米と味噌汁、それからベーコンエッグを急いで胃の中に流し込み、予め準備してあった中学の制服に慣れない手つきで袖を通すと、家から飛び出ていった。

 親しい友人は全員持ち上がりで同じ中学に進学することが分かっていたから特段に悲しい思いも無いし、そんなことよりも自分が中学生になるのだという底知れぬ肯定感が脳を支配して喜びが勝っていたようにも思えたのだ。

 登校の列に加わって何気ない会話をしながら学校へと向かい、いつも通りだけれどいつもよりも哀愁あいしゅうが漂う先生の話を聞いた。渡された花飾りを胸元に付けながら、卒業式本番が行われる体育館へと足を運ぶ。予行演習で何回も見た体育館には在校生代表として五年生がすでに参列し、保護者たちも勢ぞろいで圧巻されるほどの人口密度を誇っていた。

 当然のことながら自分の親もいたのだが、卒業生としての姿を見せるべきなのか、いつもの家庭での姿を見せるべきなのか分からず、照れながらに手を振るだけに留まらせ、前の生徒にならって自分の椅子まで足を運んだ。

 全員が着席したことを見計らったかのように、司会進行役の教頭が厳粛げんしゅくな声をスピーカー越しに放り出してくる。静寂の中で響くそれが、たしかな区切りを感じさせたことを今でも覚えている。

 これは大変申し訳の無いことなのだが、校長が話してくれた式辞しきじの内容はほとんど覚えていない。小学六年生には難しいものだったのかもしれない。いま聞けば理解できるものなのかもしれないけれど、それでもあの不可解な緊張感の中にもう一度放り込まれるのはご免である。

 卒業生と在校生の声が入り混じった校歌斉唱を終え、卒業証書の授与に移ったのだけれど、これがなんとも言えないほどに退屈なのだ。全員に証書を渡す校長先生は大変なのかもしれないが、そんな忙しなさとは全く無縁である生徒にとっては、自分の番が来るまでの退屈しのぎに必死であった。

 しかし、証書受け取りの順番待機列の中で、気が緩み始めた自分の身へと襲ってきた異変にようやく気付いた。腹が痛い。もとより緊張などするタイプではないし、この痛みが緊張から胃が絞められているものではないことはわかったのだが、今日に限ってなんという不運だろうか。おそらくベーコンエッグの卵が当たったのだろう。しかし、もうすぐ自分の卒業証書授与の番が来るというのに列から外れるわけにはいかないし、なにより自分の勝手な行動で式の進行に僅かなりとも支障をきたすことがイヤで仕方なかった。

 出口まで迫ってきたガスの集団を気合で腹の中へと引き戻すと、むりやりに押し込められたそれらが腸の中で暴れまわって圧政からの解放を迫ってくる。

 ついにやって来た証書授与の番。左手、右手と順番に手を差し出し、一歩下がり礼をした。その時だった。解放軍が一斉に外界へと進軍していってしまった。

 体育館中に響き渡る放屁の爆撃音が、室内に流れていたベートーヴェンの第八番の厳かながらも流麗なメロディに乗って流れていく。

 自分でもなにが起きたのかと一瞬での理解は難しかったが、無意識ながらも次第に赤くなっていく自分の顔と、他の生徒たちの盛大な笑い声に事象の嚥下えんげ余儀よぎなくされた。

 卒業というめでたい日に『大勢の人から笑われる』というのは、十二歳の少年の心に深手を負わせるには十分だった。それから卒業式でなにが行われたのかも覚えていない。とにかく早く帰りたかったし、今後同級生たちと顔を合わせるのも億劫だと思ってしまった。莫大ばくだいな衝撃を受けたまま呆然ぼうぜんとした時だけが無情に過ぎていった。壇上から見た嘲笑あざわらう人たちの醜悪しゅうあくな顔が、数年ったいまでも脳裏に焼き付いて離れない。

 これがきっかけでもとから暗かった性格に、より拍車はくしゃがかかったのかもしれない。少なくともあの時まで壇上は怖くなかったのだから。


 「ということがありまして…」

 意を決して、いや元よりケジメをつけるべき意思もなにもあったものではないのだけれど、女子がいなくなったこの場で話さずにはいられなかった。

 話せば少しは息苦しさから解放されると思ったから。

 だが反応はかんばしくないらしい。いっそのこと笑いに変えてくれた方が清々しくて気持ちが良い。そう期待して話していたというのに、話しているうちに声のトーンが落ちていき、それにともなって頭も垂れてしまい、今や顔を上げるのさえ億劫(おっくう)である。自ら笑いにくい状況を作り出してしまっては、元も子もないというのに。

