2杯目

「……なぁ、真之なおゆきくん」


 なだらかなピアノの旋律は、真琴まことの耳をくすぐり、たなびくように通り過ぎていく。


「どうしましたか、真琴さん?」

 

 カウンターの他には、二人掛けと四人掛けのテーブルが一台ずつ。

 決して広いとは言えない店内には、ふつふつと沸き上がるたおやかな茶の香りが満ちあふれていて、すぅと吸い込むたびに幸せな気分を与えてくれるし、わずか四席しかないカウンターのむこうからは、店主が気軽に問いかけに応えてくれる。


「いや。……あんまりにも居心地が良すぎてね。このままじゃ眠っちまいそうだったから、声を出したかっただけさ」


 そんな、どこを切り取っても心地よい気持ちにさせてくれる、このティーハウス《ナデレヘン》は、真琴にとって、最高にして最強の空間だった。


「ダメですよ。お昼からもお仕事があるんでしょう?」

「相変わらず、つれないねぇ。そこはもう少しこう、優しい言葉をかけてくれても良いんじゃないかい」


 唯一、店主の優しさが足りないのが、不満どころではあるのだが。

 

「俺なりの優しさですよ。午後一発目から遅刻した、なんて叱られたくはないでしょう?」

「あぁ、もぅ。そういうことを言うなよぉ。真面目かっ」


 眠っちまいそう“だったから“、などと言いながらも、腕枕をほどこうとしない真琴のまぶたは、閉じきってしまいそうで。

 まったく……なんて嘆息しながら、真之は準備しておいたお茶をコトリとテーブルの上に置いた。

 

「えぇ、俺は真面目なんです。さ、起きてください、お茶でも飲んで目を覚ましてください」

「ゔ〜、イケズだねぇ、本当に……」


 をしながらも、真琴はまぶたを擦りながら、もたもたと起き上がったのだが。


「……なんだい、この香り?」

 

 ふ……っと鼻先にふれたその馥郁ふくいくとした香りに、真琴の意識はすみやかに目覚めさせられる。


八女やめ玉露ぎょくろです。少し濃いめに出していますので」

「……ボクの好みを把握しすぎじゃないかい、キミ」

「常連様の好みぐらい把握してますよ。これ飲んでお昼からも頑張ってください」


 真之は知っている。

 このお客様は、美味しいお茶の前では、素直なのだと。


「……はぁっ。わかったよ、もぅ」


 湯呑みをかたむける。

 さぁっ、と吹き抜ける茶の香りは鮮やかに立っているのに、熱すぎず、けれど決してはない。

 

 まるで飲み口まで完璧に計算されているようで、舌打ちしたくもなるけれど。

 やわらかな緑茶の甘みに包まれた舌が打てたのはつづみだけ。結局なんにも言えないまんまで。


(悔しいけれど……、ね)

 

 仕方ない、お昼からも頑張りますか、と。

 気分を入れ替えさせてくれるこのお店は、やっぱり真琴にとって、最高で最強の空間なのだった。



――――――――――



 《ナデレヘン》は、ティーハウス。

 珈琲よりも、洋の東西を問わぬ茶に注力した、街の茶房。


 繁華街から少し外れた街角で。

 今日も静かに営業中。



――――――――――


2杯目. ロイヤルミルクティー


――――――――――



「そんなわけでね、午後からのボクは、頑張ったんだよ」


 カウンターテーブルの、壁側からかぞえて三番目。

 真琴は、溜め込んだ疲れを肺から吐き出して、ぐったりと突っ伏していた。


「お疲れ様でした、真琴さん。……そして本日二度目のご来店、誠にありがとうございます」

「うむ。常連客を存分にもてなしたまえよ」


 言葉尻は軽いけれども、それでも昼よりはあきらかに疲れが混じった声色に、彼女があれからたどったのであろう激務の痕跡が感じられた。


「ちくしょう、なんだよ企画の修正が必要って。その話は先週さんざんやっただろう、馬鹿野郎」


 急にぼやきがはじまって、真之は伸ばしかけていた手をそっと戻す。


 ああ、これは独り言に見せかけた、愚痴の垂れ流しだ。垂れ流しだが、垂れ流させているだけでは、このお客様は満足しないことを、真之は理解している。


「大変でしたね」

「そうさ、聞いておくれよ――」


 疲れきった、しかしはげしさを伴った女の声が流れるたびに、男はひとつ相槌あいづちを打つ。

 

 ときおりため息がこぼれだし。

 その数が両手の指ほどに達した頃。


「なにか、のみたい」


 言いたいことだけ言ってテーブルに顔を突っ伏した真琴が、ぽつりとつぶやいた。



 ここで、なにかとは? などと聞き返しても真琴は答えないだろうと、真之は察する。


 ちらり、飛んでくる視線に。

 無茶振りだと思いつつも、考える。


(さて、どうしたものか)


 二人の間に流れるのは、沈黙。

 

 店内はいつもの通り、ピアノ音源の有線放送が流れているのに、そとから聞こえてくるざわざわとした夜の喧騒ばかりが、耳に届く。


(ああ、こういう時は)


 真之の頭に、ひとつの案がひらめいた。

 そのひらめきに従って。まずはミルクパンに水を注ぎ、カチ、と火を灯したコンロにセットした。

 

 ぼうぼうと火が燃える音。ふつふつとお湯が泡立つ音。

 それらはそとの世界から聞こえてくる音と混ざり合い、ふしぎなを生み出していく。

 

