SCENE 3

 ラリーのことは以前から噂で聞いてはいたが、まさか対面し、しかも一緒に仕事をするはめになるとは思わなかった。

 黒人というのもあって、ケニーは元有名ヘビー級プロボクサーのことを思い出した。スーツを着てはいるが、その下に収まりきれない筋肉の形がそこかしこに浮き上がっている。

 ラリーが言うにはゴードンが直接ケニーを相棒にするよう指名してきたらしい。わけがわからない。だがゴードンの言うことに拒むという選択肢はなかった。

 ラリーはあまり口数の多い方ではなさそうだった。

 何をするのか質問すると「あんたはカメラ係だ。私と彼とのやりとりを録画してくれればいい」としか言わなかった。「彼」が誰なのか、何のやりとりなのかいまいちよくわからないが、ラリーの中では答えたことになったらしい。

 言われるまま運転してきた場所に停めると、ラリーに許可を得て、ケニーはマルボロを一本吸った。出会ってからずっと、ラリーはサングラスを外すことはなかった。それも何を考えているかわからないと思う要因だった。

「ラリー、彼って誰なんだ?」

 沈黙に耐えきれず質問すると、ラリーは胸ポケットから一枚の写真を出し、ケニーに見せた。

「これって……女の子」

「セリーナ・ゴードン、ボスのお嬢さんだ」

 ケニーはあらためて写真をよく見た。

 セリーナは青い壁を背景に微笑んでいた。ハイスクールを卒業する時に撮ったものだそうだ。

 こちらが目を細めたくなるほどの眩い笑顔。目の下に少しそばかすが散っているが、それもご愛嬌。

 学校ではいわゆるクイーンと言われる女の子だったに違いない。ポンポンを振って、脚を高く上げ下げしながら、アメフトやバスケを応援していたのだろう。彼氏はクォーターバックの筋肉野郎だ。

 ケニーはハイスクールもろくに行かなかったのでクラスメートの顔すら覚えていないが、自分とは真逆の世界にいたんだろうというのは写真だけで十分わかった。

「ハイスクールまではカリフォルニアだったが、こっちの大学に通っている。専攻は美術ではないが、芸術全般に興味があり……」

 ラリーがセリーナについて語るのをケニーは流すように聞いていた。だが彼の声や語り口調を聞きながら、低く、威圧感のあるそれにケニーは内心で首を傾げた。誰かを脅したいなら、それこそ彼だけで進められるのではないか。

「今年、ある講義を選択したのだが……」

「あのさ、その話はどこに繋がっていくんだ? おれのすることに関係が?」

「彼女だ」

 半ば苛立ちを覚え始め口を挟んだケニーに、ラリーは突然言った。

 ラリーの指示でイーストビレッジの一角にある五階建てのアパートの前に車を停めていた。そのアパートはケニーの家に比べれば小綺麗な外観だが、思ったより質素な建物だった。

 その入り口からセリーナが姿を現した。

 美しい髪をセンターから二つに分け、緩く結った三つ編みを胸の上にたらしていた。頭には黒いキャップ、胸の曲線がはっきりわかるようなストレッチTシャツにジーンズ。凡百の大学生らしい服装だった。

 もうすぐ二十歳になるらしいが、あまり化粧をしてないせいか写真よりも幼く見える。だが隙を見せないその歩き方はすっかりニューヨーカーだ。というより、周囲を警戒しているのか、時折背後を振り返る。

「なんか気づかれてるんじゃないか? 俺たちに見張られてるの」

「だからおまえを呼んだ。私の顔は彼女に知られてしまってるから。男の家に行くのは間違いないから、おまえが彼女のあとをつけろ。私は車で後から行く」

「なるほどね、了解」

 ケニーはセリーナの五メートルほど後ろを歩いた。探偵の真似事みたいな行為に多少緊張しないでもなかったが、セリーナは自分を知らないため、何度か振り返りはしたが、気づかなかった。その証拠に家から離れるにつれ、彼女の肩から緊張感が抜けていくのがわかる。

