10 解く
初めは借りてきた猫状態だった正斗だが、そのうちに落ち着きを取り戻し、未来とふたりでリビングのソファに座って日付が変わる直前まで話し込んでいた。
大鶴はといえば、軽食と飲み物を提供したり、彼らに見られてはいけない仕事の資料などを片付けたりしつつ、なるべく空気を読んでふたりの空間を壊さないよう努力した。
最終的に、キッチンで未来が平らげた冷凍オムライスの片付けをしているところへ、正斗が「腹が決まったみたいです」と呼びに来た。
未来は正斗の話を聞いて、自分で考えた末に、しかるべき機関への通報を受け入れた。そして、隣県に住む母方の祖父母への連絡を頼んできた。両親とは絶縁して長いそうだが、未来のことは気に掛けていて、最後に会ったときに連絡先を書いたメモをこっそり渡してくれていたそうだ。
下手に頼って両親が祖父母に何かしたらどうしようと迷っていたようだが、大鶴が著名な探偵で、後ろ盾になってもいいと伝えたことが決め手になったらしい。大鶴は彼に渡されたメモの番号に電話を掛け、経緯を説明してから未来に通話を替わった。祖父母は今すぐ車を飛ばしてここへ未来を迎えに来てくれるという。
祖父母に保護されリラックスできる屋根の下で休むほうが、一時保護所よりは圧倒的に未来のためだ。ひとまず安心、といったところか。
しきりに頭皮を掻いていた未来に風呂を勧めると、「ありがとうございます」と礼儀正しく頭を下げて、シャワールームへ入っていった。
「この短時間ですっかり自我のある顔になりましたねえ、未来くんは」
正斗ひとりが残されたソファの背に手をつき、大鶴は聞くともなしにシャワーの水音を聞く。未来は痣だらけで痩せこけていたが、つつがなく流れていく水音を聞くに、転んだり立ちくらんだりはしていないようだ。
「根気よく対話した奥田くんのおかげです」
率直に褒めると、予想通り正斗は小さい口をむっとつぐんだ。手持ち無沙汰に冷め切った紅茶を一口飲む。
「……俺は話し相手になっただけです。場所も食べ物も風呂も、祖父母に頼る後押しも、あいつに必要だった全部を用意したのは探偵さんでしょ?」
「それくらい大した手間ではありません。自分のつらい経験を彼のために切り売りしたきみに比べれば」
未来の判断の参考になればと、自分の父親との記憶まで引き合いに出すなんて、優しさでなくては何だというのか。
(感受性と共感能力が高すぎて、すり減る……本当にその通りだ)
面白い、好ましいの次に心配という感情までも、正斗は大鶴に植え付けた。
「きみが十五歳のとき何者かに殺されるまで、奥田乃愛氏は息子のきみを将来の部下と定め、虐待まがいの英才教育を施していた――周囲の大人の助けに縋るチャンスは何度かあったが、幼いきみは自分の誤った判断によって全てふいにした。未来くんの心には何より響く実例だったでしょう」
以前、正斗が長沼のスマホをスってきたとき、大鶴は彼が家人からモノをかすめ取らねばいけないような境遇で育ってきたのだと推測を立てた。あれもその英才教育の中で磨かざるを得なかった腕だったのだろう。
聞き耳を立てているあいだ大鶴は、対象の死を願うほどの怒りの味が、初めて分かったような気がした。現実には、奥田乃愛はどのみち故人なのだが。
正斗がじとりと恨めしげな、呆れたような目で大鶴を振り返る。
「俺とあいつの話、聞いてたんですね。まぁどうせ聞いてると思ってましたけどね」
「嫌わないでください」
思いのほか真剣な声が出て、大鶴自身でさえ意外に思った。
正斗もわずかに目を瞠っている。
大鶴は珍しく数秒言葉を選んでから、
「あー……その、『当人のために当人の意志を曲げて即通報しそうだから頼らなかった』と言われたのは、少し堪えました。ドストレートに傲慢とか無神経とか言われるのとはまた違うしんどさがありました。その上きみの新規情報ほしさに聞き耳を立てていたのに気づかれて、最低とか嫌いとか言われたら泣きっ面に蜂だなと考えています。なので、そういった感想は言わないでもらえますか」
「はぁ!? そっちが自制しときゃ済む話でしょ!?」
「おっしゃる通りなんですけども、でも、きみのことは何でも知りたいんです」
あまりに堂々とワガママを言われ、正斗が呆れて物も言えないとかぶりを振る。
「自分は苦手なものすら言わないくせに、人のことは嗅ぎ回るんですか。自己中。秘密主義。かっこつけ。ダブスタ、良くないですね」
「……う、うう……」
