第8話 -1 始点

椿はこれまで週4日以上傘屋のシフトに入っていたが、しばらく休みを貰うことにした。電話越しに話すと、傘町さんは詳しい事情を詮索せずに「いつでも戻ってきてくれて構わないからね」と快諾してくれた。

その電話が切れたらスイッチが切れたように何もできなくなってしまった。

数日間は最低限の風呂と食事とトイレに行くとき以外は布団の中から出ることができずにいる。頭まで被った毛布の中で身体を縮こまらせて目を瞑っている間に朝がきて、昼をやり過ごし、長い夜を耐えている間に眠りに落ちて、また朝になる。

麗と水族館で別れたあと、どうやって家まで帰ってきたのかあまりよく覚えていない。霞がかった思考の中で、自分のことが嫌いだということを何度も繰り返し思った。今は誰にも会いたくない。誰かに会えるような状態ではなかった。

それでも身体は生きていて、機能が止まることはない。日中は室内にいても暑くて、扇風機の風量を中から強に切り替えようと布団から出た。畳の上を膝脚で歩いて、ボタンを押すと勢いよく風が吹いて髪を靡かせた。涼しい、と目を瞑っていると、隣の部屋から物音がした。大きなものが落ちた気がする。

椿の隣の部屋は祖母が使っていた和室だ。襖をあけて中に入る。埃っぽいにおいがして、そういえば最近はこの部屋に入れていなくて、祖母とも話せていなかったことを思い出した。

畳の上に落ちていたのは、弓道用の弓だった。壁に立てかけていただけだったので落ちてしまったのだろう。しゃがんで弓を拾い、弓が地面と垂直になるように立てて持ち上げる。久々に触った弓は、ずっとわたしのことを待っていたようだった。

そっか、わたしが引き籠ってばかりいたから、おばあちゃんが心配してわたしをこの部屋に呼んだんだ。すっと胸の中に浮かんだ。

そろそろ外に出ろ、と言っているのかもしれない。弓袋を取り除いて、弓本体の滑らかな木の表面を撫でた。表面についた小さな傷は、それだけ長く使ってきた証拠だ。

わたしはわたしのことが嫌いだけど、でもそれが前に進まないことの理由にはならないよね。

心の中で祖母に問いかけた。


それからは、以前借りたことのあった弓道場に通った。しばらくは矢は使わずに感覚を取り戻すための練習をし、弓の感覚が戻ってきたら矢を持つようにした。他の門下生の練習がない日に借りていたので、弓道場には椿以外に人はいない。寺の中にある弓道場なだけあって、清涼な空気が心地よい。

一礼してから的前に立ち、弓を構える。弓の重みも手袋の感触も、以前と変わらずに手に馴染むけれど、緊張する。ずっと射場に立つのが怖かった。でも今は、ここに帰ってきている。

麗に告白されたとき、素直に驚いた。麗には別に好きな人がいるのだと思っていたから、それが自分だと知って、飛び跳ねてしまいそうだった。嬉しい、すごく嬉しい。だけどそれよりも、この人に不幸になってほしくない、と思ってしまった。

自分と付き合っていることが同じ学校の生徒に知られたら、麗の生徒会活動に響きかねない。大好きだからこそ、傷ついてほしくない。わたしみたいに後ろ指を指されてほしくない。麗は太陽みたいな人だから、あの眩しさが陰ってほしくない。

それに、わたしはわたしが嫌いで、認めることができない。でも、それは麗には関係がないことだ。自分に自信が持てないなら、取り戻せるようにしたらいいだけ。

弓を射る。外れる。当たる。外れる。外れる。矢を見れば集中できていないことが丸わかりだ。精神が統一できていなければ安定した射は保てない。もう一度、基礎練習に切り替えたほうがいいな……。

的場で矢を抜いて片づけていると、手からこぼれた矢が落ちた。その弓に手を伸ばすと、自分ではない手がその弓を拾い上げた。腕を目で追うと、眼鏡の女の子だった。その弓を受け取る。

