ひとつ、ひとつ
第18話 あなたの手のひらに
父との別れから、少しの時間が経った。
けれど、心の中には、ぽっかりと穴が空いたままだった。
声は、また少し出にくくなっていた。
言葉にしようとすると、喉の奥がぎゅっと詰まる。振り出しに戻ったわけじゃない。
でも、もう一度、扉が静かに閉じたような感覚。
葬儀が終わった後、姉は言った。
「学費のことは心配しなくていい。家も引き払って、一緒に暮らそう」
やさしい言葉だった。涙が出るほどに、ありがたくてあたたかかった。
でも、すぐにはうなずけなかった。
「…少しだけ、考える時間が欲しい」
そう伝えると、姉はそれ以上は何も言わずに、わたしを受け入れてくれた。
その日から、しばらくのあいだ、姉の家で過ごすことになった。
わたしの部屋には、姉夫婦が用意してくれた小さな布団と机があった。
何をするでもなく、ただぼんやりと日々が流れていった。
ある晩、眠れない夜に、ふと姉の布団にもぐりこんだ。
まるで子どものころのように。
お母さんの香りがした。
懐かしい、あたたかい、安心する匂い。
胸がいっぱいになった。
横を見れば、お義兄さんが隣のベッドで寝息を立てていた。
川の字になって眠っていた、あの頃の風景がよみがえる。
その瞬間、涙が止まらなくなった。
声を殺して泣いていたら、姉が毛布の中でわたしを抱きしめてくれた。
「大丈夫。私がちゃんと、みちを守るから」
その腕が、少し震えていた。
姉も、泣いていた。
――お母さん、お父さんを失ったのは、わたしだけじゃない。
姉だって、同じだったんだ。
その時、父が遺した言葉がふっと蘇った。
「どんなことがあっても、“それでも”と言い続けろ」
「決して自分を見失うな。そうすれば、自ずと道は開ける」
わたしだけが泣いていいわけじゃない。
でも、泣いてもいいんだ。そうして、また前を向けばいい。
それでも、って言いながら。
朝になって、わたしは姉に伝えた。
「やっぱり…あの家に戻ろうと思う」
父と過ごした、あの家。
すべてが残っていて、すべてが思い出になっていく場所。
「怖くない?」
姉が聞いた。
わたしは、少しだけうなずいて、笑った。
「大丈夫。ちゃんと向き合いたい。あの場所で、わたし自身と……お父さんと」
翌日、わたしは家に足を運んだ。
鍵を差し込む指が震えていた。
扉を開けると、ふわっと空気が動いて、懐かしい匂いが頬をかすめた。
ソファには、父の読んでいた雑誌がそのまま置かれていた。
冷蔵庫には父とわたしの家事の当番表がまだ貼ってあった。
どこを見ても、過去が息づいていて、胸の奥がじんとした。
ゆっくりと部屋を歩きながら、
わたしは父と過ごした時間をひとつずつ思い出していった。
あの日の夕飯の笑い声、
ソファで並んで見たテレビ番組、
そして、最後に交わしたあたたかな手のひらの記憶。
ひとつ、ひとつ。
大切に、包み込むように思い出していく。
――この家で、もう一度、始めよう。
そんな気持ちが、そっと胸に灯った。
それから、わたしは一人暮らしを始めた。
最初は少し心細かったけど、バイトを始めて、少しずつ生活のリズムを取り戻していった。
誰かの役に立てることが嬉しくて、声はまだ完璧じゃなかったけど、それでも「いらっしゃいませ」と笑顔で言えた日は、自分を少しだけ誇らしく思えた。
ふとした瞬間に、父や母のことを思い出して胸が痛むこともあったけど、それでも――
“それでも”、少しずつ、わたしは歩いていた。
そんなある日、郵便受け大学からの書類が届いていた。それを手にした時、父と将来の夢を話したことを思い出した。
(また、行ってみようかな)
そのとき、わたしの中で何かがゆっくりと動き出した。
わたしは、復学を決めた。
過去を抱えてでも、未来に向かって歩いていきたかった。
ひとつ、ひとつ。
父が残してくれた言葉を胸に、わたしはまた歩き出す。
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