SCENE 4

 目を開けたケニーは眩暈に似た感覚を味わい、倒れまいと両足を踏みしめた。ゆっくり首を回し、ここがどこか確認する。

 やわらかい照明。足下は毛足の長い深紅のカーペット。視界にピンクのサテンのカーテンが入ってきた。部屋のちょうど角に半円状に下がっている。

 そこがドレッシングルームだとわかったのは、部屋中を覆うように、白やピンク、ブルーと色とりどりのドレスが大量にあったからだ。中でも白いドレスが多いかもしれない。

 また夢を見ていたのだろうか。

 ケニーは側にあったスツールに倒れ込むように座ると、眉間を押さえた。背後から店員の女性が「大丈夫ですか? どうかされまして?」と声をかけてきたので、片手を上げて「大丈夫。少々寝不足なだけです」と適当に返事した。

 どうやら立ったまま、眠っていたのだろうか。それとも子供の頃の回想か。

 いや、それも妙だ。

 そのまえの黒人のいかつい男とのやりとりはどうだ。たしかラリーという名だった。

 夢の中の自分は今の自分とだいぶかけ離れている。

 セリーナのこともだ。

 たしかにセリーナは大学の初等美術講座で知り合った。しかし先ほどの夢の中ではそうして出会ったのはゲイリーという男だ。

 くわえてゲイリーの住まいは、今のケニーが住んでいるソーホーのそれと外観がとても似ている。

 現実が夢に混ざりこむのは普通のことじゃないか。何がおかしい。

 ただ、これ以上夢の続きを見てはいけない気がする。なぜだ。

 眼前の試着室のカーテンが開いたので、ケニーは反射的に顔を上げた。

「どうかしら?」

 肩を出した白いドレス姿のセリーナが試着室の中にいた。

 ケニーはすぐに言葉が出ず、ただ彼女を見つめた。それをセリーナは好意的に受け取ったのか、嬉しそうに微笑む。

「わかった。これにするわ」

「……君には何だって似合うよ」

 口をついた言葉は本心からだったが、頭の中はまだ霧がかかったように重苦しい。

 不安。そうだ、たかが夢になぜこんなに不安になるのか。

 ケニーは立ち上がると、両手でセリーナの顔を包み込んだ。セリーナも爪先立ち、彼の首に両腕を回してきた。輝く青空のような瞳がケニーを射るように見つめている。

「まあ、お熱いこと! お式の日取りは決まってらっしゃいますの? そちらレンタルでもお売りすることが可能ですのよ」

 振りかえると、営業用のスマイルを浮かべた女性店員が両手を組んで立っていた。

 セリーナが着ている純白のドレスはどう見ても花嫁のものだったが、ケニーに実感はなかった。

(彼女と結婚? おれはいつ、プロポーズしたのだろうか?)

 たしかにセリーナとは結婚してもいいほど真剣に付き合っていたが、ケニーは戸惑った。

 そんな大切なことを忘れるはずないのだが、何一つ思い出せない。

「大丈夫? 具合が悪いなら、今日はもうやめましょ」

 ケニーの額に浮いた汗を、セリーナはハンカチで優しく押さえた。

「何も恐れることはないわ。あなたは今を受け入れてくれればいいの」

 彼の髪を撫でるセリーナの声音はとても柔らかいのに、なぜか恐ろしくなった。

(おれが彼女を怖がる……だと?)

 遊園地のアトラクションに乗った時のように目の前のセリーナの白い顔とオレンジの唇と空色の瞳がぐるぐると混ざり合い、やがて黒一色になっていく。



「彼らが出てきた」

 ラリーの緊張を含んだ声に、ケニーは彼の視線の先を見た。

 二人がアパートから出てきた。ふと時刻を見ると二十三時数分前だった。

 ゲイリーは芸術家というよりビジネスマンに見えた。これから契約にでも行くかのような黒いスーツ姿だ。黒のマスタングを表まで回してくると、セリーナを乗せ、どこかへ去っていった。

 あわてたケニーにラリーは落ち着いた口調で「お嬢さんを送っていっただけだ。すぐ戻ってくる」と答えた。言う通り、三十分も経たないうちにゲイリーは戻ってきた。

 ラリーの「持っていきかた」は恐ろしいほど手慣れていた。

 ゲイリーの作品に興味がある客を装い、家の中へ自分たちを通させる。

 こんな時間に訪ねてきた面識のない客というだけあって、はじめゲイリーは警戒していたが、ラリーがスーツの胸元から札束を見せると、わかりやすく態度を軟化させた。即金で買うなどという話はめったにないからだ。

