第2話 全てに宿る金星2

「お前はいったいどれだけ私を困らせるつもりだ?」


それが病院に運ばれてきた娘に「お父さん」と呼ばれた男の一言だった。


ただでさえ広い四人病室なのに、その一言に時間が止まったようだった。

やがてその中年男性、空上そらうえの声によって再び時間が流れ出した。


「二度とこんなことで連絡が来ないようにしなさい、迷惑だから」


そのような言葉とともに、空上そらうえは病室の外に歩いていった。


「……」


その後姿を見ることもできないまま、金星かなぼしは呆然とした顔で頭を下げた。

まだ状況の把握が終わっていないのはぜんも同じだったのか、空上そらうえが病室のドアの外に出てから気を取り直してその後を追った。


「ちょっと!ちょっと待ってください!空上そらうえさん!」


その声に空上そらうえは歩みを止め、自分を呼び止めたぜんをにらみつけた。しかし、そのような視線にぜんは少しも屈せず、自分の意見を表出する。


「いや、娘でしょう?病気で運ばれてきた娘に、父という人があんなことを……」

「君は?」

「……お隣さんです」

「ああ、君が?」


状況の把握が終わった顔で、空上そらうえは虫を噛んだ表情を見せた。続いてぜんを無視したまま歩きながら一言つぶやく。


「そのまま死んでいればよかったものを……」


その言葉にぜんは言葉を失った。すぐにぜんが一言を言おうとした瞬間、空上そらうえは忠告するように言う。


「事情も知らない部外者が他人のことに口を挟まないでください。と係わると君も面倒になるでしょう」


あれ。


自分の娘をまるで物みたいに呼び、金星かなぼしの父親は――いや、その中年男性は後ろも振り向かずに去ってしまった。


「何というか……」


あまりにもあきれてぜんは何も言えなかった。


「あ、あの!空上そらうえさん!」


看護師があの男に何か言葉をかけるが、さっきぜんに対する時と同じように無視を一貫してそのまま病院の外に出てしまった。

気になったのでぜんが尋ねると、看護師は困った表情で話す。


「あ、やなぎさん。それが……保護者の方が患者さんの病院代を払っていません。

「何ですって?」

「そんなものは患者に受け取れって」

「……」


もはや驚きもしないほどだ。

看護師は途方に暮れた顔を見せ、ぜんはため息をつきながら財布を開けた。


「はあ……取り敢えず私が払います」


たとえ余計なおせっかいになっても、最後までその責任を背負うのがやなぎぜんの性分だった。




☆☆☆




病院で代わりに病院代を支払ったぜんは、バスには乗らず、とぼとぼと家まで歩いて行った。

大体八千円あたり。看護師が「大丈夫ですか?」と聞いたのがまだぜんの頭からちらついたが、如何しようも無いだろう?


「だからと言って、病気の中学生に払えと言うわけにもいかない。大人として」


世の中のすべての親が皆あんなわけではないが、子供に無関心な親がいること自体はそこまで珍しくない。


「いくら何でもこれは……」


。。。

。。


ひとまず家に帰ってきたぜんは、できるだけ雑念を消すために再び執筆の作業に入った。

そう執筆し続ける頃――


「……あの子、点滴が終わるまで長くても二時間くらいだっけ?」


看護師が教えてくれたその情報をつぶやきながらぜんは少し手を止めた。

自分で思ったよりショックだったのか、それとも金星かなぼしが気になったのか、今日に限って妙に手が動いてくれなかった。


「……」


少しぜんは時間を確認した。現在の時刻は十八時五十分、病院を出たのが十七時頃だったので、そろそろ終わってもおかしくない。


「……そろそろ夕食の支度でもしようか?私もまだ風邪気味かもしれないから、よく食べないと」


まるで誰かに言い訳するかのように、ぜんは原稿をセーブして席を立った。


「冷蔵庫に寝かせておいた生姜焼きがあるから、それにしようか?……いや、さっき朝食べたよな」


でも冷蔵庫に買っておいた豚肉が見えてぜんはそれを取り出す。

特に他の理由があるからではない。ただ今日は疲れているからもっと多くの蛋白質を体が要求するだけだ。


「今日はすごく腹が減ったから」


そんな独り言を言いながらぜんは圧力鍋を取り出した。


。。。

。。


そうして一時間後、ぜんの神経はひたすらマンションの玄関口の方を向いていた。

病院から帰ってきたカナボシが家に帰還したなら必ず二百二号室、すなわちぜんの家を通らなければならない。ところが、そろそろ聞こえるはずのローファーの音は聞こえない。


「……まぁ、外で食べてくることもあるだろう」


いくら娘の病院代も払わない父親だとしても、食費ぐらいは用意してくれたはずだ。そもそも約束をしたわけでもなく、そこまで知っている間柄でもない。

今日はただ、ぜんが余計な心配をしたということで。


(圧力鍋に蒸しすぎると歯ごたえがないから、そろそろ食べようかな?)


そんな思いでぜんも食事の準備をしようとした瞬間――


ピンポン〜!


