第3話 きっかけって本当に些細なところから始まるんですよね・前③
今度こそ、俺は驚きを顔に出してしまった。
何故なら俺は彼女に自分のフルネームを紹介した覚えがないからだ。支給されているスーツの上からネームバッジは着用しているが、書かれているのは苗字だけ。しかも俺の苗字を一度見ただけで
「あの、変なこと聞きますけど、どこかでお会いしましたか?」
「ご存じないですか?」
彼女のどこか試すような口ぶりに俺の緊張は高まる。下の名前まで知っているのなら、多かれ少なかれ会話も交わしている可能性がある。だがどれだけ頭をひねっても目の前の可愛らしい女性に心当たりがない。俺が忘れているというなら失礼だと怒られてしまうかもしれない。さすがに深夜のクレームは勘弁願いたいので俺は普段使わない脳みそをフル回転させた。
「えっと、その。ちょっと待ってください。いきなりだったもので、記憶が」
「どうぞどうぞ。お構いなく」
笑みを浮かべながら俺の答えを待つ女性。その様は俺の慌てる様を楽しんでいるようにも見えた。本当に楽しんでいるなら人が悪い。
数分時間を費やしたがついに目の前の女性のことを思い出せなかった。
観念した俺は頭を下げながら「申し訳ございません」と謝罪する。
「誠に失礼ながら、お客様のお名前を思い出せませんでした」
「ふふ、でしょうね」
微笑む彼女は、俺が思い出せなかったことに対して怒るどころか当然だとばかりに語りだす。
「何せ、私が一方的に覚えていただけですから」
一方的に、という言葉に俺は信じられないという感情でいっぱいになった。20代前半の女性と知り合える機会などここ数年なかったはずだし、神に誓ってお客さんに手を出すような馬鹿なマネはしていない。
なにより俺が知らず、相手の方が一方的に覚えているというのが奇妙でならなかった。
「申し遅れました。私、
彼女、注連野さんの名乗りと会釈で俺も再び頭を下げる。直後俺はどこか懐かしさに似た既視感を覚えた。気のせいかとも思ったが、微笑む彼女と注連野という名前に気のせいで済ませてはいけない雰囲気を感じた。
もしかするとこのまま話せば何か思い出せるかもしれない。仕事中なのであまり長く話せないが、手短にでも情報を仕入れて、思い出せる材料を見つけるため俺は会話を引き延ばす。
「その、注連野様は」
「様はいいですよ。確かに今の私はお客さんですけど時間も時間ですし、こんな時間まで気を遣わなくても大丈夫です」
「ですが……」
少し悩んで、注連野さんは名案とばかりに手を叩く。
「溝間さんは今お仕事中ですか?」
「はい、夜勤といっても聞き覚えがないかもしれませんが、翌朝まで起きて仕事をしなければなりません」
不安そうにする注連野さんに俺はすかさず付け加える。
「といっても、仕事の半分は終わりましたし、残りの半分は今仮眠を取っている後輩にさせますがね。私がここに来たのもフロント周りの軽い清掃のためだけですから」
重大な仕事を背負っているわけではないことを理解し、注連野さんは少しだけ安堵する。
「では溝間さんが良ければ、私の話し相手になってくれませんか? どうにも落ち着かないと言いますか目が冴えてしまって。ご多忙なら無理は言いませんし、私も少ししたら部屋に戻ります。でももし今お暇で、私のことを思い出せなかったことに罪悪感を覚えているのなら、私の話し相手になってください」
「やっぱり思い出せなかったこと、怒ってます?」
「怒ってはないですよ。何度も言いますが、私が一方的に溝間さんのことを覚えていただけです」
「じゃあさっきの罪悪感というのは」
「こう言えば、溝間さんは私とお話してくれるかなと」
本人はそう言っているが、やはり俺が彼女を覚えていなかったことに思うところがあるようだ。幸い仕事は
なにより俺自身が彼女との会話を望んでいた。
俺は彼女の対面になるよう「失礼します」と断りを入れて椅子に座り込む。
「お座りになるんですね」
「お客様がお座りになってリラックスされた状態で話されるのに、私が立ったまま話してしまうと気疲れされるでしょう。もちろん本来なら私の態度は見直されるべきですが、今は深夜。多少のことは目をつむってくれる、でしょう?」
「でしたらその口調も砕けていただいていいですか?」
「いえ、さすがに口調までは」
「お客様のご要望でも、ですか?」
自分たちの立場は崩さないが、自分たちの間の境界は緩めろというなんとも難しい要求を出す注連野さんは俺の溜め息を見ながらも自分の願いが聞き届かれることになんの疑問も持っていないように見えた。その様は本当に俺のことを知ってるようでどうも落ち着かない。
「……他のお客様には内密に頼みますよ」
「もちろん。でもまだ砕け切ってないように聞こえますが」
「はいはい、わかりました。これでどうですか、注連野さん?」
「いいですね、その後輩を気遣う先輩みたいな感じ。とってもいいです」
「あんまり大人をからかうと痛い目を見るぞ。見た感じ20
「鋭い着眼点ですね。もう少しで22になります」
大学をストレートで入学したなら4回生になる計算だ。最終学年となれば就職活動が本格化しているはず。
「うちのホテルを使ったのは旅行? それとも就活のための宿泊?」
「さすがホテルのスタッフさん。私の年齢だけでそこまで絞れるんですね」
「宿泊プランを作成するのも俺たちの仕事なんでね。就活生や受験生のプランも作ったりするんだ。注連野さんの年齢を聞いて京都に来たなら旅行か就活のための宿泊かなって。で、答えは?」
「前者ですね。就活は無事に終わって、今は彼氏と一緒に京都観光中です」
注連野さんと彼女の彼氏さんはほぼ同時に希望する就職先に受かり、今は二人で京都観光を満喫しているとのこと。微笑ましくそして羨ましい話である。
俺は注連野さんと今は客室で眠る彼氏さんに就活成功の拍手を送った。
「おめでとう、希望する就職先に進めたんだね」
「……ええ、まあ」
どこか歯切れの悪い返答だった。先ほどまでの笑みとは違ったどこか苦みを感じる無理矢理な笑顔だ。
「その様子じゃ、希望の就職先ってわけじゃないのか?」
「そんなことありません。ちゃんと自分で勤めたい会社を受けて、内定をもらいました」
「ならもっと喜べばいいじゃないか。注連野さんのその様子じゃ、希望した会社じゃなかったみたいに見える」
「そう、見えますか」
「俺でもわかるんだ。親御さんとか彼氏さんはわかってるんじゃないか?」
「少なくとも、その両親と彼は知らないです。だって両親も彼も私のことを良い意味でも悪い意味でも信じきっていますから」
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