第2話 きっかけって本当に些細なところから始まるんですよね・前②
ホテル業の仕事には日中だけでなく、深夜におこなわれる夜勤業務がある。
仕事内容は多岐に渡り、例えばその日の売り上げを計上し納金したり、その後に本社へ「本日はこれだけ売り上げました」という内容をメールやファックスで送信する業務報告などがある。その後にパソコン上でも売り上げの閉め作業をしながら、閉めが終われば売り上げに関する全てのデータを整理整頓する。そこから「どんなプランがどの程度売れたのか」細分化する業務が発生する。
パソコンから抽出されたデータは大まかな情報しか掲載されないことが多く、支店があるホテルなら支店ならではの特色をより深堀するため、当日の宿泊客数、年齢別、性別と割り振っていかなくてはならない。単純に数字を打ち込んでその日の売り上げを計算するだけの作業もあるし、売上報告を作成するだけでも最低でも30分くらいかかる。
そこからさらに明日に向けた準備も始めていく。ネットでも予約を受け付けているホテルなら翌日の料金管理も夜勤業務に組み込まれている。適正レートで売らなければその日の売り上げに大きく左右され、周辺の同業他社に後れを取ることになる。新人の頃、料金調整を誤って平日6,000円台で提供しているうちのホテルで平日10,000円で販売していた時は副支配人から大目玉を食らった。
その他にもホテルに寄せられるメールのチェック、クーポンやポイントを利用したお客さんの情報をさらって経理に報告するための資料作成、そして深夜になっても内線電話を鳴らすお客サマの対応と、細かなものまで上げればきりがないほどの業務が夜勤には存在する。
だが一般の人たちがその事実を知ることはなかなかない。理由は簡単で俺たちが泥臭い仕事をしている間、宿泊客の多くが夢の中にいるからだ。しかも俺たちの夜勤業務のほとんどは事務所内で行われるため、深夜になっても仕事をしていることなど知る由もない。
なので俺が夕方チェックインを受けたお客さんが、翌朝のチェックアウトも俺が担当すると「あれから眠られてないんですか?」と心配されることもある。夜勤の仕事柄、仮眠程度の睡眠しか取れないのだがそこは笑顔で「いえ、しっかり休ませてもらっているので」と答えるわけだ。
「……暇になってきたな」
一人事務所でごちる俺は、ある程度終わりが見えた夜勤業務に安心を覚えながら天井を見上げる。
ルームチェンジのお客さんは迅速な対応でなんとか怒りを抑え込んでもらい、その後も高級アメニティによる謝罪で鎮静化に至った。とはいえクレームはクレームだ。明朝やって来る副支配人には連絡しなければならない。報告書などの面倒な事務手続きが待っているので残業は確定だろう。
時刻は深夜2時。佐東には先んじて休憩に入ってもらい仮眠を取ってもらっている。仮眠室はお客さんが使用を諦めたGの出た部屋。本来ならそのままにして明日まで利用しないのが正しいのだが、夜勤業務を始めて間もない後輩の疲れを少しでも取ってもらうため、今回だけお客さんが使用した部屋を仮眠部屋として使わせてもらった。佐東は「Gは先輩が撃退したんですよね? なら問題なく使えます!」と簡易的なリメイクも快く引き受ける形で部屋へと向かった。
「交代まであと1時間。長いな……」
佐東のために残している仕事はそのままにして、あと俺がやるべき仕事はフロント周りの清掃だけ。とはいえやることと言えば、お客さんが使用したフロント周りの備品やロビーの椅子、テーブルの直し、拭き掃除が主だ。アメニティの補充やコーヒーメーカーの清掃も含まれているが佐東にやってもらわないといつまで経っても覚えないので、今日はスルーするつもりだ。
「忘れないうちに、やっておくか」
携帯ゲームへの誘惑が出始め、さすがにやり始めると集中して掃除を忘れる懸念が出たのでフロントに出た。
フロント周りは節電のためほとんどの照明は消えているが、共有スペースに置かれている椅子やテーブル付近の間接照明がほのかな光を照らしている。それでも淡い光しか光源はないので、基本的には深夜になればフロントにスタッフ以外の人間などいることはない。
だからこそ、深夜2時を回っている時間帯に、共有スペースの椅子に腰をかける宿泊者がいることに内心驚いた。
見た目の年齢は20代前半だろうか。淡い光の下でもよくわかる肌つやと均整の取れた顔つき。身なりは各部屋にセットされている紺色の浴衣姿だが、コマーシャルでも起用されそうなほどしっかりと着こなしている。流麗な黒髪はウェーブの状態で下ろされており、ただ座っているだけでも絵になっていた。
「こんばんは」
綺麗さのあまり数秒見続けてしまった俺は、何か言われる前に挨拶をしておこうと声をかけると、彼女は俺の顔を見るや、笑顔でこう言った。
「こんばんは、
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