突然聞こえてきたチャイム音にすぐ外を確認したぜんの瞳孔は大きくなった。


「お隣さんだな」


ゆっくりとドアを開けると、もたもたしながら視線をまともに合わせることができない女子中学生、金星かなぼしを見てぜんは心の中で安堵しながら唇を開く。


「少しはよくなりましたか?その……空上そらうえ金星かなぼしさん」

「あ、はい!お、おかげさまで!あの···!」

「はい、どうぞ」


ぜんが待ちながら話すと、金星かなぼしは腰をかがめて話す。


「気を遣わせてすみませんでした」

「……いいえ、お隣さんですから」


もし倒れた人が同年代の丈夫な男性であっても、おそらくぜんは同じ行動をしたはずなので、これは偽りのない真実だった。


「あ、でもと後で通報はしないでくださいね?最近、そういうの物騒で」


できるだけこの気まずい空気を変えようと思ったぜんがそのような面白くもない冗談を言うと、これを真に受け入れた金星かなぼしは大きく首を横に振った。


「し、しません!恩を仇で返すそんな悪いこと……絶対しません!」


金星かなぼしのその行動にぜんは一瞬瞳孔が大きくなった。あんな父親のもとで育った割には、きちんとしていて、かなり礼儀正しいとぜんは思った。


(実の娘じゃないみたいだ……)


敢えてそれを口に出さずにぜん金星かなぼしに言う。


「ところで、病院からすぐに来た割には遅かったですね?看護師さんに点滴は長くても二時間だと聞いたんですけど」

「ああ、歩いて来たので……」


当たり前な顔で言う金星かなぼしを見て、ぜんは「しまった」と思った。


(そうだな、病院に運ばれてきた娘の病院代も出してくれない人なのに、バス代をくれるわけがない)


少なくともバス代でも置いてくればよかった……という思いとともに、ぜんは後悔に包まれた。


「ち、違います。その……私が定期券を家に置いてきたから……だから……」


ぜんの顔を見てすぐ考えを読んだのか、金星かなぼしは手を激しく振りながらそのような言い訳をした。

そして静かに自分の腹の上に両手を上げて、ぜんを訪ねてきた本題を口にする。


「救急車を呼んでくださって、ありがとうございます。そして看護師さんから聞きました。私の病院代も出してくださったと」

「ああ、気にしないでください。保険適用を受けて思ったより高くなかったので」


もちろん予想外の支出ではあったが、ぜんはそれをあえて口にしない。

咎めるべき人は父の責任を負わない大人であって、目の前の金星かなぼしではないから。


(まぁ、当分は食べることに少し節約すればいいだろう。野菜は萌やしと玉ねぎ、蛋白質は卵や鶏肉で……親子丼かな?)


そもそもぜんは食事をエネルギー供給源程度にしか考えていないごく平凡な二十代の男性だったので、別に問題にはならなかった。


ぐうぐう!


(おっと、食べ物のことを考えて腹が減ったのか?)


いや、待て……


(これ、私の音じゃない)


音が聞こえた所に視線を向けると、


「ううっ……」


金星かなぼしが顔を赤らめていた。

恥ずかしくて逃げたいが、それが失礼だと知っているのか金星かなぼしは足をバタバタさせていた。


それに気づいたぜんは、視線を下に向けた。


目立つのは素足にローファーであることと、そのローファーと肌の当たるところに絆創膏を貼っておいたこと。どうやら肌が擦れて貼っておいたようだが、キャラクターの絆創膏が妙に視線を引く。

そこはまた妙に子供らしく、ぜんは心の中で微笑んだ。


(確かに中学生ならかなり育ち盛りだね)


医者も食事はきちんとしなければならないと言ったからな。


「ちょうど私も夕食をとるところでしたが、空上そらうえ金星かなぼしさんもいかがですか?思ったよりたくさん作ったので」

「だ、大丈夫です。私、点滴を受けたし!病院代まで払わせたのに!」

「お茶碗とお箸をもう一つ乗せればいいので、ほらほら。上がっでください」


栄養失調の原因の大半は深刻な蛋白質の不足。つまり、肉をよく食べなければならない。

いくら点滴を受けたとしても、このまま送ると気になって眠れないのが、まさにやなぎぜんという青年だ。


。。。

。。


ぜんのワンルームの中に入ってきた金星かなぼしは手を洗い、茶碗と箸をもらった。

男一人で暮らすワンルームにしては妙にきれいに整頓されており、PCデスクにはが額縁に差し込まれていた。


「彼女さん……かな?」


そんな呟きと共に金星かなぼしは茶碗を持ったまま、その額縁の写真をぼんやりと眺めていた。

間もなくぜんは両手におかずが入った大皿を食卓に持ってきた。


「さあ、食べましょう」


今日のぜんの料理は肉じゃが。

醤油の色に大きく角切りにされた分厚い肉の姿に思わず唾をごくりと飲み込んだ。

普通は薄い牛肉を使うが、最近は豚で作る家庭もよくある。


「あれ?この肉じゃが、スライスじゃないんですね」


そうして金星かなぼしは不思議な目で皿を見た。

ぜんは白いご飯が入った茶碗と味噌汁が入った汁椀を金星かなぼしに渡しながら言う。


「分厚いほうが肉の歯ごたえがあるでしょう」


この男、堂々と嘘をついた。


言葉ではそう言ったが、この肉は圧力鍋で一時間近く蒸したもの。分厚い肉だから噛みにくいと思って噛んだ瞬間、口の中でとろけて歯ごたえを感じる暇もない!

同じ醤油に別に煮詰めておいたジャガイモが溶けないまま形を維持しているので、これは騙されるしかない。


(知人のほとんどが「いったいこれはどんな肉なんだ?!」と聞くとき、安い豚のもも肉と言ったときの反応がとても面白かったな。この子はどんな顔をするかとても楽しみだね。フフフフ)


そのようにぜんは心の中で悪童のような表情で笑った。

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