第7話 逢引


布張りのメニュー冊子をテーブルの端に戻しながら、椿は店内を見渡した。オーシャンビューのハワイアンカフェは内装もお洒落に設えている。天井で換気扇のプロペラがゆったりとした速度で回転していた。

「前に来たときはそんなに混んでなかったんだけどな」

麗の向かいの席に座った椿は不思議そうにしている。

「日曜日だからじゃない?」

店内は見事に満席で、2人も席に通されるまで20分ほど並んだ。椿が連れて来てくれたこのカフェは結構流行っているらしい。隣の席に運ばれてきたロコモコ丼が美味しそうな匂いをさせていて空腹を刺激された。椿は身体を捻って窓の外にスマートフォンのカメラを向け、景色を撮っている。対岸の江の島がロケーションが売りなだけあって、海岸と島がしっかりと見えた。

「こっちの席と交換しようか?」

私の方からは椿の後ろの海が見えたので聞いてみたが、椿は「そこまでじゃないからいいよ」と言う。あとで店の外に出ればガラス越しでなくても見えるので、2、3枚写真を撮れたら満足だったようだ。

ストローでアイスティーを吸うと爽やかな香りが喉を通った。空っぽの胃の中に落ちて、空腹を実感する。

「お腹空いたぁ。早く来ないかなぁ」

この込み具合だと配膳まではもう少しかかるだろう。

「麗って細いのに結構食べるよね」

「食べた分動いてるからかな。たまに朝とかランニングしてる」

「そうなの? どうりで痩せているわけだ」

「そういう椿こそ、ちゃんと食べてるの?って感じだけど」

「最近ちょっと太ったくらいだよ」

「嘘だぁ」

取り留めのない会話をしている間に食事が用意され、少ししてからパンケーキが2皿運ばれてきた。麗が注文したパンケーキには山盛りの生クリームと苺がふんだんに盛られている。生クリームだけで20cmくらいの高さがありそうだ。これは食べ応えがありそう。どこから食べようかとナイフとフォークを握っていると、椿がくすりと笑った気配がした。

「気づいてたけど麗ってかなり甘党だよね」

「傘屋に通いすぎて味覚が変わったのかも」

「そろそろうメニューをコンプリートできそうなくらいだもんね」

椿の前に置かれたパンケーキの上にはカリカリに焼いたベーコンと目玉焼きが乗っている。別添えのメープルシロップをかけて食べるらしい。アメリカの朝食にありそうな感じだ。甘じょっぱい味がしそう。

「半分こうしようよ」と椿が言い、麗は「賛成」と皿を差し出した。パンケーキを1枚ずつ取り皿に盛って交換した。

まずは自分で頼んだ方のパンケーキを口に入れると、パンケーキの生地そのものは甘さが控えめだった。食感はしっとりしていて、噛むとバターの香りがする。生クリームも見た目こそボリューミーだが軽い触感でさっぱりしているので案外ぺろりと食べられそうな感じだった。自分好みの味でラッキーだと思う。

椿は上品に一口ずつナイフで切り分けながら食べ、静かに頷いていた。

「これならうちでも作れるかも」

「傘屋で?」

「うん。傘町さんがそろそろ新メニューを出したいって話していたから」

「こんなときでも仕事のこと考えてるの、椿らしいね」

「真面目すぎ?」

「いいことじゃん。真面目っていうか一生懸命っていう感じ」

「そうかな?」と椿は首をかしげた。

今日はいつもよりおめかししていて、椿は白いシャツワンピースを着ていた。ふんわりとしたリネン混の生地が夏らしく、椿によく似合っていた。

「今日の私たち、似てたね」と椿が言う。

「ほんとにね」

麗の服装は黒いレースのワンピースだった。二人ともワンピースにサンダルという似たような恰好をしていて、お店の店員さんに「姉妹でお出かけですか?」と聞かれたくらいだ。椿は照れているようだったが、麗は後ろでむすっとしていた。私たちは姉妹じゃなくて友達で、今日はお出かけじゃなくてデートのつもりなんだけど。


パンケーキを平らげて満腹になり、店を出た。日差しが強くて、椿が日傘に入れてくれた。一つの傘の下で二人で歩きながら向かった先は、江ノ島水族館。

扉を引いて中に入ると、冷房でキンと冷えた空気が心地よい。大きなウミガメのぬいぐるみが山ほど積まれていて、あれ、と思う。水族館の入り口だと思っていたが、お土産の売店の入口だったみたいだ。