 自分が呼ばれたのはこのためなのか。彼女に顔を知られていないゴードンの部下がいなかったのかもしれない。あるいはこんなことに職場の部下を使いたくなかったのか。

 それにしても写真の印象とだいぶ違う。

 もちろん記念写真だから髪を巻いていたし、化粧もしっかりしていたのもある。対して今の彼女に派手さは感じなかった。ほぼスッピンに見えるその顔はむしろケニーの好みだった。

 セリーナは少し歩くと地下鉄に乗った。地下鉄を降りて向かった先はワシントンストリートに沿って建つアパート郡だった。レンガ壁の大きなアパートの前で立ち止まる。鍵をもらっているのか自分の家のように入っていった。ここが付き合っている男の家なのか。

 ケニーはラリーに連絡を入れた。



 紛い物のロレックスは夜の七時を指していた。昼間は暑いぐらいだったが、陽が落ちると肌寒い空気に変わるのは秋の訪れを感じさせる。

 反対側の歩道に横付けした車の中で、ケニーはラリーと一緒だった。

 ケニーにとって沈黙は拷問だった。ラリーが合流してから三時間、会話らしい会話を交わしていない。カーステレオは静かに曲を流しているが、あいにくとラリーの趣味はケニーが苦手なクラシックのようだ。

 当のラリーはチリドックとシーザーサラダを黙々と食べているが、彼女が入っていったアパートの出入口からほとんど目を離さない。

 ラリーはゴードンの陰の右腕だと以前レイフから聞いたことがあった。たしかに忠実な飼い犬だ。見張れと言われれば一年でも見張っているに違いない。

「この分だと彼女泊まって行くんじゃないかな」

 退屈のあまりケニーは、あくびを噛み殺すついでに声をかけた。

「彼氏の家なんだろ? ここ」

「ゲイリー・ブライドだ」

「は?」

「大学で時折、初等美術講座の講師をやっている。一応、パーソンズを出たらしいから、それなりに絵は描けるんだろう。さっき言いかけた話だがお嬢さんは今年ヤツの講座を選択し、終わる頃、交際が始まった。はっきり言うと、お嬢さんが勝手にヤツに熱を上げてるだけだ。ゲイリーは絵描きというよりは画廊の雇われオーナーなんだが、その社長の娘と……婚約している」

 ケニーはラリーに気づかれない程度にため息をついた。

 お嬢さんは男に婚約者がいるのを承知の上で割り切ってつきあっているのか。それともヤツから知らされていないのか。

 いずれにしろいい大人になろうとしている娘に大の男二人を使って干渉する時点で、ゴードンの溺愛ぶりにケニーは異様なものを感じた。

 ケニーはチーズバーガーの残りをコーラで流しこんだ。本当はビールが飲みたいところだったが、ラリーに禁じられた。飲酒運転なんて気にするタイプに見えないが、一応運転手だからだろうか。

「ラリー、はっきり言って、おれがいる必要はあるのか? 娘と別れろという説得なら、あんた一人で十分な気がするけど」

「最初に言ったと思うが……おまえは録画するだけでいい。ヤツが先に手を出したことがわかるように」

 ケニーは一瞬ぞっとした。つまりゴードンは(たとえ娘が自ら男に身体を投げ出したとしても)娘を傷物にした事が許せないらしい。これからゲイリーに起こることを想像すると、大事な部分が縮み上がりそうだった。だがケニーはそれを録画することを望まれている。

「まさか……殺すわけじゃないよな?」

 誇れるような生き方をしてきたつもりはないが、殺しだけは御免だった。

「その札束を見せれば一発だよ。指一本動かす必要もない。少なくともおれなら喜んで彼女から手を引くね」

 ケニーはラリーの背広の胸元をちらと見て言った。

 ケニー自身、ケンカしたことは全く無いとは言わないが、ラリーの大きな拳はおそらくハンマーで殴られたぐらいの衝撃はあるだろうことは容易に想像できる。それとも黒光りする革靴を履いた巨大な足が、腹に入ってくるのか。

「ケニー」

「な、なんだよ?」

「……彼らが出てきた」



「お願い」

「起きて」

「あぁ、どうして……上手くいかないの?」

(なんだ? この女の声、どこかで聞いたことが……誰だ?)