「ありがとうございます」

「浜風女学院の御園といいます。ここの寺の住職の娘です」

「はじめまして……! 花山高校の、雨宮です」

「そんなかしこまらないで。私、飛野と同じ生徒会で会長をしてるんです」

「え、麗の」

御園は椿の反応を見て、ふと笑った。

「雨宮さん、お茶は好きですか?」


弓道場を出て境内の中を進んだところにある社殿の縁側で、御園は抹茶を振舞った。茶をたてながら、麗の話を聞いて椿のことを知っていたのだということを話した。椿の苗字を聞いて、もしかしたら以前から時々弓道場を使用していた椿の祖母の親類ではないかと思ったのだと言う。

「おいしい……いい玉露ですね」

茶碗を両手で抱えて一口飲むと、抹茶の爽やかな苦みが広がった。香りがしっかりと粒立っていて、後味は甘い。お茶が好きな人が立てたのだと分かる。

「飛野と、飛野の後輩から聞いたんですよ。あなたのこと」

御園は悪戯っぽく笑った。知的な話し方だが、どこか少年のような雰囲気があって不思議な人だと感じる。

「飛野が好きな人だって」

「ん˝」

お茶が喉に詰まって咽た。げほげほと咳していると御園が横から湯呑に入った水をくれた。水を飲んで落ち着いた様子を確認してから御園はまた麗の話を続けた。

「飛野って、あいつ生意気なんですよね。あ、ごめんね。あいつとか呼んで。猫被ってるかもしれないけど学校ではそうなんですよ。努力が200%のクオリティで返ってくるから、結果的に周りの人よりも早く何でもできるようになっちゃう」

「たしかに、麗は器用ですよね」

ぼんぼり祭でヨーヨー釣りをしたときも何だかんだしっかりと獲得していたことを思い出す。

「ムカつくけどね。だけどそれって、努力しないで何でもできるのとは違うわけよ。生意気だから嫌われることもある子だけど、欲しいものは手に入れられるまで諦めないタイプだと思う」

御園と目が合う。爽やかなのに、腹の底が見えない気がして椿は戸惑ってしまう。

「えっと……麗の話をするために話しかけてくださったんですか?」

「あいつに好かれちゃって可哀想だね〜って言いに来たんだよ。と言ったら?」

「性格どうなってるんですか……」

椿のツッコミに御園は噴き出して笑った。

「はは、たしかに! これだと可愛い後輩の悪口を言いに来ただけになっちゃうね」

自分で言いだしたことをひとしきり笑ってから、あー面白い、と御園は話を戻した。

「君は、あいつのことどう思う?」

「今まで会ったことがないタイプ、ですね」

誰かに麗の話をすることに、まだ慣れていない。

「私も飛野以外には知らないなぁ、あんな破天荒な奴」

「破天荒で、何でもできて、誤解されやすい方だけど中身は優しくて……それで、多分わたしのことが凄く好き」

自分でも何を言っているんだろうと思った。麗のことを思い出して、言えることをそのまま口に出してしまった。しかし御園は否定したり笑ったりしなかった。深く座りなおして、うん、と頷いた。穏やかな声音だった。

「そうだね。君はどうなの」

「私は…………。もし私たちが付き合っていたら、御園さんはどう思いますか」

「私に聞くかい」

「女同士で付き合ってます、はいそうですかってなりますか」

「なるね。私の中では」

「即答ですね……」

少なくとも私の学校のクラスメイトや級友たちだったら即答してくれないだろう。その様子を想像したら胸がずきんと痛んだ。御園は椿を観察し、少し考えるように「う~ん……」と唸ってから言葉を選んだ。

「君はきっといろんなことを考えてる。傷ついたことがある人の話し方だ。詳しくは知らないけどね。でもさ、どうせ聞くなら……私みたいな部外者じゃなくて、飛野の声を聞いてやりなよ。君が話してやらないと、あいつが報われなくなってしまう」

御園の低めの声が胸にすっと入ってきて、椿の中にさまざまな麗の表情が浮かんだ。傘屋でわたしがクリームあんみつを作るのを眺めているときの柔らかい眼差し。ぼんぼり祭で階段から落ちそうになったのを助けてくれた時の凛々しい横顔。家族のことを打ち明けてくれたときの、寂しそうな顔。子どもみたいにはしゃいでいるときの笑顔。

麗はあんなにわたしに向き合い続けてくれていたのに、わたしは本当に成長していない。まさか告白されるほど好かれていたとは思っていなかったし、自分は麗には釣り合わないとも思う。でも思っているだけじゃだめだ。御園さんが言う通り、言葉にして麗と話をしないと。