他人に懇願したのにその願いがひとつたりとも叶えられず、こんなにズバズバ言われることなんてない大鶴は、精神的ダメージの大きさにたじろぐ。
正斗ははぁ、と溜め息をつき、
「……まさかやんないとは思いますけど、酷い目に遭って血がダメになったんだから、刺し殺されたウチの父親の事件なんか調べようとしないでくださいよ」
うんざりした素振りで言いながら、正斗は明らかに大鶴の血へのトラウマを慮っている。空き家で血痕を発見し、大鶴が目眩に襲われたときも、彼は真っ先に大鶴と血痕の間に立ち塞がってくれた。
「探偵さんのことだから、ウチの父親が……運良く捕まってないだけの怪しい商売で稼ぎまくってたってことは、とっくに把握してたんでしょう? そいつにみっちり教育漬けにされて育った俺は、言ってみれば犯罪者予備軍みたいなもんなんです。この町に住んでる人なら誰でも知ってることですよ。そんなヤツが、探偵の助手になんかなっていいわけがない。……だからもう、ほっといてください、俺のこと」
(……犯罪者予備軍……)
正斗が自分の能力を人前で発揮するのを躊躇する理由がこの言葉ではっきりした。
自分という存在をそんな風に捉えていて、周囲からも長年不穏分子として腫れ物扱いされてきたのなら、探偵助手になってほしいと頼んでも色よい返事が返ってこないわけだ。
だが、そんな呼称は全く間違いだ。
大鶴は真理を知っている者の余裕で微笑んだ。
「とうてい合理的な理由ではないですね。詐欺師なんてとんでもない、思慮深く、他人の心情と利益を優先するきみの献身的な姿勢は公僕向きですらある。しかし、あいにくと自己顕示欲と詮索癖がないからギリギリ探偵には向いていない。きみを助手にと望む僕にはすべて大変好都合です。
親に問題があったからといって何だというんですか? その子どもが素晴らしいということを、それを理由に論理的に否定できますか? 論理的に証明不能なことは、事実にはなり得ません。きみはもちろん、未来くんも親の善悪とは無関係です」
「……」
正斗は息を呑み、そして泣き出しそうに顔を歪めて、それから誤魔化すように視線を下げた。
「ですから奥田くん、きみは気兼ねなく僕の助手になってください」
腰をかがめるようにしてすでに何度も伝えた言葉を強く繰り返すと、眼鏡に隠されていない正斗の伏せた睫が震えるのが見えた。
「僕はきみがとても好きなんです」
唐突に正斗がばっと顔を上げた。
おや、と大鶴は面食らう。
なぜか正斗は頬を朱に染めて、大鶴をぎっと睨んできた。
「だからっ、そういうのが……!」
「そういうの?」
「そう! い、いちいち何か、……っ」
正斗は言葉に詰まり、はくはくと唇を数度空振りさせてからドスのきいた声で、
「……あのですねぇ、いい加減俺だって怪しむしかなくなってくるんですよ、あんたの言葉選び! この際ここで爆弾処理してやろうか……」
「爆弾処理?」
正斗はシャワールームのほうを一瞥し、まだ未来が出て来る気配がないことを確認してから、一度大きく深呼吸してから意を決して言った。
「……見当違いだったら聞かなかったことにしてほしいんですけど! もし、もしあんたが同性愛者とかそういうのなら、俺のことは諦めてください。すみませんけど荷が重いんで!」
(………………おぉ、本当に困ってる人の先制パンチだ)
美しい笑みのまま、大鶴は胸の中心にぐっさりと鋭利なガラス片でも刺さったような痛みを感じて固まった。
現実逃避的な感想をかろうじて抱いたあと、思い通りにならない不満でもなく、この自分が先手を打って釘を刺された悔しさでもなく、見抜かれた焦りや打開策を探す必死さでもなく、ただただ悲しくなった。
「……、……」
余裕ぶろうとしてわずかに口を開いても何にも言葉が出てこない。口から先に生まれた疑惑すらある男が。
小堀と増岡に恋愛的にも正斗のことが好きなのかと訊ねられ、「その可能性があったか、考慮しなくては」と建設的な思考をしていたつもりだった自分が、いかに能天気に浮かれていたのかを頭を殴りつけられるような勢いで痛感した。
考えなくても当たり前のことで、小堀と増岡が怪しんでいることを賢い正斗が全く気づいていないわけがなかった。
そして大鶴は、恋愛においても一度として振られたことのない、常勝の男だった。だから、とにかく何もかもが好きな相手がこの世に存在しているという、このうえなくご機嫌な人生をこれから隅々まで愉しんでいく気満々でいた。
勝負にもならず問答無用で叩きのめされる可能性なんて、想像すらしていなかったのだ。
