第10話
昼の光が眩しい。
透は教室の窓際で、ぼんやりと空を眺めていた。
黒板に書かれた数式を目で追いながらも、頭の中には昨夜のことが渦巻いている。
『あなたは、夜の住人になれるかしら?』
琳の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「……透?」
肩を軽く叩かれ、透は小さく瞬きをした。
「また寝てた?」
隣の席で、陽太が呆れたように笑う。
「いや……起きてる」
「嘘つけ。さっき、先生が当てようとしてたぞ」
「……マジか」
透は少し眉を寄せた。
どうにも、昼の世界が薄く感じる。
「透ってさ、最近ほんとぼんやりしてるよな」
陽太が言うと、別の声が割り込んできた。
「幽霊でも見たんじゃない?」
柚葉だった。
彼女は透の机に手をつきながら、からかうように微笑んでいる。
「幽霊?」
「だって、最近の透、なんかふわふわしてるもん。まるで夜の世界に取り込まれた人みたいにさ」
透は一瞬、息を呑んだ。
「……そんなことない」
「へえ?」
柚葉はじっと透を見つめる。
「透って、幽霊より生身の女の子のほうが苦手そうだもんね」
「……またそれか」
「ふふ、冗談冗談」
柚葉が笑う。
透は軽く息を吐き、窓の外に視線を向けた。
ふと、琳の髪飾りが脳裏をよぎる。
緑のカーネーション。
「なあ」
透は、何気なく口を開いた。
「緑のカーネーションって、何か意味あるのか?」
柚葉が瞬きをする。
「え?」
「花言葉とか、そういうの」
柚葉は、一瞬きょとんとした顔をした。
「……なんで?」
「ちょっと気になって」
「緑のカーネーション……」
柚葉は、机に頬杖をつきながら考え込む。
「純粋な愛、だったかな。あんたがそんなロマンチックなこと気にするとはね。」
透は小さく息をのんだ。
——純粋な愛。。
琳の髪飾り。
夜の街灯の下、淡く揺れていた花。
「……そうか」
透は、何気ないふりで呟く。
けれど、その声は自分でも驚くほど掠れていた。
柚葉は、ふと透の横顔を見た。
彼は何を考えているのだろう。
「ねえ」
柚葉は、ごく自然な声で問いかけた。
「どうして急に、花のことなんて?」
透は、ちらりと柚葉を見て、少しだけ目を伏せた。
「別に。たまたま見かけたから」
柚葉は、それ以上は何も言わなかった。
けれど、心のどこかに、わずかな違和感が残った。
——透って、花のことなんて気にするタイプだっけ?
「ふーん……」
柚葉は、軽く微笑む。
「意外。透がそんなの気にするなんて」
「……そうか?」
「うん。なんか、ちょっといい感じ」
透は曖昧に微笑む。
柚葉は、何でもないふりをしながら、静かに観察する。
——透は何を考えてるんだろう。
——誰のことを思って、緑のカーネーションの意味なんて気にしたんだろう。
窓の外には、昼の光が降り注いでいる。
澄んだ空。騒がしい校庭。
けれど、透の中には夜の残像がこびりついていた。
緑のカーネーション。
琳の微笑み。
彼女は、あの花をどうして身につけているのか。
「……ねえ、透」
柚葉の声に、透は顔を上げる。
「最近さ、ちょっと変だよね?」
透は、柚葉の言葉を飲み込むように黙った。
「変?」
「うん、なんていうか……前より、考えごとしてること多くなったっていうか」
「……そんなことない」
「そう?」
柚葉は肩をすくめる。
「ま、いいけど」
軽く言って、彼女は席へ戻っていった。
けれど、その背中が遠ざかるのを眺めながら、透は小さく息を吐いた。
『最近、ちょっと変だよね?』
その言葉が、胸の奥に残っていた。
変わったのか。
——自分でも、わからない。
けれど、琳のことを思い出さない日はなかった。
―――
夜の蛇道は、静かだった。
入り組んだ細い道の先、街灯がぽつぽつと光を落とす。
透は、無意識のうちに足を進めていた。
「また、ここにいるんだな」
ふと、角を曲がった先に琳がいた。
街灯の下、長い髪が淡く揺れる。