 しっかりと沸騰した湯を火から上げると、茶葉をふわりと舞い踊らせる。


 蓋をして。

 じっくり、じっくりと、葉を開かせ、香りをふくらませたら、蓋をひらく。


 ぶわっと華やかな香りが、あたり一帯に広がった。


 ひくっ。

 カウンターのむこうで、突っ伏したお客の耳が動いたのが見えて、一瞬手が止まる。思わず笑いがこぼれてしまったのは、止むを得まい。


 そこにミルクを注いで、また火にかける。

 ごく弱火のまま、ゆっくりと。時間をかけて、ゆっくりと。


 ゆらゆらと鍋から立ちのぼる湯気に混ざり、温められたミルクの甘くやわらかな香りが立ちのぼり始めたら、あらためてもう一度、蓋をする。


 今度は香りを鍋いっぱいに閉じ込めるように。


「ミルクティーかい?」


 いつの間にか顔を上げていた真琴が、じっ、とこちらの手元を見つめていた。


「えぇ。……真琴さん、アルコールはいけますか?」

「お? 珍しいことを聞くね。平気だよ」

「では今回はこれにしましょう」


 準備したミルクピッチャーに流し込むのは、廃蜜糖モラセスから造られた蒸留酒。


 温めていたティーポットに、茶こしを通して鍋からティーを注ぎ入れ。

 最後にいつものカップに更に注げば、出来上がり。


「どうぞ。ルイボスベースで淹れてますので、ノンカフェインですからご安心を。こちらのスティックシュガーとラム酒は、お好みでお入れください」

「ほほぅ、相変わらず抜かりがないね」


 そっと置かれた、ティーカップ。

 さっそく手に取り、その香りを堪能したいと思うが、その前に。


「ラム酒の量は、どのくらいがオススメだい?」


 先に店主に問いかける。

 

「俺のオススメはその全量ですが。あとは真琴さんの体調で……って」

「オススメには素直に従うことにしているんだ」

「……今後、気を付けておきますよ」

 

 くすりと笑いがこぼれたら。


 お気に入りのカップをたぐりよせ、口元に寄せて、すぅとひと口、ひと息に飲み込む。

 

 さっきまで近くを漂っていた香りが、まるでぎゅうと押し固められたように入ってきて。


「はは……たまらない香りだね、これは……」


 それが一気にはじける感覚に、真琴はたまらず息を吐く。


「あたたかいミルクには、ラム酒の香りが特にハマりますからね」 

「成程。ちなみにボクがお酒飲めなかったら、どうしてたんだい?」

「その場合はシュガーも無しで、カラメルソースを作るつもりでしたよ。ラム酒に比べると香りは落ちますが、香ばしさはそっちの方が上です」

「へぇ、それも美味しそうだ」


(本当に、ボクの好みを把握しすぎだろう)


 悪い気はしない。いやむしろ……とも思うのだが。


(まったく。ハマっているのは、ボクの方だと言うのに)


 手のひらで転がされているようで、舌打ちしたくもなるけれど。結局打てるのは、今回も舌鼓したつづみだけなのだ。


 

 ――かち。かち。

 聞こえてくるのは、時計の針が、時を刻む音ばかり。


 そう言えば他の音……、そとが静かだなと思ったら、時計の針は八をとうに過ぎ、九に近付こうとしていた。


 

「……もうこんな時間かい。すまないね、遅くまで居座っちゃって」


 くっ、とカップを大きくかたむけ、ぐっ、と残りをあおるように飲み干した。

 

「真琴さんの無茶ぶりには、慣れましたから」


 そんなクールな店主の言葉に、真琴はむっと眉を寄せる。


「真之くぅん、キミはもう少し、女性に対する配慮というものを勉強したまえよ」


 言いつつも、口元はニヤリと歪んだまま。

 

「……精一杯しているつもりなのですが」

「つもり、じゃぁダメなんだよ。配慮や気遣いというものは、相手に伝わらなきゃあダメなんだ。だからその為に、最大限アピールをするんだよ」

「……どうすれば、良かったんですか?」

「ふふん、そうだねぇ――」


 人差し指を頬に当て。

 考える。振りだけする。

 そして先程と同じく。店主に視線で合図する。


「ボクはね、仕事終わり、ナデレヘンここが閉まる前に、と急いで来たんだよ」


 見せつけるように、お腹をさする。

 真之の目が一瞬丸くなる。


「……閉店後の片付けも有るんですから。少し、待っててくださいよ」

「ははは、勿論。……待つよ、いくらでも」


 けれどそれもすぐに元通り。


「なにが食べたいか、お店決めといてくださいね」


 真琴は知っている。

 この店主は、無茶な要求にもきちんと答えてくれるのだと。


「ボクの行きたいところくらい、察してくれたまえよ。常連客の好みくらい、把握しているんだろう?」


 《雨上がりNa de rehen》の後は、澄んだ空に出会えるはずだから。



――――――――――



 《ナデレヘン》は、ティーハウス。

 珈琲よりも、洋の東西を問わぬ茶に注力した、茶餐廳。


 繁華街から少し外れた街角で。

 今日はこれにて営業終了。



――――――――――


ロイヤルミルクティー


 出した紅茶にミルクを注ぐのではなく、温めたミルクで茶葉を開いて作るミルクティー。

 ミルクを注ぐ前に湯を沸かし、先に茶葉を入れて蒸らしておくことと、ミルクを注いだあともゆっくり低音で温める(温めすぎないこと)のがコツ。

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