第8話 共感
約束の日、土曜日。
待ち合わせ場所に向かうと、彼はすでにそこにいた。
大きなヘッドフォンをつけたまま何やら指先を動かしている。近づいてよく見てみると、「みち、おはよう、今日は楽しもう」と言っていた。
わたしに気がつくと、彼はパッと笑顔になり大きく手を振って合図を送ってくる。ヘッドフォンを外し、耳を指差しながら得意げにこう言った。
「見てみて!約束した日から耳栓して生活してみたんだよ」
「え?なんでって?みちの日常を少しでも経験してみたくてさ」
屈託のない笑顔を見せられて、わたしは一瞬、言葉を失った。
彼は口語と手話を交えて話していたが、耳栓のせいでかなり声が大きくなっていたのだろう。周囲の人たちが「何?」というように振り返ったり、訝しげな目でこっちを見ている。
急に恥ずかしくなったわたしは『もういいから耳栓取って!』と伝えたが、彼は全く気にする様子もなく、むしろニコニコしながら言う。
「今日はみちと映画観るんだから」
………どうやら聴いてくれそうにない。
仕方なくわたしは彼の腕を引っ張って映画館へと急いだ。
映画館に着くと、わたしたちはチケットを購入し、カウンターへと向かった。
この映画はバリアフリー上映で、字幕メガネ端末を借りられる。
スタッフさんが「端末は二つですね。使い方は…」と手話で説明してくれる。わたしたちは手話を交えて質問したり、使い方を教えてもらった。
ふと気づくと、スタッフさんはどうやら彼もわたしと同じく”聴覚障がい者”だと思っているようだった。
まあ、彼は耳栓してるし、手話でやりとりしてるし…仕方ないのかもしれない。
端末を受け取り、座席へと向かう。
席に座ると、彼はまたヘッドフォンを取り出し、装着し始めた。
『何でそんなことするの?』
不思議に思って聴くと、彼は軽く笑いながら言う。
「あー、一度耳栓して映画1本観てみたら、やっぱり音が大きいから聞こえちゃうんだよ」
「だからこうして…」
そう言って、ヘッドフォンをしっかりと着けると、音楽まで流し始めたようだった。もちろん、周りに迷惑にならないよう音漏れしない音量で。
(そこまでしなくったて…)
彼は映画のパンフレットに目を通しながら、まるで少年のような顔でポップコーンに手を伸ばしている。何だか楽しそうで、まるで遊園地にでも来たみたいな雰囲気だ。
わたしはその様子を見て、肩をすくめながら思った。
(やっぱり変な人!何考えてるんだろ)
(そういうことじゃないんだよ…)
わたしは首を横にブルブルと振って、せっかく来たんだ。観たかった映画でもある。(わたしは今日は一人で来たんだ!よし!楽しもう!集中!!)
そう自分に言い聞かせて、気持ちを切り替えた。
そんなわたしを尻目に、彼はポップコーンを差し出してくる。
「ほら、食べる?」
わたしは何とも言えない気持ちで、目の前のポップコーンを見つめた———。
映画が始まった。
彼の隣でちゃんと楽しめるのか少し不安だったけれど、字幕メガネをつけているおかげで、隣の状況はさほど気にならない。
それよりも——この映画館は、座席が映像とリンクして振動したり、風が出たりする特殊な演出がある。
そのおかげか、すぐに映画の世界に引き込まれていった。
迫力のあるシーンで座席が震える。
思わず「…っ!」と息をのんだ瞬間——
ふと気がついた。
わたしが驚いたり、思わず声が出そうになったタイミングで、彼も同じように小さく肩を揺らしている。
まるで、わたしのリアクションにシンクロするように——。
一瞬、目を向けると、彼もわたしと同じようにスクリーンを真剣に見つめていた。
イヤホンから流れる音楽で映画の音は聞こえないはずなのに、まるで”見えているもの”だけで、すべてを感じ取っているかのように——。
なんだろう、この感覚。
わたしは少しだけ、彼が”わたしの世界に入り込んでいる”ような気がした。
ーーーー
映画が進むにつれて、驚きや笑い、感動する瞬間が増えていく。
そして、そのたびに気づく。
——また、同じタイミング。
わたしがクスッと笑ったとき、彼も微かに肩を揺らして笑っていた。
切ないシーンで胸がギュッとなったとき、彼もスクリーンをじっと見つめている。
彼は映画の音を聞いていない。
それなのに、わたしと同じようにこの映画を”感じている”。
不思議な感覚だった。
まるで、わたしたちの間に見えない何かが繋がっているみたいで——。
今まで、「聴こえないこと」を誰かと共有したことなんてなかった。
でも、この瞬間、わたしは彼と”同じ世界”にいる気がした。
なんだろう、この気持ち。
戸惑いながらも、少しだけ胸が温かくなった——。
聴こえないことを「共有」するという感覚は、わたしにとって初めての経験だった。同じ障がいの友達と映画を観たことはあるけれど、それは「映画の内容を共有」しているだけで、「聴こえないこと自体」を共有するものではなかった。でも彼は、わたしの世界を「体験」しようとしてくれていた。そのことに気づいた瞬間、わたしは自分が「そういうことじゃない」と彼を拒絶しようとしていたことを、少し恥ずかしく思った。
映画が終わった後、わたしたちはカフェへ行き、映画の感想を語り合った。ストーリーの解釈、登場人物の気持ち、シーンの印象…。普通に映画を観ていたら、音から直感的に理解できるような場面も、彼はわたしと同じように感じていた。
そして彼はこう言った。
「聴こえても聴こえなくても、同じように楽しめるんだな。だってみちとこうして映画の話で盛り上がれてる。俺たちは同じ世界で、同じものを見て、同じ感覚を共有できるんだ」
その言葉に、わたしは胸がじんわりと温かくなった。
この日を境に、わたしは彼…志人に少しずつ惹かれていった。
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