 この重苦しい空気の中で彼らの顔を見るのが怖い。もし、あの時と同様に嘲笑われたらどうしようか。どうしようもないくらいに打ちひしがれるのが目に見えてしまう。

 先輩たちが唸り声をあげているのが聞こえる。雨の中でも響くそれは、今の話に対しての肯定なのか否定なのか、それともどちらでもないのか定かではないのだ。

 恐る恐る顔を上げると、そこには口元を抑えて必死に笑いを抑えている二人の姿があった。

 「…くっ。す、すまない…わらっ笑うつもりはないんだ…」

 「ぼ、僕もっす…けど…エピソードトークとして完璧すぎて…ツボ、ツ、ツボに入ったっす」

 「いや、あの…なにか面白いとこありました?」

 そう言うと二人は顔を見合わせ、彼らの意見を代表するように大城が口を開いた。

 「アオイくんは、その面白さに気付いていないのかな?」

 「面白いっていうか、個人的にはすごい嫌な記憶ですし、現に『またわらわれるんじゃないか』と思って、舞台から客席を見るのが怖いんですよ」

 僅かな憤りと困惑が鼻息を荒くさせる。

 「キミは一つ大きなミスをしている」

 大根芝居にもほどがあるだろうが、彼のわざとらしさを強調するような声質が、雨の音を吸収してやまない室内を覆いつくす。

 「そりゃ言われるまでもないですけど…」

 「違うとも。卒業式はだいたい何人いた?」

 「えーっと三〇〇人くらいだと思いますけど…なにか関係があるんですか?」

 「二倍だ。先月のライブに来た人数はおよそ六○○人。全員がキミのツッコミで笑っていた。笑われていたんじゃない。キミが笑わせた人数だ。笑われた倍の人数を笑わせたことを見逃してはいけない」

 「…どこかで聞いたことあるセリフですね」

 こう言ってみたものの、こうでも言って本心を隠さなければみっともないまでに声をあげてしまいそうだった。

 「大城さん、この前やっと浅草キッズ見たって言ってたっすよ。言ってみたかったんじゃないっすか?」

 「大河。余計なこと言わないでくれ。カッコいいところだったんだから」

 腕を組んだままでしょぼくれた顔を貼り付けたのでは、不恰好ぶかっこうという評価を下すほかにないのだけれど、今はどうしても憧れの視線が混ざってしまう。

 あの時にこんな人がそばにいてくれたら、もう少しマシな人間にれていたのかもしれない。もう少し人に気を遣わずに生きられたのかもしれない。もう少し人目を憚らずに言動を放てる人間になれていたのかもしれない。ただ生きたいだけなのに、息をしているだけで生き苦しい世界に居なくても良かったのかもしれない。

 「先輩。ありがとうございます」

 「礼には及ばない。キミの勇気に応えただけだ」

 不器用だからこそ遠回りな言葉は除外され、直線的で選び抜かれた彼の本音だけがきしんだ心を包み込んでくる。

 「それじゃあ、俺も一つ恥ずかしい話をしようか」

 「え、なんでですか?」

 「キミだけ恥ずかしい目にあうのはフェアじゃないだろ?」

 「先輩って真面目すぎるって言われません…?」

 「まあまあ、俺が中学の始業式でチ〇コを丸出しにされた話でも聞いていきなよ」

 「大城さーん、先にオチ言ったらダメじゃないっすか~」

 タイトルだけで興味をそそられるものはあるのだが、オチが分かってしまっているエピソードトークを聞くのは辛いものがあるのは確かだ。

 しかし、自分が受けた羞恥とは比べ物にならないほどに、彼もまた人前で恥ずかしい思いをした人物なのだとわかると、少しだけ緩む気があるのもたしかだった。

 彼が語るに部活動の優秀な成績を始業式にて表彰され、その去り際で後ろの部員がつまづいてズボンはおろかパンツごと下ろされてしまったらしい。

 「あれは我ながら恥ずかしかった。中坊だし好きな女子もいたし、なによりも当時の俺はそれを笑いに変えられなかったからな」

 「今だったらどうなんですか?」

 「使えるものはなんでも使うさ。チン〇でもなんでも」

 目の前にいる器の寛大な男のカッコよさをどう表してよいモノだろうか。きっと人を笑わせることを目的とするのであれば、そんな焦がれは内に秘めなければいけないのだろうけれども、目の前で腕を組んで微笑む彼に憧憬しょうけいを見ることくらいは許しても良いはずだ。きっとこの感情は口に出せば途端にちんけな表現になってしまうに違いない。だから、いま感じたこの気持ちはまだ胸に秘めておくに値するものなのだ。

 「月曜日、頑張れそうです」

 「ダメそうなら全力でカバーするから言ってくれよ」

 「そっすねー。そのための先輩っすよ、アオイくん!」

 いまだ降りやまない雨の音をかき消すほどに彼らの声は勇ましく響いた。

 しかし、見回りに来た宿直の先生に下校を急かされてしまい、カッコよさが半減してしまったのが少し残念な点であった。

 男三人、徒歩で帰る道はいつもよりも少しだけ賑やかであったのだが、途中で二人と別れることになると、降りしきる雨に乗せて一抹いちまつの不安が足元から浸透してきて、微かに芽生えた希望たちは抗えぬ自然の摂理に呑み込まれていった。




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