 ところが得意気に絵を見せていくゲイリーに対し、ラリーは次々難癖をつけていく。

 最初は顧客だと我慢していたゲイリーも「ポロックの真似にしか見えないな」と言われた瞬間、上等のソファから立ち上がり、掴みかかろうと手を伸ばした。

 そんな彼に合わせるかのように、いきなりラリーは床に倒れた。

 指示された通り、ケニーは立っている場所から携帯電話で録画を始めた。

 ソファの背後に立っているケニーから録れるのは、ゲイリーがラリーに殴りかかった(ように)見える先制攻撃の瞬間だ。もちろんゲイリーは困惑していた。まだ殴ってもないのに勝手にラリーが倒れたからだ。

 ラリーの指示で、ゲイリーの表情は極力録らないようにする。

 ラリーはローテーブルとソファの間に巨体を縮こまらせているのだろう。ゲイリーが近づくように腰をかがめると、ラリーが彼の脚をつかんだのか、ゲイリーが倒れた。ケニーの方からは二人の姿が見えなくなった。

「何するんだ?! あんた!」

 ケニーはわざとらしく声をあげ、携帯電話を持ったまま、ソファの向うを覗き込む。

「いや、彼が……いきなり転んだんだ。それからおれの脚を」

 倒されて意図せずラリーの身体の上に乗っかっているゲイリーの姿をケニーは録り続けた。

「いいや、違うね。あんたがいきなり私に掴みかかったからだ。私は、避けようとして倒れた」

「何言って……ぐうっ!」

 ゲイリーがうめいたのは、ラリーの拳が腹に深く入ったからだ。

 ラリーが腹ばかりを狙ったのは、顔だと痕が残りやすいというのと、やつに反吐を吐かせたかったらしい。ケニーは顔をしかめながらもその様子を録画した。ラリーがゲイリーの腹に入れたのは三発程度だが、一撃がとてつもない威力なのはわかった。ゲイリーは腹の中のものを戻し、最後は血まで吐き出していた。

「すまないね。録画させてもらったのは、私の雇い主があんたの這いつくばる様を見たかったからだ」

 ケニーは吐しゃ物の匂いに顔をしかめながら、ラリーに携帯電話を手渡した。ラリーはすでにスーツの乱れを直し、サングラスをかけなおしていた。

「こいつ、口も利けないみたいだぞ」

 やや不安になってケニーはゲイリーを見た。

 ゲイリーは腹を抱えて、床の上で縮こまっている。しゃべることは出来ないが、血走った目は自分が突然見舞われた災難の原因を必死でラリーに問うているようにも見えた。

「いきなり何のことかわからないかもしれないな。端的に言うと、セリーナ・ゴードンから手を引いて欲しい。二股男を娘の父親が殴りつけたいのは当然だろう? だが彼は忙しいので、私が代りに殴った。これは治療費にでもあててくれ」

 テーブルの上に札束を置くと、ラリーはドアを開け、ゲイリーの家から出て行った。ケニーもあわてて後を追う。

「だいじょうぶなのか? 警察に訴えられでもしたら」

「だからさっきの猿芝居をうった。馬鹿馬鹿しいが、やつも画廊の仕事の方が大事だから何も言わないはずだ。だいたい、あの位、たいしたことない。内臓は傷つけてないし。口の中を噛んだかで、血が出ただけだ」

「……あんた、何かやってたのか?」

「まあ、人の詮索はあまりしない方がいいな」

 ラリーの目はサングラスで見えなかったが、チャコールグレーのスラックスの裾にわずかに跳ねた血をアイロンがかかった綺麗なハンカチで彼が冷静に拭き取るのを見て、ケニーはぞっとした。言うとおり、それ以上何も聞かなかった。



 荘厳な音楽が鳴り響いている。

 ケニーはゆっくり目を開けた。

 パイプオルガンの音が空間に反響する。目の前にはステンドグラスのはまった高い窓に十字架。窓の下に立っているのは……祭服を着た神父だ。

 歓声に振り返ると拍手で迎える参列者たちの後方から、白いドレス姿のセリーナと腕を組んだ白髪頭の礼服を着た男が、ゆっくり歩みを進めてくるのが見える。

 あの男は、ゴードンではない。なぜかケニーにはわかった。

(あれは誰だ? 彼女の父親? なぜ……ゴードンだと思った?)