「ありがとうございます、御園さん」

「その様子だと、お節介だったみたいだね?」

「御園さんは部外者なんかじゃないです。相談に乗ってくれたので」

さっき御園が自分は部外者だと言ったことを椿は聞き逃していなかった。

「君は面白いね、ふ、はは」

御園は笑いながら、鼻筋から落ちそうになっていた眼鏡のフレームを直した。


弓道場に戻るために境内の砂利道を歩いていると、向こうから砂利を蹴散らしながら走ってくる人影が近づいてきた。長い髪を乱して走ってきたのは、さっきから話題の中心になっていた麗だった。

「何してるんですか会長!」

椿と御園の間に割り込んで、麗は御園に詰め寄った。しかし御園は意地悪そうに片眉を上げて余裕そうに笑った。

「よう飛野。遅かったね」

「椿、この人に変なこと言われてない? 何かされてない?」

「大丈夫、そんな心配しなくても」

こんなに動揺している麗は、いつぞや椿が火傷しそうになったときぶりだった。

「お前の悪口を聞かせてただけだよ」

「会長……」

「なんで麗がここにいるの」

「この人に呼びつけられたんだよ」

麗は恨めしそうに御園を睨んだ。

「人のことを番長呼ばわりとはいい身分だね」

「変わらないでしょう」

「まあ、会長はもう引退するけどね」

生徒会長は毎年10月中旬の生徒会総選挙で代替わりする。御園の任期は残り1か月をきっていた。御園は飛野の正面に立った。真剣な表情から、さっきまでとは雰囲気ががらりと変わったことが伝わる。

「飛野。次の会長はお前がやれ」

背の高い杉の枝葉を揺らしていた風が止む。

静かながら力のある命令形だった。麗のこめかみに一筋の汗が流れた。

「いきなり、ですね」

「お前が提案した不登校対策の案、良かったよ。あれを実現させるには、飛野以外のメンバーが会長ではやりづらくなる」

「しかし、私は……」

「お前、人望ないもんなぁ!」

「ぐ、……その通り」

「会議中に紙飛行機折ってたって七瀬が言ってたぞ」

「あいつ!!!」

チクりやがったな!と麗の顔に書いてある。

「まあ、会長選は全校生徒の投票だ。私が一任するものではないが……」

麗は「紙飛行機はやめます」と平謝りしている。御園には頭が上がらないのだろう。二人の関係値にも興味はあるが、それよりも気になるのは麗が提案したという施策だ。

「不登校対策……」と椿が呟くと、御園は「言ってなかったのか?」と麗に言う。

「後で説明する」

麗は照れているのか気まずいのか目が泳いでいる。

「あとは二人でどーぞ。飛野、これは貸しだからな。生徒会長選は出ろよ」

「言われなくても出ますよ」

「じゃあね椿ちゃん。また道場で会おう」

御園は華麗にウインクをきめて踵を返した。きらりと星が飛びそうなウインクに、何も返せないで硬直していると麗は何かを勘違いしたのか急いで叫んだ。

「何、勝手に椿ちゃんって呼んでるんですか!!? 会長!!!」

麗は噛みつくように叫ぶが、御園はどこ吹く風でひらひらと手を振りながら本殿の方へ帰っていった。


嵐のように御園が過ぎ去っていった後、麗は生徒会で提案した不登校対策の概要を説明した。椿はそんなにも自分が話したことを麗が受け止めてくれているとは思ってもいなかった。麗には驚かされてばかりだ。まさかそんなことを麗が実行していたとは予想だにしていなかったのだ。

自己肯定感が低いのは自分でも悪い所だと思うけれど、麗にも「なんでそんなに自分の価値の見積もりが低いの……」と呆れられてしまった。

前に会ったのは水族館だったから、会って話すのは久しぶりだった。二人になると気まずさもあるけれど、御園さんに言われたように会話から逃げたくはない。

「言っていなかったついでで言うと、9月に入ってすぐ瑠衣さんに会ったんだよ」

「瑠衣ちゃんが⁉」

椿の幼馴染の瑠衣と麗は直接的な接点はなかったはずだ。

「麗には紹介してなかったよね?」

「ないね。初対面だったけど……殺されるかと思った」

麗は瑠衣のことを思い出して虚無の目をしていた。

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