振られたことがこんなにも悲しいからこの「好き」は真実だなどと、馬鹿げた証明がたった今なされてしまった。
「…………な、なんか言ってください……」
どうして俺が間を持たせなきゃいけないんですか、と濁った沼のように淀んだ空気の中で正斗が目を泳がせる。
大鶴はゆっくりと自分の胸の辺りを掴んだ。心筋がぴんと外側へ張って一斉に動きを止めてしまったように感じる。これこそショック、ということだ。
大鶴は首を傾げて、とてつもなく整った造作の全てで思うさま悲しい顔をした。そうやって外の世界へ発散しないと感情の動きを抱え切れそうになかった。
真っ向からそれを見た正斗がぎょっとする。あわあわと紅茶のカップをソーサーに戻して、
「あっ、そ、そうやって露骨な! 罪悪感を煽って何とかしようなんて、大の大人のやることですか!? 卑怯ですよ!」
「――」
卑怯と言われても、今の大鶴にそんな計算を巡らせる力なんかない。ただ純粋に呆然として、言葉の接ぎ穂を失ってしまっているだけだ。
黙りこくる大鶴なんて初めて見るものを前にして、沈黙が続くほどに正斗のほうが動転していった。
「う、くそ、ちょっとは取り繕うとかしろよっ……マジで振られたヤツの反応じゃないですかそれ、俺……俺べつに悪くないですからね? あんたはそりゃ、振られたことなんかないのかもだけど、一般的に言えば需要と供給の不一致なんて人生の通過儀礼ってほどありふれてるでしょ? ………………何で俺がこんな……嘘でしょ……本気で、本気で俺のことアレだったんですか? ……あ、ありえねぇ……」
「……あり得てますよ全然」
大鶴はまだ呆然としたまま呟くようにかろうじて声を出した。
「……僕も今、ここまでだったかと我ながら驚いているところです。……とても……とてもショック、ですね。悲しくて孤独で希望がないという気持ちでいっぱいで頭が真っ白です。僕がこんな調子なのに明日も朝は来るんですか」
「……う、宇宙人の語りですか……?」
言葉がぎこちなさ過ぎる、と正斗が困惑をあらわにする。
宇宙人というより壊れかけたロボットのような動きで、きりきりする胸を押さえたまま大鶴は首を傾げた。全身が疑問符に支配されたのではないかというほどどうしたらいいか分からなかったからだ。
ふたたび落ちた気まずい沈黙を泳ぎ切れなかったのは、激しく狼狽している正斗のほうだった。
何度も言おうか言うまいか迷った果てに、弱り切った目が大鶴を見上げる。
「――そんなに、すきなんですか。俺が」
「好きです」
大鶴は躊躇なく即答した。
正斗はそれにちょっと呆気にとられて、しかしすぐに深く深く溜め息をついた。灰の中の空気を全部吐き出すかと思うくらい長く。
「……もーいいです、分かりました」
意味が取れずにぱち、と大鶴は目を瞬く。
正斗は苛立った振りをするように、険しい顔で勢いよくソファの背にばふんと体重を預けて言い放つ。見えた頬と耳が赤かった。
「一回ちゃんと考えます」
「えっ」
「ていうか何につけても俺のほうが自分の人生まるっと別物にされる選択を迫られてる側なんだから、『断る』がデフォなのは当たり前ですよね? 一回だけ、一回だけちゃんと考えはしますけど、期待してもらっちゃ困りますからね?」
「は、はいっ! はい!」
やっとのことでフリーズから復帰して正斗の言葉を咀嚼できてきた大鶴は、不毛の荒野に一筋見えた希望に全力で飛びついた。
期待するなというのは聞けそうにないが、正斗の寛大な措置のおかげで、濁った沼の空気で風呂場から戻った未来を迎えることにはならずに済んだ。
タブレットで未来が好きそうなアニメを流すこと約三時間、彼の祖父母が大鶴のマンションに到着した。未来は祖父母とともに大鶴と正斗に改めて頭を下げ、控えめな笑顔で「おじいちゃんたちの家に着いたら電話します」と正斗に約束して、彼のいるべきところへ出発していった。
答えを分かっていつつも、いちおう大鶴は正斗に声をかけた。
「あの、奥田くん、もう三時を過ぎてしまいましたし、よければ今夜は泊まっていきますか……?」
「んなわけないでしょ!」
さすがにやっぱりダメだった。
おとなしく、大鶴は自分の車で彼を自宅へ送り届けた。正斗は「一回だけちゃんと考える」と言ってくれた。首の皮一枚つながった状態でかろうじて掴んだ一度きりのチャンス、さっそく減点を食らうのは絶対に絶対に絶対に、嫌だ。柄にもない殊勝さで、大鶴は紳士を心がけていた。
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