 ケニーの口から小さな苦笑が漏れた。

 傍らに立つ神父だけが、それを耳にし、怪訝な顔をこちらに向ける。

 自分は気が変になったのか。

 わけがわからない。

 今いるここは、この世界は、自分の現実なのか?

 ケニーはうつむいた。

 磨かれた黒い革靴を履いた自分の足が、薄暗くぼやけていく。



「やっぱり、あなたね」

 ケニーはもう少しで女みたいな悲鳴を上げるところだった。いつものように白のチェロキーの運転席で携帯を見ていると、助手席の窓を突然誰かが叩いたからだ。

 相手を確認したケニーはさらに息を飲む。

「降りてきてくれない? 話があるの」

 面倒なことになった。ケニーは思いながらもセリーナの言う通り、ひとまず車を降りた。心の中では、あの晩以来二度と会ってないラリーを恨みながら。

「ちょっと、聞いてるの?」

 セリーナの声で、ケニーは我に返った。

「あなた、このまえ、私を尾行してたでしょ?」

 ケニーはあらためて、セリーナに見惚れた。

 腕組みをしながら、ケニーを睨んでいる。丈の短い、白いワンピースの裾から伸びる引き締まった脚に目がいった。

「あなた、あの人……ゴードンの手下?」

 セリーナが綺麗に描いた眉を吊り上げて訊いている。

 上からの不躾な物言いに聞こえるのは、たんにケニーの僻みだろうか。

 彼女自身はべつに金持ちでも何でもなかった。だが彼女の父、ルイス・ゴードンはマンハッタンに二つのビルを所有する実業家だった。不動産、コンサルティング業、飲食店と経営の幅は広い。

「ああ、たしかに。ただ……今、ここであんたと話してるのはマズいんだよ。おれはただの運転手なんだから。レイフを知ってる? ゴードンの甥の」

「なるほど、レイフのね。どこでなら話してくれるの?」

 セリーナに退く気はないようだった。

 会うのもいけないのはわかりきっていたが、ケニーは気づけば角のドーナツ店を目で指し示していた。

「今日は7時には終わるだろうから、その後でよければ……行く」

 内心待たなくていいと思いながら、ケニーはそう付け加えた。

 セリーナが去って十分もしないうちに、レイフは戻ってきた。二人でいるところを見られなかったことにケニーは内心胸を撫で下ろす。

 レイフはレストランの女主人とミーティングと称していたが、その内容は店の奥での情事だった。以前ウィンドー越しに彼女を見かけたが、歳の頃は三十代半ば、レイフの好みらしい大人の女だった気がする。

 レイフを郊外の自宅まで送ると、庭のプールサイドに妻のメリンダの姿が見えた。ケアに余念がないのか、実に見事なプロポーションだ。しかし、そのあてつけるような水着姿に見向きもせず、レイフは玄関ドアを開けて家へ入っていく。

 いいかげん慣れたが、人を気遣うことをしない男だった。ケニーに「ご苦労様」などの労いをかけたことなど一度もない。あるいは人扱いすらされてないのかもしれないとケニーは苦笑した。

 事務所に戻ると、地下駐車場に停めた自分のホンダCRVに乗り換える。

 そのまま真っ直ぐ自宅へ向かうつもりだったが、ドーナツ店の前を通りかかるとウィンドー越しに頬杖をつく彼女の姿が見えた。

 ケニーが店に入ると、セリーナは窓際の席に座っていた。テーブルの上には毒々しい赤色のチョコレートがコーティングされたドーナツが皿に乗っていたが、少しも口をつけていない。

 しばらく入口の所で立ったまま、ケニーは彼女を見つめていた。セリーナは赤いエナメルのポシェットからメンソールのタバコを取り出すと吸いはじめた。

「本当に待ってるとは思わなかった」

 ケニーが声をかけると、セリーナは顔を上げた。その拍子に白い煙を吐きかけられ、ケニーは思わず顔を顰めた。見た目で勝手に上品なお嬢さんと思っていたが、どうやら少し違うようだ。

「その席だと人目につくかもしれない。奥へ行っても?」

「何をそんなに怖がってるの?」

 セリーナは意地悪く返したが、ケニーの後からついてきた。二人で奥の席に着くと、セリーナはコーヒーを頼みなおした。ケニーも同じのを頼み、薄味のコーヒーに口をつける。

「あなたは何者?」

 セリーナの射るような強い眼差しを受けて初めて、ケニーは彼女が実は激しく怒っていることを悟った。

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