「魔女だ! 魔女が来たぁ!」

「うわっ、寄るなよ」

「触ると呪われるぞ!」

「やめなさいよ、先生に言うわよ!」

「だってよぉ、あいつのうち……」

 あちこちから子供の声が聞こえる。

 水色の壁、薄緑のロッカー。見たことがある。典型的な学校の廊下だ。

 ただし、ケニーの目線はうんと低くなっていた。

 廊下の両端に数十人、子供が集まっている。彼らの視線は向こうからやってくる子に集中していた。ケニーも顔をそちらに向ける。

「なぁ、おまえのかあちゃんってさ……」

 赤毛の少年がニヤニヤ笑いながら、子供たちの注目の的に声をかけた。

「やめなさいってば」

 諌めた少女の顔にも、意地悪な微笑が自分でも気づかずに浮かんでいる。

 そんな彼らの視線の先を、トースト色の肌の少女が俯き加減でこちらへ向かって歩いてきた。

 細かいウェーブの入った黒い髪は自分で切ったのか、長い部分と短い部分が揃ってない。

 ふいに少女は長い手足がからまりそうな勢いで駆け出した。邪悪な視線の波に耐えられなくなったのだろうか。

 だが彼女の足元に、誰かが足を出した。「あっ」ケニーが思った瞬間、少女は派手な音をたててリノリウムの床に転んだ。

 気づけば、ケニーはチビで近眼のマイケルに飛びかかっていた。

 「魔女」が転ばされたことに腹を立てたわけではない。ケニーは心の中で自分に言い訳する。

 こいつは前々からオレたちをバカにしていた。ホワイトトラッシュだって? なんだ、そりゃ。十二歳のおまえが学校でふんぞり返っていられるのは、商売上手なユダヤ人の両親がレミー通りでは一番大きなスーパーマーケットを経営しているからだろ。世界を掌握したような顔をしやがって。

 ケニーの拳がマイケルの顔に当たり、ぶ厚いレンズの眼鏡が床に落ちた。丸い小鼻から血が吹き出す。

 すぐに大きな太い腕が、二人を引き離した。

 ケニーが顔を上げると、割れた顎と大きな鼻の穴だけが見えた。男の荒い鼻息でケニーの前髪が跳ねる。

 学年担当の教師、リック・メルベルだ。ただ、ケニーは彼が授業をしているところを見たことがない。こういう荒事が始まった時だけ出てくる男だった。

「お前が先に手を出したんだな? ケニー」

 メルベルは誰かを贔屓するわけではなかったが、マイケルだけは例外だった。それは子供のケニーでもわかる。

 マイケルの父親はレミー小学校のP T Aの会長を四年も歴任していた。マーケットの在庫だか知らないが、毎年、寄付の名目で備品を大量に搬入している。

 ケニーは答える気をなくしていた。たしかに今回先に手を出したのは自分だが、ケニーが否定しようが肯定しようが、「やった」と決めつけられることは、十二年の短い人生でも十分理解していた。

