第17話 別れ〜父の遺したことば

 父に「ありがとう」と声を出せたあの日から、私はまた、カウンセリングに通い始めた。


上手く声は出なかった。喉が思うように動かず、言葉が途切れたり、掠れたりする日が続いた。

けれど、それでも少しずつ、父や姉家族と笑い合いながら会話をする時間が増えていった。

わたしの中で止まっていた時計の針が、ゆっくりと、でも確かに動き始めていた。


父との距離も、少しずつだけど近づいていった。


夕飯の時間には、たわいもない会話が交わされるようになった。思春期真っ只中のわたしにとっては、少しうざったいくらいだったけれど、それでも、話しながら笑う父の表情が、心にじんわり染みていくのを感じていた。


「今日の肉じゃが、ちょっとしょっぱいな」

なんて、父がわざとらしく言っては笑うと、

わたしも「自分で作ってみてよ」と返す。

そんなささやかな日常が、何よりも愛おしかった。


ある夜、ふいに父に話した。


「お父さんみたいに、誰かの支えになる仕事がしたいんだ」


一瞬驚いたように目を見開いた父は、すぐにふっと優しい顔になって、黙ってうなずいた。その時の笑顔は、今でも目に焼き付いている。まるで、長く待っていた何かが報われたかのような、そんな表情だった。


それから、大学受験に向けての勉強が始まった。未来に、少しだけど確かな光が差し込んできた。


それからまもなくの秋、父が出張先で倒れたという連絡が入った。


「ただの疲れだよ」と、姉や義兄はそう言っていた。病院に駆けつけた時の父も、点滴を受けながら「ちょっと無理しすぎたかな」と笑っていて、わたしはどこかで安心していた。


受験直前だったわたしに、真実を伝えないことは家族の中で決まっていたのだと思う。

そのとき父は、余命半年と宣告されていた。

けれどわたしがそれを知ったのは、合格発表のあと。進学先が決まり、ようやく少し笑えるようになった頃だった。


春先、体調が落ち着いた父は一時退院し、家に戻ってきていた。久しぶりに、家族そろって過ごす時間。父と並んで夕飯を食べるだけで、胸の奥がじんわり温かくなった。


大学の講義でのノートテイカーのボランティアの人が決まった話をすると「そうか、それは良かった。勉強も頑張れそうだな」と嬉しそうに笑った父。

その横顔にわたしは、「もっと一緒にいたい」と願わずにはいられなかった。


けれどその願いは、ゴールデンウィーク明けに静かに崩れていく。

再び容体が悪化し、父は入院先の病室で眠る時間が長くなっていった。

それでも、わたしの顔を見ると、父は必ず手を握ってくれた。弱々しくも、確かにわたしの手を握るその手の温かさに、涙があふれそうになるのを堪えた。


 そして・・・最期のとき


父は、震える指で、わたしの手のひらにそっと文字をなぞった。

ひと文字、ひと文字、ゆっくりと――心を込めるように。


 みち…辛い思いいっぱいしてきたな

 力になってやれずすまない

 この後、傍にいてやれないのが

 本当に悔しい


 みち…お前の中には神が存在している

 それは可能性という名の

 人間だけが持っている神だ


 いいか…

 変えられない事実に抗うな

 変わらない現実に従うな


 どんなことがあっても

  “それでも” と言い続けろ


 決して自分を見失うな

 そうすれば、自ずと道は開ける


 あっちで母さんと一緒に見守ってるから


「大丈夫だ」と言おうとしたのだろうか。父の唇がかすかに動いた。でも、もうそれ以上、唇が動くことはなかった。


 手に伝わっていた弱々しい圧力が徐々に無くなっていった。




 父のぬくもりが消えても、手のひらには、あの日の言葉が今も残っている。何度もわたしを導いてくれた言葉…


その意味を

わたしがほんとうに理解するのは――


もう少し先の話。




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