微笑んだ琳の瞳が、夜の静けさをそのまま映していた。
「あなたもね」
透は、小さく息を吐く。
琳が、そっと首を傾げる。
「今夜は、少し歩いてみる?」
誘うような声だった。
透は、一瞬だけ迷ったが、頷いた。
二人は並んで歩き出す。
―――
「あなたは、この街をどれくらい知ってる?」
琳が問いかける。
透は少し考える。
「ずっと住んでるけど……夜の顔は知らないかもな」
琳はくすっと笑う。
「じゃあ、私が案内してあげる」
「案内?」
「夜の街は、昼の街とは全然違うわよ」
琳が、ゆっくりと歩を進める。
透は、彼女の後ろをついていった。
―――
えびす通りのパン屋の前に立ち止まる。
昼間は行列ができる店。
けれど、今はシャッターが閉まり、静まり返っている。
琳が、そっと足を止める。
「ここ、お昼はいつも並んでるのよね」
「知ってるのか?」
琳は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ええ。……昼の世界のことも、少しはね」
「少し?」
琳は、答えなかった。
透は、閉ざされたシャッターを見上げる。
夜の街は、まるで別の世界だった。
琳が、ぼそりと呟く。
「夜の街は、時々、人の秘密を隠してくれるのよ」
透は、その言葉に違和感を覚えた。
「……どういう意味?」
琳は、ゆるく微笑むだけだった。
夜風が吹く。
二人の影が、静かな街路に伸びていた。
―――
えびす通りを抜け、二人は駅前へと歩いていた。
昼間は人で溢れる場所。
けれど、夜の駅前はどこか寂しい。
コンビニの灯りが路面をぼんやりと照らし、
煌々と光るビルのネオンが、人工的な影を作り出している。
「夜も、人が少しいるわね」
琳がふと呟く。
「まあ、池袋も近いしな」
透は何気なく答える。
琳は、静かに駅の方を眺めた。
「眠らない街……ね」
その声は、どこか遠くを見つめるようだった。
透は琳の横顔を盗み見る。
街の光に照らされた彼女の表情は、いつものように微笑んでいるのに、
なぜか、ほんの少しだけ寂しげに見えた。
琳が、ふと足を止める。
駅前のガラス壁に映った自分の姿を、じっと見つめていた。
「……どうした?」
透が尋ねると、琳はゆっくりと振り向いた。
「……なんでもないわ」
そう言って微笑む。
けれど、その笑顔はどこか曖昧だった。
透は、琳の言葉をそのまま受け取ることができなかった。
琳が視線を駅の改札へと向ける。
そこには、帰路につく人々の流れ。
「この街を出たこと、ある?」
「まあ、旅行とかでは」
透は何気なく答える。
琳は、小さく息を吐いた。
「ふうん。……私は、この街にいるわ」
「ずっと?」
琳は、一瞬だけ透を見つめる。
そして、少しだけ目を伏せた。
「……そうね」
その答えが、透の中で何か引っかかった。
琳は、なぜ「ずっと」と言い切らないのか。
琳にとって、この街は何なのか。
夜風が吹く。
駅の人工的な灯りの下、琳の緑のカーネーションが淡く揺れていた。
「こっちへ来て」
透は、少し戸惑いながらも、そのあとを追う。
琳が、不意に手を伸ばした。
その指先が、透の袖口を軽く引く。
「……?」
琳は、何でもないような顔で微笑んだ。
「迷わないように」
冗談めかした声。
けれど、その仕草はどこか、ほんの少しだけ甘く感じられた。
透は、自分でも理由が分からないまま、胸の奥に何かがざわつくのを感じる。
二人は、駅前を抜け、静かな通りへと歩を進めた。
「夜の街は、時々、人の秘密を隠してくれるのよ」
琳がぽつりと言った。
透は、その言葉の意味を考える。
「それって……君のこと?」
琳は、透をじっと見つめた。
「もしそうなら?」
透は、答えられなかった。
琳の視線は、夜の闇と同じくらい深く、
そこに溶けてしまいそうだった
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