雨上がりは澄んだ青空
ムスカリウサギ
1杯目
その日は朝から、しとしとと冷たい雨が降り続いていた。
ざあざあ、と言うほど激しくなく。
ぽつぽつ、と言うには雨量が多い。
ただ延々と空から落ちる雫が、道を濡らし、街を冷やす。そんな日の昼下がり。
(ああ、これは、今日辺りかな)
勘、というよりも、確信めいた直感で、
そのティーカップを気に入って、まいたびそれを指定してくる、彼女の為に。
カラン、カラン。
やがて正面のガラス戸が開かれ、設置されていた
「やあ、真之くん。今日も来たよ」
鳥が歌うような、細く、けれど張りのある美しい響きを伴った声が、真之が店主を務めるこの店中に響き渡った。
「いらっしゃい、
店主の声に、真琴はひらひらと手を振ると、雨露で濡れた傘を傘立てに沈ませて、店主の立つカウンターに視線を移した。
真之がそっと手でカウンターを指し示すと。
彼女は正しく示し合わせたように、にこりと笑って席に着いた。
「今日のおすすめは、何だい?」
ふわり、柔らかな白絹が流れるように、淑やかな仕草で。
――――――――――
《ナデレヘン》は、ティーハウス。
珈琲よりも、洋の東西を問わぬ茶に注力した、街の茶房。
繁華街から少し外れた街角で。
今日も静かに営業中。
――――――――――
1杯目. カモミールティー
――――――――――
「
「やあ、相変わらず気が利くね。有難く使わせてもらうよ」
ふつふつと、ポットが音を立てている。
いつでもカップを温められるぞとアピールするように。
けれど残念、少し待て、と。
このお客様は、ほんの少しだけ、焦らし癖があるのだから。
まずはそう。ケトルに水を注ぎ、火にかけるところから始めなければ。
「今日は寒いね、真之くん」
「えぇ。この雨のせいで、日中でも15℃を超えないらしいですから」
「成程、道理で、寒いわけだ」
濡れた髪をタオルで挟み、髪にまとわりついた水気をゆっくりと移していく。
真琴の顔が、タオルが、動くたび。ふわと髪が浮き、揺れた空気は、茶の香りが充ちた店内に溶け込んでゆく。
仕上げとばかりに、体を曲げて、服やふくらはぎを拭き取ると。小さく吐息を吐いて、タオルをパンっとはためかせる。
「ありがとう、実に良いタオルだ。あっという間に乾いたよ」
「綿100%です。あ、使い終わったタオルはこちらに」
「ほほぅ! 流石は真之くん。わかっているねぇ、こだわっているねぇ。ほい、ここだね」
「真琴さんのように髪の美しい
「ははっ、まったく口の上手い男だ」
カウンターにひっそりと置かれていた籐かごに、真琴はそっとタオルを乗せる。しっとりと湿ったタオルは、役目を終えたとばかりに綺麗に折り畳まれていた。
ふむ。
真琴は手を組んで、それにもたれかかるように
「さてさて。では髪のみならず、全身冷えきっているこのボクを、真之くんは一体全体、何で温めてくれるのかな?」
そして楽しそうに、試すように笑いかけ。
真琴は問いかける。
その挑戦的な瞳を受けて。
真之は悠然と笑みを返すのだ。
「ではこちらを試してみませんか?」
取り出されたのは、
真琴はそれに顔を近づけ、
「……ほぅ、やや乾物臭さを感じるが、すぅと鼻に抜けていく酸味を帯びた香りは、妙に馴染み深いね。しかしこれは花? かい?」
「カミツレ花。つまりカモミールティーですね」
「カモミールか。そりゃあ馴染みがあるはずだ。いつもアロマなんかでお世話になっているよ」
言いつつ、カミツレ花の粒をつまみ上げ、しげしげと眺める。
「へぇ成程。いつもお世話になっているが、こうして原材料のままの形を見るのは、恥ずかしながら初めてだよ」
「ご自宅でカモミールティーを
カミツレ花を興味深げに見つめる真琴を尻目に、真之は先程取りだしたティーカップにポットから湯を注ぎ、じんわりじんわりと、カップを温めはじめる。
「ふふ、ああ、楽しみだねぇ」
つまんでいた花の粒をそっと懐紙に戻し。真琴はとろりと
たんとん、と雨足が窓を叩く音。
しゅんしゅん、とケトルが沸騰を告げれば、店主はそっと火から下ろす。
こぽこぽと、カミツレ花を入れたティーポットに湯が注がれると。
「いい香り」