 もうすぐ卒業だし、夏休みが終わればアイザック中学へ通う。今度こそホワイトトラッシュもブラックギャングも一緒くたの本物のゴミ溜めだ。

 メルベルの大砲のような腕を振り払うと、ケニーは外へ出て行った。表の通りの方が、彼にとってよっぽど居心地がよかった。

 ドラッグストアでマンガでも読もうかと思いながらケニーが石段を降りて行くと、途中で「魔女」が膝を抱えて泣いていた。ケニーは正直うんざりした。

 こいつはいつも泣いてばかりだ。おれみたいに少しはやり返せばいいのに。

「もう、もう……イヤだ。みんなママのせいだ」

 ケニーは苛つきながらも足を止めた。

「メソメソ泣いてんなよ。おまえもアイザックへ行くんだろ? そうすりゃマイケルもあいつの子分ともお別れだし――」

 だから、何だ? 同じような境遇の奴らが集まれば、苛められることもないのか。

 言いきることもできず、ケニーは途中で口をつぐんだ。

 ふいにティタ・ブラウンが顔を上げる。

 ケニーはそのとき何かを感じた。

 だが彼女の強い眼差しに気圧けおされ、すぐに忘れてしまった。

「同じよ! あたしが魔女の子であることには変わりないんだから!」

 その夏、ケニーはティタと何度か遊んだ。

 ティタが母親と暮らしているアパートとケニーが父親と暮らしているトレーラーハウスは一ブロックほどしか離れておらず、そのせいか行動範囲が重なっていた。

 ほかの友人と一緒の時はからかわれるのが嫌で声をかけることはなかったが、偶然会えばケニーはティタに声をかけた。必ずケニーの方からだった。ティタは何も言ってくることはなかったが、誘えば黙ったままついてきた。

 遊ぶと言ってもドラッグストアで万引きしたコミック本を空き地の隅で一緒に読んだり、映画館に姿勢を低くしてこっそり忍び込み、一日中同じ映画を見たり、なけなしの小遣いでNYCに乗って、イーストリバーが立てる波飛沫をじっと眺めたりしただけだ。その間、二人はほとんど言葉を交わすこともなく、ただ、一緒にいた。

 ティタがどういう気持ちであの時一緒にいたのか、ケニーは特に聞いたことはなかったが、お互い楽だからだと思っていた。ケニーはティタを誘う時はたいてい父親から殴られ、頬や目の下が青黒くなった酷い顔だったが、彼女はそれを見ても表情を変えず、何があったか聞いてくることもなかった。それがケニーには心地良かった。

 ほかの友人たちもさして裕福な家庭ではないが、ケニーの父親のように無職で酒に溺れてはいなかった。暗くなって帰って来なければ心配し、探し回る親兄弟がちゃんといた。

 友人たちはケニーの境遇に同情はしたが、救ってくれるわけではなかった。もちろん彼自身そんなこと望んでもいない。

 ただ、たまに彼らと遊ぶのが苦痛になる時がある。こうして殴られ痣を作った時などだ。

 そんな時、ティタは何も言わず付き合ってくれた。

 あるいはティタも家に帰りたくなかったのかもしれない。そう思うことがあった。

 すっかり暗くなっても彼女の方から「帰る」とは決して言わなかった。もしかしたら自分に遠慮しているのかと思い「帰れよ」と言うと、「バイバイ」と手を振るが、少し離れたところで振り返ると煌々と灯のついたスーパーマーケットの中へ入っていくのだった。

 そのとき、ケニーも後を追いたい衝動に駆られたが、帰ってこないなら来ないで父親に殴られるのだ。だから諦めて家という名の狭いトレーラーハウスへ足を向けた。

 ティタがあの日々を楽しんだのかどうか知ることなく、夏が終わり、中学へ進むと、二人はぱったりと会わなくなった。学校で時折姿を見かけても、ケニーから特に声をかけたりはしなかった。それまでと同じで、ティタの方から話しかけてくることもなかった。

 ティタと再会したのは、二十三の時だった。

 中学の悪友セバスチャン・ウォルツとふたたびつるむようになり、そのバズのアパートの向かいの部屋に住んでいるのが売春婦だと教えられ、興味本位ではないが出てくる女を見てみると、彼女だったのだ。

 ティタは変わっていなかった。

 いや、痩せぎすだった身体は女らしく蠱惑的になっていたし、いつも俯きがちだった顔は上を向き、堂々とケニーを見据えた。蜂蜜色の瞳は、当時と同じく彼を捕らえた。

 彼女は何も尋ねてこなかった。今まで彼がどうしてきたのか、今、どんな仕事をしているのか。それは彼女の職業ゆえだろうか。とにかくケニーにはそれが心地よかった。

 あの頃と違うのは、身体でも彼を癒してくれることだった。

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