「ここ、入口じゃなかったね」

出ようかと思ったが、椿はお土産の棚に吸い寄せられていた。入口から入ってすぐの什器の前で商品を眺めていた。椿の横に並んで見ると、クラゲのグッズが1か所に集められていた。クラゲのぬいぐるみや、クッキーや、靴下、ボールペン、スノードーム……。水色と白を基調にしたコーナーはいかにも椿が好きそうな色味をしていた。

「どうかな」と、椿が商品を一つ手に取って見せた。ビーズでできたクラゲのキーホルダーだ。細かいビーズを編んでミズクラゲの丸いフォルムが作られており、触手はチュールやビーズを組み合わせられている。繊細な作りで椿が好きそうなデザインだと思った。

「可愛いね」

キーホルダーを持って目を輝かせている椿が可愛い。

「買っちゃおうかな」

「まだ実物のクラゲは見てないのに?」

「見てないのにね、ふふ。ちょっと待ってて」

椿は店の奥でお会計して、すぐに戻ってきた。すぐに付けるから袋は貰わなかったらしい。

「はい。麗にも」

「買ってくれてたの⁉」

「嫌なら返して」

「絶対返さない!!」

椿の手からキーホルダーを受け取って、ハンドバッグの持ち手に結んだ。歩くとクラゲがゆらゆら揺れる。

「ありがとう」

「まだ本物は見てないけどね」

「でも、可愛いからいいでしょ」

椿もショルダーバッグにクラゲをつけていた。

お揃いのキーホルダーをつけて、改めて入館口に向かった。

今日の椿は楽しそうだ。日曜日に遊ぼうと提案したのは麗だったが、具体的に江の島周辺にしようとアイディアを出してくれたのは椿だった。椿は「久しぶりに行きたいと思っていたんだ」と、カフェのことも調べていた。

二人で一緒にいると心は穏やかなのに、時間の流れは早く感じる。水族館に入ってからは殊更あっという間だった。

イルカショーで水を被って、カピバラを撫でて、ナマコを触って。歩いたり休憩したりを繰り返し、お目当てだったクラゲのアクアリウムに着いた。

クラゲのコーナーはかなり混みあっていた。どの水槽の前にも人だかりができている。暗幕に包まれたように照明数を絞った室内では、人影も黒い影の塊のように見えた。

人混みの中ではぐれてしまいそうで、一歩前を歩いていた椿の小指を握った。振りほどかれたらやめようと思っていたけど、椿はほどかなかった。麗の指だと分かると、恐る恐る握り返してきた。球体の水槽の中でクラゲがふわりふわりと泳ぐのを眺めながら、胸が強く脈打っていた。

天井まで高さのある大水槽の広場まで出てくると、人が少しまばらになり、自然と小指を離した。水槽がトンネルのように頭上まで広がっている通路を歩くと、二人の頭上でガラス越しに魚の腹鰭が見えた。頭上を見上げてから、椿がおもむろに「今日のこれ、デートみたいだね」と呟いた。

「デート、なんじゃない?」

「二人で出かけているからっていう意味でのデート?」

椿が振り返る。

「それとも、これはデートの練習?」

「…………練習?」

「前に言ってた好きな人がいるっていう話」

忘れたの?と椿が言う。記憶をさかのぼると、好きな人がいるのだと言ってしまったこともあった。すっかり忘れかけていた。椿はそんなことも覚えていたのか。

水槽に手をついている椿の横に立ち、麗は口を開いた。

「私の好きな人ね、椿なんだよ」

二人の上を大きなマンタが通り過ぎた。ゆっくりと影が通りぬけて、明るくなる。水色の、水中みたいな色の照明の下で、椿は微動だにしなかった。

「……これも、告白の練習?」

「違う! 全部本当。私は椿と付き合いたいの」

二人の足元で魚の影が泳いでいる。これで振られたらどうしよう、とか、そんなことは考えていなかった。ただ今ならずっと思っていたことを口に出したとしても、その先に道が続いている気がしたのだ。

椿が何かを言うのを待っている間、麗には物凄く長い時間に感じられた。

「わたしも、麗が好き。友達以上の意味で」

「……!!」

椿が、好きと言ってくれた。友達以上の、意味で。歓喜で上唇がわなわなと震えた。

「でも、今のわたしじゃ麗とは付き合えない」

「え、……どういう、こと」

「麗は悪くない。わたしの問題なんだ」

ごめん、と椿は謝った。「ごめん」は椿の口癖だと思う。そうやって謝られるたびに、私はどうしたらいいかわからなくなる。今だってそうだ。どうして? どういうことか頭が理解することを拒んでいる。

鞄に付けたクラゲのキーホルダーを握りながら、麗は何も言うことができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る