優しく、香りが広がっていく。
「どうぞ」
温めていたカップに落とされたカモミールティー。
かしゃ……とソーサーから持ち上げられたカップから、真琴の唇に触れ、静かに
「…………っはぁぁぁ……」
吐き出された蒸気は白をまとい。
カップから立ち上るそれと混ざり合い、場を、空気を、温めていく。
「ああ、うん、いや、流石だね真之くん。少し気分が沈みがちなこんな日には、この華やかな香りが、とても良い」
「どうぞ、ごゆっくり」
「……つれない男だ」
ぱたぱた、あるいは、ぽたりぽたり。
霧よりは雫の形を保った雨粒は、リズム良く音を響かせて。
店内に流れる有線放送、ゆるやかなピアノ曲と重なって、まるでそとの世界から
「……なぁ、真之くん」
「……どうしました?」
顔を上げ、視線をなげかけた真琴のそれと、なげかけられた真之のそれが、直線を描く。
「なぜ、そんなに遠くにいるんだい?」
「気を、きかせたつもりだったのですが……」
ティーを提供したら、いつの間にかそっと数歩距離を取り作業をしていた店主に、この子供のような客は眉を寄せつつ苦い顔をした。
「ホントにつれない男だね。……こういうときは、側にいてくれていいんだよ」
じっと。焦らし癖のあって上手く気持ちを伝えられない客から篭められた熱が、口は上手い癖に女の扱いは下手な店主に、視線を通して伝わっていく。
「では、そうしましょう」
「ああ、そうしたまえよ」
互いの距離が近付いた。
カウンターという
この距離感が、丁度いい。
最後に、こくりと、真琴の喉が音を鳴らせば。
「ご馳走様」
この穏やかな時間は終わりを告げる。
店主は何も言わず、首を縦に一度だけ振り。
それを見て客は、つまらなさそうに朗らかに笑うのだった。
レジで支払いをしつつ、手にしたスマホを操作して。
ふと思い立って真琴は画面をタップした。
「おいおい真之くん。ちょいと調べてみたら、カモミールは妊婦に与えてはいけないと書いているよ。キミはボクが妊娠している可能性を考慮してくれなかったのかい?」
検索結果を表示した画面を、真之に見せつける。
けれど彼は表情ひとつ変えずに応える。
「……まぁ、真琴さんなら心配ないだろうと」
「よーしわかった、売られた喧嘩なら買うぞ? いくらだい?」
「丁重に販売拒否させて頂きます」
とても丁寧で美しいお辞儀に、真琴はふんっと鼻を鳴らす。
「まったく。……はて、なんだかお腹の底から、じんわりと温かいねぇ」
「先程のカモミールティーには、ドライジンジャー、つまり生姜を加えていましたので、その効果があらわれているものかと」
「はっ、抜かりない細やかなサービス、痛み入るよ」
「恐れ入ります」
カラン、カラン。
そして正面のガラス戸が開かれ、設置されていた
「じゃあね、真之くん。また来るよ」
鳥がなくような、細く、けれど張りのある美しい響きを伴った声が、《ナデレヘン》に響き渡る。
「はい。いってらっしゃい、真琴さん」
店主は手を振り、客もまたひらひらと手を振ると、雨露で濡れた傘を傘立てから取り出して、そとの世界に視線を向けた。
「ああ、雨も上がっていたか」
雲の切れ間から差し込む光。
傘をさす必要がなくなって、良かったような、それはそれで面白くないような。
「ま、良しとしよう。やっぱり暖かい方が良いからね」
傘をそっと腕にかけ一歩を踏み出すと。
濡れた地面を乾かしていく太陽のように、晴れ晴れと前を向いて帰路に着いた。
ふわり、爽やかなカモミールの香りをまとわせながら。
――――――――――
《
珈琲よりも、洋の東西を問わぬ茶に注力した、街の茶房。
繁華街から少し外れた街角で。
今日も静かに営業中。
――――――――――
カモミールティー
酸味と甘味をあわせた、青リンゴのような香りが特徴的なハーブティー。筆者は大好きですが、好みはわかれるかも。
主な原料となるジャーマンカモミール(和名カミツレ)は、キク科に属するため、キク科アレルギーの方は要注意。
また本文中にもある通り、妊娠中の女性は避けましょう。
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